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序章:「アンテノーラ -Antenora-」

 血腥(ちなまぐさ)いと、それすら感じなくなったのはいつからだろうか。


 日が昇り、日が沈む。それと同じように、繰り返されるだけのこと。

 飼われた人間には拒む権利すらない。

 生きるつもりがあるのならば、戦う。ただ、それだけだ。




 その日も、ルーノは剣を振るっていた。錆の浮いた、本当に剣の形をしているというだけの代物でも、人を斬れるだけで十分であった。

 この剣は、闘技場で支給されたもの。試合の際、皆が同じものを使う。それが決まりであるからだ。


 ルーノはこの闘技場へ奴隷闘士として放り込まれてから何年が経過したのか、はっきりとは思い出せない。暦に頓着するゆとりもなかったせいだ。しかし、幼く柔らかかった手が硬くなり、背丈も比べ物にならぬほど伸びたのだから、それなりの歳月は過ぎたのだろう。


 赤茶けた金髪は伸ばし放題で、それを無造作に縛っている。闘士たちの中では細身であるけれど、筋力がないわけではなかった。俊敏さで優るには程よい体格と言えるだろう。麻の簡素なチュニックとズボン、編み上げのサンダル。ここでは誰もが似たような恰好だった。

 身なりなど、ここでは意味を成さない。強いか、弱いか、重要なのはその一点のみ。


 ルーノは、強かった。

 今、目の前で横腹から血を流して突っ伏している男は、ルーノよりも弱かった。

 恨みも特にない。顔も覚えていない。


 今日は、年に二度ある特別な試合の一日目であった。年に二度の真剣による試合だ。普段は刃のない剣でする試合が多い。

 主催者側としては、毎回殺し合われても補給が追いつかないが、たまにこうして闘士たちを淘汰せねば、たいした働きもできぬというのに無駄飯を食らっている者がいることになると言う。

 だから、ここでは弱い者が死に、強い者が生き残る。それは自然界と同じ摂理であった。


「勝者、カルバハル陣営三十七番!」


 観客を煽る審判の声。光のすべてを集めるすり鉢のような闘技場に渦巻く歓声。

 それらをルーノは乾いた心で受け止めた。返り血はほとんど浴びていない。剣の刃についた僅かな血も、ルーノは審判に渡された布切れで拭き取って、その布切れを敗者の背に捨てた。


 肌を焼くような陽光が剣の刃に当たり、鏡のように照り返す。眩いばかりの光の舞台で、行われることの非道さとは裏腹だった。


 ルーノは舞台から無言で下がった。陽が当たらなくなった暗い小路を進む途中、闘士たちが次々と声をかけてくる。


「瞬殺だったな。ほんと、お前とは当たりたくねぇよ。同じ陣営で助かったなぁ」


 こちらの控えの間にいるのは、金主が同じ者同士である。ルーノを抱えているのは、カルバハルという名の肥えた成金だ。


 この陣営の闘士たちはぶつけられることもなく、いわば仲間であるのだけれど、ルーノはこれといって親しみを向けたことはない。何故なら、いつ金主の気が変わって、彼らのうちの誰かが敵の陣営に行くのか知れないからだ。そうなると、やはり斬らねばならない。顔の認識すらしたくなかった。

 自分たちは盤上の駒なのだ。金を積まれれば売られることもある。


 ルーノは淡々と前を向き、そうしてさらに奥の小部屋へと入った。その場所で、ルーノはようやく素の自分に戻れる。


「あー、胸糞わりぃ」


 腰に佩いていたショートソードをベルトごと引き抜いて硬い床に放り、ルーノはサンダルを脱ぎ捨てて硬いベッドの上に仰向けに倒れた。窓がなく、昼でも薄暗く湿気臭い部屋に埃が舞う。


 一闘士皆に個室が与えられるわけではない。ルーノはほぼ負けを知らぬ実績を誇るからこそ、金主にも少々目をかけられて個室を与えられている。それだけのことだ。

 そうして、身の回りの世話をする者が一人いる。


「ルーノさん、お疲れさまでした!」


 まだ十二歳。けれど、その実年齢よりもまだ幼く見える少年。顔立ちも少女のように優しく、とても剣など似合わない。


「レジェス、勝ったぞ」


 ルーノは誇るでもなく淡々と言った。それに対し、レジェスはクスクスと笑う。


「ルーノさんが負けるなんて、そんなことあるわけないですから。聞かなくてもわかります」


 信頼しきった笑顔である。

 レジェスがここへ放り込まれたのは三年ほど前だった。本当に弱々しい子供で、闘士になどなれそうもなかった。早々に命を散らすだけだと誰もが思った。誰もが、レジェスを人として見なかった。


 ならば何故、ここへ寄越されたのか。

 理由があるのだとすれば、それは殺されるためだけに来たと言えるのかもしれない。無垢で柔らかな肉に薄汚れた刃をねじ込まれ、喚き、呻いて血を撒く。悶絶の末に果てる、そんな様を観衆に見せるためだけの命。

 憐れな小動物が野獣の檻に入れられた。


 闘士たちは皆、レジェスをいたぶることばかりを考えていた。レジェスにもそれがわかっただろう。怯え、ひと言も口を利かずに部屋の隅で頭を抱えていた。

 だから、ルーノが拾った。


 自分の世話をさせると言って庇護した。ルーノに逆らおうとする者は、今のところこの場にはいなかった。金主にもレジェスに試合をさせないよう願い出た。ルーノが負けない限りはそれでいいとの返答をもらった。


 それはつまり、負ければレジェスもルーノの後を追うようにして死ぬということ。当人にそれを伝えたことはないが、頭のどこかでそれはわかっているのだろう。

 だからこそ、レジェスはルーノに全幅の信頼を寄せているようだ。


 ルーノの庇護下でレジェスはなんとか今日まで生き延びている。それがどこまで続くかはわからない。

 レジェスを庇ったのは、本当に気まぐれであった。ルーノには護りたいものも信念も何もなかったのだから。


 今も、試合をして相手の息の根を止めた。必ず命を奪えというルールではない。そうなってもいいというだけの話だ。 

 動きを封じるだけでよかった。それをするだけの技量の差はあった。けれど、殺した。

 それは、自分ならばそれでいいと思うからだ。


 傷を負って、闘技場でこの先も生きていけるとは思わない。遅かれ早かれ死ぬのだ。

 それならば、惨めに生きながらえるよりは死んだ方がいい。――なんて、自分が死の間際で本当に同じことを思うかどうかは知らない。


 それでも、いつかはルーノも負けて死ぬのだ。

 この世はどうしようもなく惨く、救いなどはかりそめでしかない。

 ただその時を遅らせる。それが唯一の悪あがきと言えるだろうか。


「ルーノさんは優しいから、本当はこんなこと苦しいだけですよね……」


 まるでそれが自分のせいであるかのように、レジェスは顔を曇らせた。飾りのない歪んだ杯に水を入れ、それをルーノに差し出す。ルーノは体を起こしてそれを受け取った。


「優しい? 優しいヤツは殺したりしねぇよ。殺されてやるだけだ。だから、ここには優しいヤツなんていねぇよ。胸糞わりぃのは、金持ちの遊びに振り回されてるって意味で、殺したから気に病んでるとかじゃねぇ」


 優しい人間がいるとすれば、それはレジェスだけだろう。

 レジェスは少し伸びた茶色の髪を振った。


「いいえ。ルーノさんは優しいです。そうじゃなきゃ、僕のことをこんなふうに助けてなんてくれなかったですから」


 この魔所で、レジェスにとってルーノは唯一の救いであるのだ。だから買いかぶっている。ただそれだけのことに過ぎない。

 実際のルーノは、もっと残忍で薄情だ。


 けれど、レジェスがそう買いかぶるから、しばらくはそれに付き合ってやってもいいかと、そんなふうに過ごしている。それがいつ終わるのかはわからないけれど。


 この世は惨い。ここへ来る前にそれを知った。

 もう、何にも期待はしない。希望も持たない。ここで朽ちて、いつかは無になる。

 生まれも育ちも、最早たいした意味を持たない。


「そんなこと言ってねぇで、お前はオレがいなくてもここで生きていけるように強くなれ」


 吐き捨てるように言って、そうして水を一気に飲み干した。水のせいなのか、口のせいなのか、鉄臭い味がした。

 空になった杯を受け取ると、レジェスは悲しげに笑った。


「無理ですよ。いいんです、ルーノさんがいないなら僕だって生きていられなくても。どこまでもお供しますから」

「……馬鹿なこと言うなよ、お前は」


 そう言うものの、レジェスの細腕では剣など振れない。振れるようになる前に潰されることだろう。当人が言うように、結局のところ、ルーノが死ねばレジェスも生きられないのだ。


 背負うのは好きではない。他人の命など背負いたくない。自分の命すら、ルーノにとっては羽毛ほどに軽いものだから。


 けれど、レジェスはいいんです、とだけ繰り返した。




 その晩、ルーノは騒がしい食堂で一人黙々と味気ないスープとパンを齧っていた。ここは粗っぽいから、レジェスを連れてこない。レジェスの分は持って帰ってやる。

 ここには酒などない。勝てば褒賞として与えられることもあるけれど、嗜好品などすぎた餌だ。


 ルーノは話しかけられることを嫌う。それを知っている者は話しかけない。それに気づかない者と、知りつつも媚びを売りたい者、それから負け犬だけが声をかけてくる。


「よぅ、センパイ。また危なげねぇ勝ち方だったなぁ。勝ち進んだら褒美はなんにするんだい? 酒か、女か? いいねぇ、羨ましいぜ」


 ルーノよりも頭ひとつ大きく、横幅は倍近くある男が絡んできた。いつもふざけてルーノをセンパイと呼ぶ。男はルーノよりも年嵩であったけれど、ここいるのはルーノが先であった。ルーノは古参である。周りはどんどん負けて死に、常に入れ替わる。長い付き合いの者などほぼいない。


 ルーノは男に何も答えなかった。この男はいつもこうで、無視していれば勝手に去っていくことを知っているからだ。相手をしてやることもない。


 がやがやとうるさい食堂。ルーノだけがいつも浮いている。

 それでもまた、懲りずに話しかける者がいた。


「ルーノ、おめでとう」


 パトリシオ。

 レジェスほどではないが、小柄な男だ。ルーノと年が近いようで、何かと声をかけてくる。その顔にはいつも媚びが浮かんでいて、ルーノはこのパトリシオが大嫌いであった。額の中央からふたつに分けた黒髪を、パトリシオはさらに手ぐしでかき上げる。その仕草のひとつひとつに苛立つ。


 返事など、いつもしない。それでもパトリシオは勝手に話しかけてくるのだ。


「聞いたかい、ルーノ」


 親しげに呼ぶ声が不快だ。お前など、何も特別ではないという目で睨んでやる。それでも、パトリシオは続けた。


「この国はまた戦を始めるんだ」

「……」


 この国は、まるで獅子が座ったような形をした『オディウム大陸』という地の一角である。

 国の名は、サテーリテ王国。獅子の尾に例えられる、オディウム大陸最南端の土地。


 ルーノが知っているのはそれくらいのことだ。もともと、ルーノはこの土地の生まれではない。ここへ来るはめになっただけなのだ。だから、ここへ来る前、幼い頃に少しばかり学んだ諸国の歴史も、不要だとばかりにもうほとんど頭に残っていない。

 一介の闘士風情には大陸の情勢など関りがない。戦で戦うのは兵であり、将である。自分たちではないのだから。


 このパトリシオは獄吏のような闘技場の管理者たちともよく話す。媚びることが得意だからと最初は思っていたが、こう見えてパトリシオは幅広い知識を持つ。どこの出身で、どう育ったかなどということは、ここに放り込まれた時に失くすも同然であるから、それが何故なのかは知らない。興味もない。

 管理者たちもその知識を認めるから、話くらいはするのだろう。


 しかし、戦など起こったからなんだというのだ。

 この闘技場が潰れるのなら願ったり叶ったりだ。戦のせいで運営資金が足りなくなると、そういう話であるのならルーノは逆に腹を抱えて笑ってやりたくなる。


 すると、パトリシオは耳打ちするようにそっと言った。


「ここだけの話、今回は相当ヤバいらしい。なんせ大国ソラールが攻めてくるんだ。兵はもちろんのこと、僕らも駆り出されるかもしれない」


 瞠目して顔を向けたルーノの肩にパトリシオは手を回した。それは蛇が這うような薄気味悪さである。


「ここは監獄みたいなものだ。放り込まれたら出られない。僕たちはオーナーに所有されるだけのオモチャだ。でも、今回の試合で結果を残せば、ここから出て戦の陣営に加えられるって。そうしたら、自由だ。戦はもちろん恐ろしいものだけれど、ここも煉獄、自由なだけ向こうの方がマシだろう」


 ――外へ出られる。

 この闘技場は山と海に囲まれている。よしんば脱走が上手くいったところで野垂れ死ぬだけだ。そんな可能性はとうの昔に捨てた。今さらそんなことが起こるというのか。


 パトリシオの言うことを真に受けるなど、馬鹿げている。そう忠告する自分もいた。

 ルーノはパトリシオの手を跳ねのけた。そうして、冷ややかに言う。


「それなら、戦に駆り出される前に()られねぇようにしな。お前の技量じゃ、いつ死んでもおかしくねぇだろ」


 そう、パトリシオはそれほど強くはない。ここへ来たのはレジェスの少し後だった。今まで生き抜いてこられたのは、剣の腕だけではないような気がした。

 パトリシオはどこかゆとりを持って笑っている。


「そうなんだ、今までのじゃ駄目なんだ。だから、今度は戦も見据えて大物にしないと」


 赤い唇がそう言った。意味は知らない。けれど、やはり薄気味悪かった。




 パトリシオの話はどうやら本当であった。

 闘士たちに隠し通すこともできなかったのか、口の端に上るようになった。

 戦を恐れる者は少なかった。常日頃、戦いの最中に身を置いているのだからそれも当然だろうか。本当の意味で戦を知っている者だけが恐れ、知らぬ者が嗤った。ただそれだけのことであったのかもしれない。


 ルーノは、戦を知っていた。その只中を逃げ惑った。死に別れた。そして――。

 苦い記憶を呼び覚ます夢見の悪さに、ルーノは眉を顰めてまぶたを開いた。それをレジェスが素早く察知して硬い床から起き上がる。


「ルーノさん?」


 布一枚敷いただけのレジェスの寝床は、寝心地などよくないだろう。それでも、戦うことをしないレジェスにはそれが相応である。むしろ、この部屋の中にいられるだけでゆっくりと眠れるのだから。当人もそれをわかっていて、不平など漏らしたことは一度もない。


「なんでもない」


 いつもとの僅かな差異に敏感に反応する。レジェスは馬鹿ではない。

 ルーノも真剣試合ともなると緊張するのかと、レジェスなりに思っただろうか。そう思うのならそれでいい。あえて否定はしなかった。


「いよいよですね。僕はただ、ルーノさんの勝利を信じています」


 そっと、レジェスは微笑む。その信頼に、ルーノは応えようと気負うことはない。けれど、背負っているという自覚はある。だから、負けない。



 照りつく太陽の下。砂埃の舞う舞台。円形の客席いっぱいに黒く埋まった人の群れ。

 うるさい。

 興奮した人々の中心にいて、ルーノは誰よりも冷静だった。相手は、ここまで勝ち抜いてきたのだから弱くはないのだろう。二度、同じ相手とまみえることはない。一度きり、今日――どちらかが死ぬ予感がある。


 審判の声に向き合う。

 対戦相手は、そう年若くもない。ルーノよりも十は上だろう。

 この魔所の只中、何を思って過ごしたのか。


 こんなところへ自らの意志で来る者はいない。何かがあってここにいる。

 いつか、出られる日を夢見ていただろうか。戦に駆り出されるという噂を前に、何を思っただろうか。


 けれど、そんなことはもう無意味だ。今、ここで死ぬ。

 ルーノの剣が切り裂く。この世に慈悲はない。


 ギィン、と金属音が立つ。それを観客の声が押し潰す。

 音は邪魔だ。ここでの戦いは無音に等しい。音はあてにならない。

 目と、風が相手の動きを知るすべだ。


 相手も勝つ気でいるのが伝わる。ルーノに勝てば生きながらえる。ただし、それは救いなのかはわからない。この先の未来を知ることが幸福とは限らない。

 何か、守りたい者でもあるのだろうか。


 少なくとも、今のルーノにはあるのだ。だから、相手の希望も命も、すべて踏みにじる。それが残虐な行為であったとしても、選び取る。


 ルーノは、対戦相手の間合いに飛び込んだ。仕留めるつもりで振るった剣を相手は止めた。軽く目を眇めたルーノを、相手は剣で押し戻そうとする。剣を合わせ、二人が最も近づいた時であった。


「――君の剣は、少々自己流に傾いてはいるものの、カブレラ流ではないか? その流派を習うことができるのは、ほんのひと握りの……」


 ボソリ、と男がつぶやいた。その時、ルーノには隙ができた。剣を押し戻され、その流れで脇腹を僅かに斬られた。じわりと血が滲む。軽くかすっただけであるが、傷つけられたのはいつ振りだろうか。

 相手の男は、剣を構え直した。それは独特の型であった。剣先をルーノに目がけ、突きに特化した型だ。



 ――素早い敵には突きを繰り出す。よいですか、腕だけで突くのではありません。足、腰、体のすべてが一体となった技でなければ返り討ちに遭うのみです。



 雑音のように耳に蘇る。習ったのはいつだったか。


「君たぁ、気取った男だな。騎士崩れか」


 相手には、ルーノの声など聞き取れなかっただろう。白熱する戦いに歓声が熱を帯びていく。相手の足が踏み込む。熱い風を切り、剣先が迫る。


 けれど、ルーノはそれを容易くかわし、振り向きざまにその背を裂いた。血が、赤い翼のようにして噴いた。その飛沫が雨のようにして降ると、男は倒れ、そうして動かなくなった。

 ルーノは虚しくつぶやく。


「こんなガラクタ剣でまともな剣術ができると思うな。突きなんぞに向いちゃいねぇよ」


 勝利になんの感慨もない。常に自分を置き去りにして観客が騒ぐだけだ。


「勝者、カルバハル陣営三十七番!」


 いつもの審判の声。

 ルーノはぐるりと客席を見回し、そうしていつものごとく剣を拭き取って剣を鞘に納めると、舞台を降りようとした。それを審判が制する。


「優勝したのだから、もう少し観客に愛想を振り撒いていけよ」

「……なんのために?」


 別に、観客のために戦っているという意識はない。だから、本当に意味がないことだ。

 審判は呆れた顔をしたけれど、ルーノはいつもこうである。早々に諦めた様子でルーノを見送った。

 とりあえず、勝ったと報告すべきはレジェスだけだ。闘士たちの住処である地下でさえ、歓声は地響きのようにして届く。だから、レジェスも報告せずとも感じているのかもしれないけれど。


 薄暗い階段を下りていく。闘士たちも皆、決勝戦ということもあり、見晴らしのよい場所から観戦していたのだろう。ほぼ人に会わなかった。

 レジェスには、優勝者がこんなところに引っ込んでいていいんですかと笑われるかもしれない。けれど、勝ったからといってそれを誇りたい気持ちはない。必要だから戦って勝った、それだけのことだ。


 皮でできたサンダルの底板が階段を下りるたびにカツカツと音を立てる。外と比べると肌寒ささえ感じた。暗く、寒い。


 ざわり、と何故か嫌なものが体にまとわりつくような、そんな気がした。

 これはなんだ。今しがた殺した男の亡霊か。

 そんなことをふと思って苦笑した。


 カツン、カツン。

 階段を下りる。

 部屋はすぐそこだ。


 扉は――少し開いていた。


 レジェスが戸締りをしないわけがない。それなら、どうしてあの扉は開いているのか。

 別の誰かが入った。そういうことだろうか。

 誰かがレジェスに悪戯をしかけたのか。


 ハッとしてルーノは走った。木の扉を押し広げ、そうして自らの部屋の中で見た光景に目を疑った。


「おや……もう戻ってきてしまったのか。勝者はちゃんと祝福されてこなくっちゃ駄目じゃないか」


 赤い唇が三日月のように弧を描き、笑った。ぞくり、と肌が粟立つ。

 誰と剣を構えて立ち合おうとも感じたことのない感覚であった。


 パトリシオがルーノの部屋の中央に佇んでいた。手にはどす黒い革表紙の書物。もう片方の手にはナイフ――そうして、パトリシオが描いたのか、床には円陣がある。その円陣は血で描かれている。その血は、パトリシオのものではない。


「お、まえ――っ」


 声が震えた。円陣の中央にいるパトリシオから少し離れたところに横たわるレジェスは、最早息をしていない。目を剥いて、首から血を垂れ流している。虚ろな骸であった。


「これから戦に行かなくちゃいけないんだ。これはそのための準備だよ。僕はここへ来るまでずっと、悪魔研究を続けていた。僕は悪魔を使役することができるんだ。いつもは低級の悪魔しか呼び出さないけれど、今度はそういうわけにはいかない。上級悪魔を召喚するためには贄が必要だから、ちょっと()()をもらったけれど」


 自分でも芯から沸き上がる感情を理解できなかった。怒りなのか、悲しみなのか、諦めなのか。ただ、体が震える。目の前の男を殺したい。

 明確な殺意を、ここへ来て初めて抱いた。今までは、どれだけ屍を積み上げても、殺したいと思ったことはない。殺したくないとも思わなかった、ただそれだけのこと。


 ルーノの眼光に、それでもパトリシオは怯まなかった。それどころか、笑っている。


「怒ったのかい? でも、無駄さ。君はもう僕には勝てない。ほら、契約の陣は成った」


 赤い円がどす黒い光をまとう。火が灯るにも似ていた。

 窓がないはずの部屋の中、どこからともなく風が起こる。パトリシオの耳障りな笑い声が部屋に響き渡った。


「君は僕には勝てない。僕が使役するのは、上級悪魔、六柱が一。その昔、大陸ひとつを滅ぼしたとされる大悪魔フルーエティだ――!」


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