少女暗殺者の最期(※残酷な描写あり)
上海。急激な発展を遂げて首都北京を追い抜いた、中華人民共和国最大の都市。
巨大かつ煌びやかなオフィスビルやマンションが建ち並ぶ一方で少し路地に入れば小汚く小さい建物もそこにはある。その様はこの輝く上海が、急激すぎる進化により歪なものとなっていることを明確に示していた。
そんな都市の裏路地にある古びたワンルームマンションの一室。そこに彼女はいた。
照明が消されたその部屋では20インチあるかないかの小型液晶TVだけが唯一の光源だ。
TVの光の先には一人がけのソファーが置かれている。そしてその上には少女が一人、膝を抱えて座していた。
風呂上がりなのかパンツ1枚に肩にタオルを掛けただけのだらしない姿を晒している。柔らかそうな茶色がかった癖っ毛のショートヘア。その丸まった体勢も相まって全体的に猫のような印象を受ける少女だった。目も見開けばその瞳はドングリのように大きいと想われる。今は眠たそうに半分ほど閉じられているが。その視線はTVの中の映像へと向けられていた。
TVの中では芝生のコートを幾人もの男達が走り回っている様子が映し出されている。遠くヨーロッパのフットボールだ。白いユニフォームと青いユニフォームを着た選手達が一進一退の攻防でせめぎ合っていた。
そして不意に少女は目を見開き、膝を抱えたまま身を乗り出した。
「Yeah!」
お気に入りの選手の劇的な活躍に私は想わず歓声を上げていた。
白の7番。前線でパスを受けるや前を向きスピードに乗ったドリブルで敵陣を切り裂いた。そのままペナルティエリアに侵入。シュートコースを消しにきたDFをキックフェイントで躱すと強烈なシュートをゴールに叩き込んだのだ。
バロンドールを何度も獲得。世界最高との呼び声高い選手に相応しいプレイだった。スーパープレイに満足し、またソファに背中を預ける。
やっぱりラ・リーガはいい。CSを引いて正解だった。
サッカー観戦は私の唯一の趣味だ。国内のスーパーリーグでは満足できなくなっていた私は世界の、その頂点である四大リーグに目を向けた。その中でもスペインを選んだのは亡き父の影響だろう。もはや記憶も朧気なほど昔に亡くなった父はラ・リーガの常勝チーム、白い巨人達のファンだった。その縁で私もそのクラブを追いかけることにしたのだ。正確に言うと父はその中のとある選手の熱烈なファンだったのだけど。彼の移籍に伴って以前のライバルチームから銀河系軍団へと鞍替えしたのだ。こう考えると親子でポルトガル人選手が一押しなわけだ。特に示し合わせたわけでもなく。なんとも不思議な偶然。
さぁ、何はともあれこれで逆転。残り時間もあと僅か。このまま彼らの勝利を見届けてそのまま寝てしまおう。と想ったところで台所に置き去りにしていたスマートフォンが振動とともに着信を告げた。仕方なくソファーから立ち、スマートフォンを拾いにいく。ディスプレイに表示された相手は。
チッ。黄のヤツか。
「何? こんな時間に」
『仕事だ』
「はぁ? この間一仕事済ませたばかりじゃない。他に回してよ」
『上からお前をご指名なんだ。詳細はメールで送る。さっさと支度しろ』
「……はいはい。分かったよ」
『頼んだぞ。黒鶴』
そう言って通話は切れた。
私は早くに両親を亡くしている。その後私自身はとある伝を頼って面倒を見てもらっていた。その恩返しというような殊勝な考えからではないけれど、数年前から就労している。さっきの電話はそのオファーを告げるものだった。
今日は既に完全お休みモードだったのに面倒な。とはいえ生活のためには仕方ない。スマートフォンがメールを受信して振動する。黄からのメールだ。本日の仕事の内容説明だろう。中身を確認する。なになに。目的地は上海の外れにある小さなオフィス兼工場。開始時刻は『As Soon As Possible』。依頼内容は———いつものヤツか。
服装は自由とある。どうしようか? 私は少々考えてから衣装棚よりポップなプリントが施された黒いTシャツとデニムのホットパンツを取り出した。外していたブラに続いて身につける。鏡を見て確認。まあこんなところだろう。
鏡の中からは体の線が出るピッタリとしたTシャツとホットパンツを身につけた身長160cm強の細身の娘がこちらを見返していた。
スニーカーを履いて部屋の鍵を閉め、マンションの外へ。築年数が経つこのマンションにはエレベーターがない。足音を立てながら階段を下っていく。4F・3F・2Fそして1Fへ。マンションを出た。見上げても暗い夜空には星もろくに見えやしない。大気汚染で空が澱んでいるのと都市の灯りのせいだろう。
煌々とした照明に照らされながら表通りに。目的地までは少々距離があるのでタクシーを拾った。
タクシーに乗って約15分。ぼーっと窓の外に映る夜景を見ていると気付けば着いていた。古びた工場。私のマンションとどちらが古いだろうか。
突っ立っていても仕方ない。重い戸を開けてニーハオと挨拶をしながら中へ入る。
「あん? 何だお前? どうしてここに来た?」
工場の中にはチンピラのような柄の悪い男が5人。テーブルを囲んでカードに興じているようだ。その内の一人が立ち上がってこっちを睨み付けながら誰何してくる。
「瑶池会所から来ましたー。張さんはいらっしゃいますかー?」
「あー? ったくまたかよ。あの人は。好きだねー」
私の返答に一気にやる気が削がれたのか男がガシガシ頭を掻きながら呆れたような声を上げる。そして5人の中で一番若そうな男へ指示を出す。
「おい、お前。ボスの所にこの女を連れてってやれ。予約した女が来たってな」
「あー、ちょっと待て。ボスの所に通す前に危ないもんを持ってないかボディチェックが必要だろ」
立ち上がって駆けだそうとした若いのを制して、金髪の男が立ち上がる。好色な笑顔を浮かべながら近づいてきた。
「ボディチェックってお前。あの格好みりゃ武器なんか隠し持てないってわかるだろ」
「念のためだよ。念のため。女は体の中に隠すこともできるからな」
「ったく。ほどほどにしとけよ。ボスの呼んだ女をお前がつまみ食いしてたなんてバレたらぶっ殺されんぞ」
「へへ。オーライオーライ。あくまでボディチェックだからよ」
にやけ顔の金髪が私の目の前に立った。下卑た手つきでなで回してくる。
「ふーん。こりゃかなりの上物じゃねぇの。ちょっとオッパイはちっちゃいけどよ」
ほっとけ。
こっちからも両手を金髪男の頬に添え、背伸びする。
私は数年前から特技を活かした仕事をしている。私の特技は色事ではなく———
「お? なんだなんだ。嬉しいことしてくれるじゃねぇの。よっしゃ。俺のキステクを見せてや、けぺ?」
奇声を漏らした金髪に最初に誰何してきた男が声をかける。
「お、お前、何で背中向けたまま首だけこっち向くなんて器用な真似してるんだ? ……それ大丈夫なんか?」
大丈夫なわけない。首が180度回転した金髪は私が手を離すと膝から崩れ落ちた。
と同時に棒立ちの男へ向かって飛び出す。男のみぞおちに肩を押し当て、震脚。地面から返ってくる力とともに全身の筋肉を伸張させる力を接触部から注ぎ込む。臓器をいくつかまとめて砕く手応え。男は血反吐を吐きながら吹っ飛んだ。チンピラ達が囲んでいたテーブルを飛び越えていく。
「て、てめぇ!」
ようやく事態に気付いて立ち上がろうとする男達。遅い。
テーブルのこちら側にいた一番近いヤツに向かって再度飛び出す。目標の懐に飛び込んで震脚。全身を跳ね上げながら半身に開いて左肘を首へと突き刺した。頸骨を砕いた感触。これで三人。
残り二人は武器を取り出そうとしている。若いのはナイフ。もう一人は拳銃。刹那の判断で拳銃野郎との間にあったテーブルを正面から蹴り飛ばした。勢いよくスライドしたテーブルは拳銃野郎の股間を痛撃。拳銃を取り落として蹲った。そちらを放置してナイフを抜いた若いのに向き直る。
「ああぁぁあ!」
相手は恐怖を振り切るように声を上げながらナイフを片手で突き込んできた。それを引きつけ真下からナイフを持つ手を蹴り上げた。ナイフが宙を舞い、握っていた腕の手首が折れる。蹴り上げた脚を振り下ろし震脚。両掌を揃えて左胸に叩きつけた。心臓を破裂させられた若いのは口から血を吐いて仰向けに倒れる。
そちらへの対処を終えると股間を押さえて蹲る元拳銃男へ歩み寄り頭部へ回し蹴り。男は首をあらぬ方へ曲げて息絶えた。それを見届けぬまま二番目に吹き飛ばした男の下へと移動。見下ろすと男は血泡を吹いて気絶している。致命傷ではあろうがすぐには死にそうにない。踵で頸を踏み砕いてとどめを刺してやった。
これで五人。この工場に入る際に気配を探ったので、この空間にこれ以上人がいないことは分かっている。黄からの情報が正しければここには計六人。後は奥の社長室にいるのであろうボスとやらの命を奪えば依頼達成だ。
私の特技は人の頸をへし折ることと、人の臓器を砕くこと。この特技を活かして組織の兇手(暗殺者)として活動している。今でこそ黒鶴なんて呼ばれているが元々私は生粋の日本人。今の名前は元々の名前から一字取って付けられた渾名のようなものだ。
私の父親は日本の商社マンで家族を伴ってこの上海へと赴任した。数年の短期駐在の予定だったのだろう。けれどこちらへ来てまもなくのこと。ある中華料理店に家族で食事に来た際に運悪くチャイニーズマフィア同士の抗争に巻き込まれた。激しい銃撃戦になり店のスタッフや客の大半が犠牲になった。私が助かったのは両親が盾になって覆い被さっていてくれたから。銃弾は父を貫通し母の体に食い込んだがそこで止まった。私は両親の血にまみれてはいたものの奇跡的に無傷だったらしい。私自身は気絶していたから全部伝聞ではあるけれど。
その後抗争を制したマフィアに発見され、面白半分で連れ帰られた。そして組織で私を待っていたのは人を殺す教育だった。孤児のメスガキを使い捨てのヒットマンとして使うつもりだったんだろう。
残念ながら私には銃器も刀剣も扱う才能は無かった。けれど徒手格闘については非凡なものがあったらしい。どうも筋肉の質が特異で、しなやかかつ瞬発力に優れている。まるで猫科の猛獣のように。骨もその筋力に耐えるためか、断面積当たりの強度が常人よりかなり高いとのことだ。
結果、フォルムは細身の女。けれど薄い脂肪の層の下には捕食動物の筋肉を擁した、素手で人を縊り殺す職業殺人者が誕生した。
今時徒手格闘と侮ることなかれ。これはこれで使い道があるのだ。特に私のような小娘がこの技術に優れる場合は。武装する必要がないので金属探知機はおろかボディチェックもすり抜け放題。自分ではよく分からないが見栄えも中々よろしいらしく、無警戒でターゲットの至近距離まで接近できてしまうのだ。
これにより組織は私のことを使い捨ての鉄砲玉から正式な兇手へと格上げした。兇手生活ははや5年、のべ暗殺人数も100では効かないけれど、組織から大事に使われていることで、今日も元気に殺れている。
黄は組織からのメッセンジャー兼バックアップだ。今日の指示は敵対するマフィアの麻薬密売部門、その一末端の殲滅。この後、最後のターゲットを撃破して連絡を入れれば黄が手配している死体の回収および商品の火事場泥棒をするための部隊が派遣されることになっている。
さぁ。残りもさっさと片付けよう。
工場の奥、社長室とプレートの下がる部屋の金属扉をノックする。扉は思いの外厚い。これなら先ほどの一幕は気付かれてないだろう。監視カメラもなかったし。念のため警戒しながら扉を開ければ、やはり室内からは銃撃はおろか殺気も飛んでこなかった。
「ニーハオ。瑶池会所から来ました。ご指名ありがとうございます」
「やっと来たか。結構遅かったな」
「申し訳ありません。思いの外、道が混んでいまして」
部屋の奥、デスクに座っていた中年の男が立ち上がってこちらへ歩いてくる。近づきながら私を値踏みしているようだ。さっと室内を見渡せば部屋の両壁にはギッシリと段ボールが積み上げられている。これがブツか。
「ふむ。写真より全然いいじゃないか。これは嬉しい誤算だ」
本人じゃないからね。共通点はアジア人ってことくらいじゃないかな?
このスケベ親父は頻繁に瑶池会所というデリヘル店から女を呼んでいるらしい。趣味なのか用心なのか毎回違う女をだ。そこをうちの組織に目を付けられた。今日もまた予約したことを察知した組織は入れ替わりに私を送り込んだ。こういった商売の女は店に掲載している写真を大幅に修正している。だから本人とはまるで別人の女が来ても気にしまいとの雑な作戦だったのだがその通りだったらしい。なお本当のご指名の女は私と入れ替わるため、恐らく組織に消されているだろう。まあ運がなかったってことで。
私を観察していた中年男は満足したのか背中を向けてこっちへ来いと手招きしている。更に奥にベッドルームがあるのだろうか。その背中までは一息の距離。それじゃあね。拜拜。
大腿の筋肉が爆発的なエネルギーを生み出し、前方へと私自身を打ち出す。跳躍の後着地。前方へのベクトルを腰を捻って回転運動へ変える。振り上げた脚にさらに遠心力がかかる。半回転の後、中年男の延髄に突き刺さった踵から全てのエネルギーが解放された。
延髄を破壊された中年男は部屋の中央に五体投地して二度と起き上がることはない。神の恵みのあらんことを。
さてこれで依頼は完了。黄に報告の電話を入れれば全て終了だ。帰って寝ることができる。ポケットからスマートフォンを取り出して、と。
「ッ!?」
そこで強烈な寒気に襲われた。無意識のうちに部屋の中央へステップ。倒れている中年男の死体を持ち上げその下に潜り込む。破裂音。部屋の両脇に詰まれた段ボールの内3割程度、それから部屋奥のデスクが内部から粉砕。木片や陶器片が高速で降り注いだ。
「かっはッ」
しくじった。罠だった。私は這々の体で社長室から抜け出した。
中身は麻薬だと思っていた段ボール、いや大部分はその通りだったのだけど残りは簡易のクレイモアのようなトラップだった。木片や陶器片が詰まっていて爆破とともに周囲にばらまかれるようになっていたのだ。咄嗟に死体を盾にしたけれどご丁寧にほぼ360度から破片が飛んできたため完全には防ぎようがなかった。
右脇腹にそれなりのサイズの破片が3つ。強烈な痛みが襲ってくるが今抜くことはできない。そんなことをしたらあっというまに失血死してしまう。右脚にも大小多数の破片が食い込んでいる。脚を引き摺りながら工場の出口を目指す。
移動しながら必死に考える。あのトラップは完全に私向けに最適化されたものだった。私は気配察知にもとても優れている。遮蔽されていない空間で伏兵を見逃すことはまずない。私を暗殺しようと思うなら、超長距離から狙撃するか、建物ごと爆破するか。いずれにしても準備が困難だったりとても目立ったりで現実的ではない。後とれる手段と言ったら狭い室内で自動発動する飽和攻撃をしかける、といったくらいだ。先ほどのように。
つまり先の罠は私のスペックを完全に見切った上で仕掛けられている。しかけた主はあの中年男ではない。ヤツは私に気付いていなかったし、あのトラップでは自分も死んでしまう。後可能性があるのは———
痛む体を押してなんとか重い扉を開く。工場の外へと這い出した。一歩、二歩、三歩。よろよろと歩いて少し工場から離れたところで蹲ってしまう。
包囲されている。気配を察知した。人数は9。近づいてくる。暗がりから姿を現した男達。15mほどの距離で立ち止まった。訓練されている。武器は自動小銃。これでは勝ち目はない。
唯一自動小銃を持っていなかった男がさらに近づいてきた。こいつは。
「やあ、黒鶴。元気にしてるか?」
「黄。あんたか……」
なるほど。こいつか。確かにこいつなら私の能力を熟知してるし、その上今何をしているかまで把握できている。私を嵌めるのもたやすいだろう。
「あれで死なないのだからやはりお前はたいしたヤツだ。後詰めの兵隊を用意していて正解だった」
「……組織を裏切ったってわけか」
「ビジネスだよ。この度彼らにヘッドハンティングされることになってね」
「それで?」
「よりよい信頼関係を築くために手土産でもという話になってな。彼らの幹部を暗殺しまくってきたお前の首を是非ともということさ」
「……………」
「まあそう睨むな。俺も残念なんだ。なにしろお前は優秀だし、これからさらにとびきり美人に成長するだろうと思っていたからな」
「それはどうも」
「とはいえ彼らも頑なでな。仕方ないからせめて私の手でというわけだ」
「ありがたくて涙が出るね」
「喜んでくれて私も嬉しいよ。……さて名残惜しいが私も忙しい身だ。ここらでお別れとしよう」
そう言って、拳銃を抜こうと懐に手を伸ばす黄。
お前、油断したな?
彼我の距離は約3m。たたんでいた脚を一気に伸ばして跳躍。破片をくらった右脚が激痛を訴えてくるが無視。目を見開く黄の顔が間近に。拳を腹へと押し当てる。血をまき散らしながら着地とともに震脚。全ての力を拳から黄の体へ徹す。肝臓を砕いてやった。私の左腕は黄の体を掴んで吹き飛ぶのを押さえている。密着状態を維持。このままこいつを人質にして———
「ゴホッ?」
なぜ? 私は血を吐いていた。胸が灼けるように熱い。遅れて耳に銃声が届く。距離を置いて包囲していた奴らの自動小銃から硝煙がたなびいている。そこで理解した。
黄。間抜け。なんだお前も捨て駒なんじゃないか。
続けて降り注いだ銃弾が黄ごと私の体をズタズタに引き裂いていった。
次にサッカーらしきことをするのは3話先になる予定です。