21 西堀さんと深夜の貨物列車
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二月中旬の午前三時過ぎ、あたりは粉のような雪が舞っている。僕は西堀さんと一緒にコンビニを出て、貼り付けるカイロの袋を破った。西堀さんは先ほどから鼻を鳴らしている。風邪をひき始めているのかもしれない。
「無理して飲むことないよ。寒いし、余計具合が悪くなるかも」僕が言う。
「いいのよ。私はずっとこれがやりたかったんだから」
西堀さんはそう言うと、缶ビールのプルタブを起こした。乾いた音が駐車場に響くのを聞いて、僕もビールのプルタブを起こした。こんな風に覚悟を決めてプルタブを起こすのは初めてだ。
「じゃあ、乾杯」僕は言う。
「味気ない事言わないでよ、何かを祝って乾杯してちょうだい」西堀さんは眉間にシワを寄せてから鼻を鳴らして言った。僕は少し考えてから、ビール缶を掲げる。
「西堀さんのニート化を祝して」
「おめでたくないわよ、ビールひっかけるわよ」
「じゃあ、4LDKの延命を祝して」
「それならいいわ。延命を祝して」
乾杯、と言って僕らは缶を合わせた。僕は二三口飲み下してから、意外と寒いながらも飲めそうな気がした。西堀さんは一口飲んで顔をしかめた。
「部屋、伯父さんにはどれだけ延長してもらえたの?」
「とりあえず一年ね。ほんと、大恥よ。あちこち露見するなんて」
「そのかわり、部屋はしばらく西堀さんのものだ」
「お情けもいいところだわ。兄弟だって私を腫物に触るみたいにしてる」また一口ビールに口をつけ、顔をしかめる。飲めないなら止めればいいのにと思うけれど、そういうものでもないらしい。
「4LDKと言えば、まったく、今でも腹が立つやら恐ろしいやら」西堀さんは言う。
「悪かったよ。自分もかなり参ってたんだ」
「本当に怖かったのよ。あの時、真剣に警察が入ってきたかと思ったもの」西堀さんは肩に手をやり、短く身震いをした。
西堀さんを探すために同期で集まった際、僕は西堀さんに電話で合い鍵の指摘をされた。僕は突然核心を突かれてしどろもどろしていた。平内さんが僕の手から受話器を取り返そうと手を伸ばし掛けたとき、西堀さんが話した。
「今日の夕方ごろ、一瞬だけ来てすぐ出て行ったでしょう」
「そうかもしれない」僕は観念して言った。
「探しに来てくれた、ってことかしら」
「そうとも言う」
電話の向こうで巨大なため息が聞こえる。
「あなただったのね!」西堀さんは大声を出した。
「まさか、押し入れの奥に潜んでいるとは思わなかったな。急いで探していたから、いちいち引き戸を確かめる事まではしなかった。あの時見つけていたとしても、話はこじれていただろうけど」僕は言う。
「いっそ死体の処理をお願いしてたかもね」西堀さんは言う。
僕はビールを飲み込み損ねて激しくむせた。西堀さんは鼻を鳴らす。
「貨物列車はどれくらいの間隔で通るのかしら」
「もう明け方に近いから、一時間に一本くらい。二十分後くらいだね」
僕らは踏切前の土手に腰掛け、それぞれの相手の反対側にビール缶を置いた。僕と西堀さんの間は五センチばかりの隙間が空いていたけれど、どちらかともなく隙間を埋めていった。明け方付近の一番寒い時間帯だった。互いに触れ合っている箇所だけ、確かな人の体温を感じる事が出来た。
「ニートになって気付くことがあるわ」西堀さんが言う。
「何だろう」
「目標なんて立てらんないわね」
「そうなんすよ」
「誰かに追い立てられないと駄目だわ」
「君が寄木にやったみたいにね」
「平内さんにお尻を叩いてもらおうかしら」
「俺は蹴られそうだから嫌だなぁ」
「アドバイスしちゃったものね」ふふふ、と平内さんは笑う。
遮断機の警報が鳴り始め、周囲が赤い警告灯の明滅に照らされた。レールに鋭い金属音が伝わったかと思うと、西の遠方から光の点が見えた。
「音がする。近づいてきたの?」
「そうだね、あと三十秒もないくらい」
光はやがて大きくなり、車輪がレールの継ぎ目を渡る走行音が壮大に響き始めた。時間と共に音は大きくなる。
「すごい音になりそう」西堀さんが小声で言う。「お願い、手を握ってて」
僕は戸惑いながら彼女の手の甲に手のひらを乗せる。西堀さんは手を逆手に反して、僕の手首を思いっきり掴んだ。
貨物列車が僕らの目の前で、踏切の向こう側を通り過ぎていく。致命的なスピードと重量をこしらえて、誰も知らない深夜の路線を駆け抜けていく。見つめているのはニートで酒に酔っている僕らだけだ。彼女は竦んだように肩を縮めて、駆け抜ける貨物列車を眺めている。小声で何かを言っているようだ。西堀さんの方が電車に近いので、僕が見つめている事に西堀さんは気付かない。西堀さんは竦んでいた肩を少しずつ降ろしていくと、やがて前のめりになって貨物列車を厳しく見つめた。親友の裏切りを責める様な目線だった。口元は真一文字に結んでいる。心の中でずっと何かを念じているように見える。ふと何かに似た行為だなと思い、すぐにそれが流れ星の願掛けだと分かった。もっとも、唱えているのは願いではなく、呪いかも知れないけれど。
貨物列車が通りすぎると、西堀さんは僕に体を預けてうなだれた。最初は眠いのかとも思ったが、それが声なき涙だった。僕はなるべく彼女を見ないようにしてビールを口に運ぶ。手は繋いだままにしていた。
「朝日はもうすぐかしら」西堀さんは顔を上げて、鼻を鳴らす。
「まだ先だよ。あと一時間くらい」
「朝日か電車が来たら教えて。目を開けてられない」
西堀さんは首を振ってうなだれた。
長い沈黙があって、僕は西堀さんに話しかける。
「合い鍵を作ったこと、怒ってないの」
「私が平常だったら絶交しているわ。でも、私と同じように、あのからっぽの部屋に滞在したくなったというから、見逃してあげるのよ。真っ先に左手の部屋がいいとか言うし」
「あそこはいい場所だよ」
「ええ、とても」
僕は少し言いよどんでから、意を決して言う。
「紐は、もういらないから捨てようね」
「どうかしら」西堀さんは鼻を鳴らす。
西堀さんを探し回ったあの日、僕は空っぽの部屋も探した。急いで見て回ったので西堀さんが押し入れの中に潜んでいる事を見落とした。後から聞いた話で、西堀さんはクローゼットの中にいたという。ハンガーを掛けるパイプに、丈夫な紐を括り付けているところだった。
貨物列車はもうやってこなかった。
空を覆う夜の端がかすかに白んでいる。西堀さんはずっと僕に体を預けたまま目を閉じている。かすかに肩で西堀さん体を揺らすと、繋いだままの僕の手をわずかに握り返してきた。
「すごく正直に言うけど」僕は言う。
「西堀さんが傷ついているの見ると、僕は励まされる」
西堀さんはかすかに体を震わせた。僕は続ける。
「だから、死なないで欲しい」
西堀さんの震えは徐々に大きくなった。鼻を鳴らす間隔が短くなり、やがて決定的な一線を越えると、堰を切ったように泣き始めた。
澄んだ夜明け前の空気の中、彼女の泣き声だけが響く。腰掛けたコンクリートのブロックに、誰も走っていないアスファルトに、沈黙した遮断機や警告灯に、声は響いていた。西堀さんの他には何も動いていない。夜空だけが、徐々にその明るさを変えていった。
僕は思う。そんなに泣くと、夜明けはもっと辛いよ、と。




