上海での出会い
サッカーの練習を始めて半年が経った。
思い返せば早いものだ。この間私は誕生日を迎え四歳になっている。一週間のローテーションを繰り返す中であっという間に時間が過ぎていった。
平日は家の中でできる練習。足回りでのボールコントロールやドリブルの練習。しばらくは実際の試合の映像を見ながら自己流で練習していたけれど、お父さんがボールマスタリーというDVDと本がセットになったトレーニングメニューを買ってきてくれてからは一気にテクニックの向上が進んだように思う。
また、リフティングにも取り組んでいる。母に室内でボールを蹴り上げているところを見られると大目玉を食うので、常に母の気配に注意しながらやっている。母の気配を感じた瞬間ボールを殺し、足下でのトータップやスライドに切り替えるのだ。
慣れてからは敢えて母の近くでリフティングをし、母が振り返って視界に入りそうになる瞬間に足下へ落とすということもしている。からかうように天井すれすれまで蹴り上げたりもする。
が、敵も然る者。私が背後でリフティングしていることに薄々気付いていたのか、ある日フェイントをかけて振り向いてきたのだ。ちょうど蹴り上げた瞬間でどうしようもなかった。結果として激怒した母によりこめかみを両拳で圧迫される罰を受けることとなってしまった。
けれどそれくらいで諦める私ではない。母がフェイントをかけてくるのならその上をいけばいいのだ。コツと言えるほどのことではないが顔を上げて母の挙動を注視する。その状態でボールを見ずにリフティングをするようにした。最初の内はリフティング二回に一回顔を上げるように。その内一回に一回。どんどんボールを見る頻度を減らしていく。今では一切ボールを見ること無くリフティングを続けられるようになった。
休日はお父さんと公園に出る。家ではできないような大きなプレーが練習の中心になる。最初に教えてもらったインステップキックに続いて各種キック。胸や頭、ももでのトラップ。それらを使っての短距離から長距離までのパスワークなど。
公園の金網をゴールに見立ててシュート練習もした。キーパーを務めるお父さんに、非力な私のシュートでもキャッチされないようコースへの蹴りわけやカーブをかけたキック。視線でのフェイントなどの各種シュートテクニックが自然と増えていった。
お父さんは私の上達がとんでもなく早いと褒めてくれる。親の欲目もあるだろうから額面通りには受け取れないが、自分でも確かに成長しているという実感があった。
一方で上手くいくことばかりでなく、失敗もある。
「うぎぎぎぎ」
「……何してるの、美鶴?」
自室で歯を食いしばり、うめき声を上げていた私に、仕事から帰ってきたお父さんが声をかけてきた。
「うぐぐぐぐぐ、う、腕立て伏せ」
「…………」
上下動を続けながら答える。き、きつい。
そう。サッカー選手としての訓練の傍ら、兇手時代の身体能力を取り戻すためのトレーニングにも取り組んでいた。筋力を必要としない能力については既に身につけているが、これ以上の領域に至るにはどうしても筋肉を付ける必要があったのだ。
「えっとね……美鶴」
「何? お父さん」
「そうやってストイックに訓練に取り組める美鶴はとてもすごいとお父さんも思うんだけど……筋トレはまだ早いよ」
「え゛……そうなの?」
「うん。もともと子供のうちは骨が成長したり体が大きくなるほうにたくさんエネルギーが使われるから、筋トレをしてもほとんど筋肉は太くならないんだ」
「…………」
「成長を促すために筋トレは効果があるという説もあるけど、それも小学校高学年くらいからかな。それよりも負荷をかけすぎてけがをするリスクのほうが高い。今の美鶴くらいのうちは普段の運動だけで十分だよ」
マジかー。これまでの苦労を思うとショックが大きい。
え? っていうか前世では組織に拾われた直後から死ぬほど筋トレもさせられたんだけど、あれって全部逆効果だったの?
組織であてがわれた教官達の顔を思い出し、頭の中で縊り殺していった。
「これからは柔軟だけにしとく」
「そうしなさい」
◇
「美鶴、今日は公園に行ってみましょうか」
ある平日、母が突然そう言い出した。
どういう風の吹き回しだ? いつも外出は買い物や食事くらいで公園に連れて行ってくれたことなってこれまで一度もなかったのに。
「え? 公園?」
「そうよ。サッカーボールも持っていらっしゃい」
「いいの?」
「ええ。もちろん。これからも連れてってあげる。……その代わり家であのボールをぽんぽん蹴るのは止めなさい」
なるほど。そっちか。
母としては家の中でのリフティングを止めさせるための交換条件のつもりだったらしい。
「ボールカバー取ってくるね」
リフティングを止めるという言質は与えず、部屋に走った。
母と手をつないでやってきたのは、いつもお父さんと行く公園より家から近く、その代わりに狭いところだった。私たちと同じように親に連れられてきたとおぼしき子供たちが好き勝手に遊んでいる。
「それじゃあお母さんは木陰で見てるから。見えないところには行かないでね」
練習に付き合ってくれるわけではないらしい。まあこちらもそこまでは期待していない。
それじゃあ、何しようかな。
結局公園内に設置されたトイレの壁に向かってシュートの練習をすることにした。リフティングは別に家でもできるし。
最初はプレースキック。次にころころと適当に転がしながら追いかけてワンタッチで。コースに蹴りわける。右上隅。左上隅。右下隅、左下隅。思い通りのところへ連続で決まるようになってきたらさらにシュートスピードを速く。あるいはカーブをかけて弧を描くように。いろいろ制限をつけて難易度を上げていく。
『おい、お前!』
そんなことを30分ほど続けていただろうか。後ろから突然声をかけられた。もちろん気配が近づいてくることには気付いていたけれど、特に殺気もなかったから放っておいた。それが一体何の用か。
『私に何か用?』
シュートする足を止めて振り返ると、そこには男の子がいた。短く刈り込んだ黒髪をツンツンと立たせている。歳の頃は私より一つ二つ上だろうか? 身長が私より10cmほど高い。小脇にサッカーボールを抱えている。どうやら彼もサッカーをやるらしい。
『お前、サッカーできるのか?』
『私が何をしていたのか見てたなら分かるでしょう?』
『そうか……なら俺と勝負しないか?』
ふむ。お誘いか。考えるまでもなく結論は出た。誰かとサッカーをやる機会は貴重だ。今のところ一緒にやってくれる相手はお父さんしかいないのだ。同年代の子供との力の差を測る良いチャンスでもある。この機会に飛びつかない理由はない。
『いいよ。何をするの?』
『一対一でどうだ。ドリブルで相手を抜いたら一点。攻守は交代交代だ』
『分かった。それでいこう』
『よっしゃ。じゃああっち行こうぜ』
広いスペースへ案内され向かい合う。
彼が自分のボールでやろうというので私のボールはお母さんの方へ蹴って預けた。
入れ替わる様に彼がボールを投げてくる。私のと同じ3号ボールだ。
『お前の先攻でいいぜ。……そういや、お前の名前は? 俺は哲林だ。王哲林』
『哲林ね。覚えた。私は美鶴だよ』
『ミ、ミツル? 変わった名前だな』
『日本人だからね。中国風に読むならメイフゥーかな』
『お前日本人だったのか!? 中国語うめーな』
『まーね。それじゃあ哲林、行くよ』
『おう。どんとこいや、メイフゥー』
一回戦。私の攻撃だ。
彼我の距離は約5m。これくらいスペースがあるならスピードに乗って躱すも崩して躱すも自由だ。選択肢は無数にある。それならまずはアレを試してみよう。
ゆっくりとスピードを上げながら接近。ステップは小さく。足からボールを離さないように進む。相手まで後二歩というところ。ここでしかける。哲林の右側を抜くぞというように体を傾け軸足を踏み出す。哲林は動かない。蹴り足を浮かせて体を前へ。ここで彼が同じ方向へと重心を動かした。
ここだ!
私が蹴り足を浮かせたのはフェイク。軸足をケンケンするように前に出して右前方へ流れた体を切り返す。同時に蹴り足は逆を突く左へとボールを蹴り出した。既に重心を右へ移していた哲林はこの動きに対応できない。バランスを崩す彼を尻目に左側を抜いていった。五歩ほど進んだところでボールを止めて振り返る。
『私の先制点だね』
『うっせー。すぐ取り返してやるよ』
威勢の良い彼にボールを渡してやる。先ほどと同じ程度の距離を取って向き合う。
さて、彼はどうしてくるか? 哲林もゆっくりと近づいてくる。二人の距離は約二歩。さっきと同じ展開だ。これは偶然じゃない。おそらく。
哲林は左方向への抜け出しを計る。蹴り足も同じく左へボールを動かす。さらに軸足をもう一歩左へ。けれど今度は蹴り足を出さない。私がさっきやったのと同じボディフェイントだ。見切っていた私は彼が逆方向へ蹴り出す前に足を出してボールをカットした。
『これで一点リードだよ』
『ちッ。読まれてたか』
攻守交代。再び私のドリブルだ。次はどうしようか。さっきはゆっくりしたフェイントで抜いたから、今度はスピードで行こうか。あくまでステップは小刻みに。けれど今度は早々にトップスピードへギアを上げる。
そのまま哲林の二歩前でほぼ直角に曲がる。スピードは落とさない。フェイントを警戒していた彼は一瞬出遅れる。けれどさすがに身長差からくる一歩の大きさの差はいかんともしがたい。すぐに追いすがられる。ここで切り返し。哲林も必死で食らいついてくる。さらにもう一度切り返す。体が大きい分、体重も私よりある哲林はここで付いてこられずバランスを崩した。それを横目に脇を抜いてやった。
『はい、哲林の番だよ』
『……おうよ』
再度の攻撃成功に気をよくしてボールを渡す。けれどこの選択は悪手だった。静かに闘志を高める哲林は先ほどの展開のように、私と同じ戦術を選択した。スピードを上げた彼は私の届かないところにボールを蹴り出し、私より先にボールへ追いつく。これにはなすすべ無くじりじりと距離を離されるしかなかった。距離が開いたところで哲林は悠々と方向転換し、後方のエリアへと侵入したのだった。
『そらよ。これで一対二だ』
『それはずるくないかな』
私の抗議になんのことだと知らん顔してボールを返してくる。
いいよ。そっちがその気なら私は完膚なきまでにテクニックで抜き続けてプライドを潰してやる。
ゆっくりと接近。至近距離で一旦ドリブルを止めてボールを押さえる。哲林は何のつもりだと顔をしかめながらもどっしりと構えて動かない。その彼の前にボールをひょいっと出してやる。右足を出せば簡単に届く距離。哲林の右足がぴくりと動く。反射的に足が出てくるのに合わせて足裏で擦ってボールを引き戻す。後には完全につられた間抜けが一人だ。トータップの要領で左足から右足へ。右足の甲で前にボールを押し出して哲林の軸足側を駆け抜けてやった。
哲林は再度スピード勝負を挑んできてこれで三対二だ。
『私のリードは変わらないね』
『うるせぇ、ここで追いつくさ』
さぁ、次はどうやって抜いてやろうか。股を通してやるか、あるいは頭上をループで越えるか。
ゆっくりと近づいていく。近づきながら体を軽く振って揺さぶりをかける。けれど視線が揺れる様子はない。ただ慎重に期を計っているようだ。いったい何を狙っている? まあいい、振り回してやると動き出そうとした瞬間だった。哲林が身を寄せてくる。咄嗟にボールを戻して。
けれどそこで私は考え違いに気付いた。哲林の狙いは最初からボールじゃなかった。体を当ててくる。そしてそのまま圧力をかけてきた。予想外の力がかかった私はバランスを崩し、ペタンと尻餅をついてしまった。
『よう。今度は俺の攻撃だぜ』
目の前でボールを押さえた哲林が私を見下ろしながらそう言ってくる。憎たらしい。
攻守交代。勝ちパターンが決まっている哲林はまたスピード勝負でくるのかと思ったけれど、今度はスピードは緩やかだ。そして至近距離まで近づいたところで私の左側へ飛び出す。併走。けれど哲林の右足でコントロールされるボールとの間に体を入れられ、ボールへアプローチできない。そのままちぎられて抜かれた。
『同点だな』
『そうだね』
どうやら、哲林は自分のアドバンテージを最大限に活かす方向に舵をきったらしい。即ちフィジカル勝負だ。
なるほど、良い選択だろう。私が相手でさえなければ。彼我の身長差は約10cm、体重差はおそらく5kg程度。将来、男子選手にフィジカルで張り合えるかを測るいい試金石だ。スピード勝負に徹さなかったことを後悔させてやる。
スタート。さっさとスピードに乗る。哲林の出方を単純化させるために早々に哲林の左方へコースを取った。併走してくる哲林。さあ体を寄せてこい。
狙い通り肩でのチャージをしかけてくる。接触。瞬間、上体から完全に力を抜く。隣を走る哲林は予想していた押し返しによる支えがなく、焦った顔。二人の体が傾いていく。膝と足首を柔らかく使ってギリギリまでバランスを保つ。哲林の体がもう立て直せないところまで来たと判断した刹那、前方へと跳躍。身を躱して立て直す。哲林はそのまま転倒した。
『さ、次は哲林の番だね』
『…………』
哲林は何が起こったか分からない顔をしている。私がやったことは単純だ。今の私の筋量ではどうあがいても押し合いでは哲林に勝てない。だから関節可動域などの柔軟性とボディコントロールに勝負を絞った。それに傾きからの復元性も重心が低く軽い私のほうが有利だった。これもフィジカルで勝ったと言えるだろう。
再度の攻守交代。
混乱状態から立ち直れない哲林は先の成功体験と同じ行動をとる。またも併走。今度はこちらから仕掛ける。哲林の左脚に私の右脚を添え、軽く内側へと押してやる。瞬間、哲林はよろめいて体勢の維持でいっぱいいっぱいになる。スピードが落ち、ボールコントールも乱れたことで易々と奪うことができた。
何も人のバランスを崩すのに力一杯体をぶつける必要はない。人体の的確なポイントにそっと余計な力を加えてやることで簡単に乱すことができるのだ。
『これで、また私の一点リードだよ』
『ハァッ、ハァッ、ハァッ……』
膝に手を着いて大きく息をしてる哲林。自分より小さな女子にボディコンタクトで負けるのは、ちょっとショックが大きすぎたかな。念のためフォローを入れておく。
『それにしても人と一緒にサッカーをやるのは楽しいね』
『ハァッ、ハァッ……いつもは一人でやってるのか』
『平日はね。休日はお父さんといっしょだけど、こんな風に一対一をやったのは初めてだよ』
『そうか』
『それに哲林もすごいね。全力で走られると全然追いつけないもん』
『……まあな。俺は仲間内でもスピードスターで通ってるからよ』
男の子って単純。ちょっとおだてるとすぐ調子を取り戻した。
『友達にもサッカーやってる子がいるんだ』
『ああ、今日はたまたま誰も都合が合わなかったけど、近所の同い年のヤツと連んでて他に四人いるぜ。そうだ。今度はお前も来いよ』
『いいの?』
『お前は女のくせになかなかやるからな。それに俺ら五人で半端だからよ。いつも一人余るんだよ。そんでキーパーやらされたりな。でもお前が来たら三対三でやれるだろ』
『分かった。母親が許してくれたら私も参加するね』
『あん? 何だよ。サッカーするのに親の許しがいるのか? ガキだな』
『まあ、まだ四歳だからね。勝手に出歩かないように言われてるんだ』
『俺の一こ下か』
そんな話をしてると噂の人物がやってきた。
「美鶴ー。そろそろ帰るわよ」
「わかった。ちょっと待ってて」
気付けば空は赤らみ始めている。今から帰って食事の準備を始めればちょうど夕食時だろう。
『それじゃあ、私帰るね。再見、哲林』
『おう。俺らはだいたいこの公園にいるからよ。いつでも来いよな。美鶴』
母といっしょの帰り道。
「楽しかった、美鶴?」
「うん。同年代の子といっしょにサッカーやるの初めてだったし。あの子、私の一つ年上なんだって」
「ふーん。ところであんた……なんで中国語話せるの?」
「え? ………………TV見てたら覚えた」
「何それ!? 美鶴、あんた天才なの!?」
「そうなのかな? 私からしたら何でお母さんが話せないのかの方が不思議なんだけど」
「話せるわけないでしょ!? 普通TV見てただけで!」
「お父さんは話せるじゃん」
「お父さんは日本にいるときしっかり勉強してたの! 大学の時の第二外国語も中国語だったし」
「それじゃあお母さんも勉強あるのみだね」
「ぐっ……自分が話せるからって…………幼児は覚えがいいのかしら?」
母はぶつぶつと落ち込みだした。
けれど盲点だった。そうか、中国語か。確かに不自然だ。私が話せると。私にとっては最早こちらの方が母国語と言えるほど馴染みが深い言語なので自然と話していたけれど軽率だった。
まあでも話してしまったものは仕方ない。このままTVで覚えたで押し通そう。幸い母が信じたのだ。お父さんも何とかなるだろう。それより今気になるのは。
「お母さん、これからも一緒にサッカーしようって誘われたんだけど、また公園に連れてってくれる?」
「え? …………行きたいの? どうしよっかなー?」
……このアマ。
私の弱みを握ったとばかりにニヤニヤ顔の母。
「お願い。お母さん。私あの子達とサッカーしたい」
「そっかー。うんうん。…………家の中でボールをぽんぽん蹴るやつ。リフティングだっけ。あれをしないって約束するならいいわよ」
どうやら家を出る前に言質をとれてなかったことを覚えていたらしい。
「……………………分かった」
渋々そう答えるしかなかった。