トレーニング開始
プロサッカー選手に私はなる!
と意志を決めたものの、具体的に何からすれば良いのか。考えてみると前世(便宜上そう呼称することとする)では、サッカーは観るだけで自分でやったことは一度もない。ボールを蹴ったことさえないように思う。人の頭なら幾度となく蹴り飛ばしてきたのだが。スーパースター達の華麗なプレイは知っていても、その基礎として何をすべきなのかが分からない。
これは出足からいきなり躓くか、と思われたとき救いの手は以外な所から現れた。お父さんだ。お父さんは子供の頃からサッカー少年で、高校生のころは県大会の決勝まで行ったこともあるらしい。なので成長過程ごとの練習メニューを一通り体験していた。その上私がサッカー選手になる宣言をしたことにたいそう喜んだお父さんは最新の子供向けサッカートレーニングに関する教本まで買い込み、私を指導してくれることになった。
お父さん曰く、私ぐらいの年齢ではまずボールに慣れることと色々な体の動かし方を体験してみること。それに何よりサッカーが楽しいと感じられることが重要とのことだ。
最後の一つは何なのかと思ったので率直に聞いてみた。すると返ってきた答えは、とにかくサッカーに対する興味を強めることが、上達への近道なのだということだった。言葉にしてはいなかったけれど、幼児は飽きっぽいので集中力を持たせることが肝要だという意図が裏にあることを察した。
けれど私はサッカーへの思い入れは十分だし、中身は18歳なのだ。その点は問題ないということで、サッカーを楽しいと思うためのメニューは謹んでお断りし、もう少し実践的なメニューを考えてもらうようお願いした。お父さんは少し寂しそうだった。
前者二つ、ボールに慣れること、体の動かし方を体験することというのは至極もっともだと思ったので、お父さんがいない平日はこれに注力することとした。教本と同時にお父さんが買ってきたボール(3号球)を家の中で日がな一日触れ続ける。足の裏ですりすり。足の内側と外側でペしペし。甲でころころ。母の逆鱗に触れるので強打はしない。
そして休日。お父さんに連れられて、家から少し離れた大きな公園へやってきた。公園では太極拳の練習をする老人たちやランニング中の青年など皆がめいめいに楽しんでいる。私とお父さんは人のいないスペースに陣取って向かい合う。
「いいか、美鶴。サッカーの基本は止める。運ぶ。蹴るだ」
「止める。運ぶ。蹴る?」
「そう。要はトラップ。ドリブル。そしてシュートやパスのキックだな。プロのどんな華麗なプレイもこの基本の応用からできている。後は強いて言えばヘディングかな。まあトラップの一種ということもできるかもしれないけど」
なるほど確かに。お父さんの説明はすんなり納得できた。
「それじゃまずはキックからやってみようか」
そう言ってお父さんはインステップキックのやり方を教えてくれる。口で説明した後実際に軽く蹴ってみせる。軽く蹴られたボールが私に向かって転がってきた。
「それじゃあ美鶴もまずはやってみろ。うまくできなくても最初はいいから」
「うん。いくね。お父さん」
お父さんの先ほどのキック。それに前世で好きだったあのサッカー選手の蹴り方をイメージしながらステップする。ボールの真横に踏み込んでピンと伸ばした足の甲をボールの中心に叩きつけた。ボッと音をたててボールはお父さんへと飛んでいく。
「お、いいぞ。それじゃドンドン蹴ってこい」
「うん」
お父さんはトラップしてボールを返してくる。先ほどのキックはまっすぐ飛んだもののお父さんの手前でバウンドしてしまった。イメージ通りに蹴れてはいたのだけどこの体の非力さゆえだろう。筋肉量が全く足りないんだ。それなら。下半身だけで足りないのなら他の筋肉も足せばいい。シンプルな発想。
今度は全身をしならせて、一本のムチになったようなつもりで連動させる。インパクト。さっきよりも遙かに強くミートしたボールはお父さんの胸辺りにそれなりの勢いで飛んでいく。お父さんは一瞬驚いた顔をしたけれど、胸でワントラップした後パスを返してくれる。
それからも力のかけ具合によってどれくらい飛ぶのか、強弱をいろいろ試していった。
「美鶴。そろそろ帰ろうか。もういい時間だ」
お父さんからのその言葉で空が赤くなり始めていることに気付く。今から帰ればちょうど夕食時になるだろう。
お父さんと並んで家に帰る。先ほどの練習のことについて振り返りながら。
「美鶴はキックがうまいな。本当にサッカーの才能があるのかも」
「そう? ボールの真ん中をまっすぐ蹴ってただけだけど」
「その真ん中を正確に蹴り続けるってことがまず難しいのさ」
「ふーん。そうなんだ」
お父さんはそう褒めてくれるが、今ひとつ実感が湧かない。それこそ兇手をやっていたころは、一対多で戦闘しながら正確に小さな人体の急所を打ち抜いていたのだ。それに較べれば転がっているボールの中心を蹴るくらいいかほどのことか。
この体になってまず始めに行ったのが、自分の思ったとおり正確に体を動かせるようになることだった。サッカーのためじゃない。両親を危機から守るため、最低限の自衛のためだった。突きや蹴り、攻撃以外にも歩法だのといった兇手だったころにできた動きを再現することに取り組んだ。筋力の不足からできないことも多かったが、逆に筋力に関係ないものは記憶の通りにトレースできるようになった。結果、この手足を狙ったとおりのポイントへ届けるというボディコントロールについては前世と遜色なくなったと思っている。それが功を奏したのかもしれないな。そう思った。
「きっと美鶴は凄い選手になれるよ。お父さん全力で協力するからな」
「うん。ありがとう、お父さん! 私も頑張る!」
兇手として生きてきた前世の自分。それが今に確かに繋がっている。決して無駄ではなかった。その実感を得られたこと。そのことがとても嬉しかった。
◇◇◇
「きっと美鶴は凄い選手になれるよ」
その言葉に嘘やお世辞はなかった。今日一日娘の練習に付き合って純粋にそう思った。今日教えたのはキックの基本であるインステップキックと同じく基本の足でのトラップだけだ。けれどそれだけでも美鶴の非凡さは際立っていた。
まずキック。美鶴のキックは全てまっすぐ僕に向かって飛んできた。ボールを止めて蹴るだけじゃない。左右に振って走らせながら蹴らせてもだ。空振ることはおろか、僕がボールを受け止めるために移動する必要すらなかった。このことは美鶴の軸足の置き方、蹴り足の振り抜き方、いずれも正確であること。それも移動しながらでも完璧に行えることを示している。
さらに最初の内は飛距離の長短があったが、いつからか五本ずつ距離をまとめて蹴り出したことに気付いた。3mほどでバウンドした球が五本、次は6mほどでバウンドする球が五本、さらにその次は9mほどでバウンドする球が五本、最後は僕の胸目がけて飛んでくる球が五本。あれは僕がもっと後ろで受けていたら12mほど飛んでいたのではないだろうか。
つまり最初の内、娘は力のいれ具合によってどの程度ボールが飛ぶのか測っていたのだ。そしてしまいには飛距離まで等間隔に蹴りわけられるようになってしまっていた。
次に、トラップ。僕が蹴ったボールを美鶴が足で受ける。最初の球は大きく弾んで僕らの中間辺りまで転がってしまう。
「美鶴。膝のクッションを使って柔らかくボールを受け止めるんだ」
僕は片足で立って軸足の膝を曲げ伸ばししてみせる。美鶴は大きく頷くとボールを蹴って返してきた。
それ、もう一度。美鶴の足下目がけてボールを蹴り出す。今度は膝を軽く曲げ、受ける足を引きながら柔らかく止める。ボールは娘の足下にピタリと収まった。ボールが返ってきたら蹴り返す。四回、五回。全て足に吸い付いたように勢いを殺された。まさかあれだけのアドバイス、それもたった一度でものにしてしまうとは。
美鶴から左右に振ってほしいとのお願いが来る。その言葉に従ってボールを出してみればこれも全て娘の足下に収まってしまった。インサイドで受けるのに慣れると、今度はアウトサイドで、あるいは少しバックステップして足裏と地面で挟み込むようにボールを殺したりといろいろなトラップを試し出す。
これも何度か繰り返した後、娘はボールを押さえたまま何かを考えだした。そして頷くとまたボールを返してくる。何かやり方を変えたいのかとも思ったけれど何も言ってこない。なので先ほどまでと同じようにボールを蹴り出した。娘はボールに追いつくとインサイドでトラップ。その球は転々と転がる。あれ? トラップミスか、と思ったがすぐに娘が駆け寄ってこちらへ蹴り返してくる。
もう一度ボールを戻すと先と同じくボールが転がる。けれどトラップと同時にその方向へ娘も動きだしていた。二歩で追いつくとそれ以上余計にボールにタッチすることなくキック。ボールは僕の足下に正確に返ってきた。
まさか……
そのまさかだった。美鶴はその後も同じ事を繰り返した。コントロール・オリエンタード。次のプレーをイメージしながら敢えてトラップを足下から外していたのだ。どうも角度だけでなく距離まで自由にコントロールしている節がある。おそらくボールに追いつく早さを優先するのか、体をスピードに乗せるための助走を優先するのかを決めてその通りにやっているのだと思われた。たぶんTVで見ているプロ選手たちのトラップを思い出して、やってみようと思ったんだろうが……
今日一日を振り返ってみて改めて思うのは、美鶴は体のコントロールが上手すぎるということだ。娘は頭の中でイメージしたとおりの軌道、力加減で完璧に体を動かすことができる。そうとしか思えない。体に染みこませたというほど反復練習を繰り返したわけではないのだから。
この子ほどの才能が自分にもあれば。ふと高校時代の惜敗が思い出される。自らの娘に嫉妬する気持ちが正直に言うとないではない。けれど、それ以上に娘の輝かしい未来への予感に興奮してこう言った。
「お父さん全力で協力するからな」
「うん。ありがとう、お父さん! 私も頑張る!」
美鶴は満面の笑顔で喜んでくれたのだった。