20 悲しみをゆるめる為の言葉
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西堀さんは、「一週間、有給を取っていたの」と言っていた。あの気だるげなパーラーでロータリーを眺めていた西堀さんは、無気力に見えた。SNSの内容と合わせて見るに、あれは西堀さんが「からっぽの部屋」と呼ぶ4LDKで箱の中身を読み返した後のことだろう。「言葉を生み出せない自分は、心を失ったも同然」と確信した西堀さん。何より、次の日に気詰まりな職場に行かなくてはいけない西堀さん。僕が滞在した一週間の間、よく西堀さんが4LDKに現れなかったものだ。そのころ抜け殻のように会社に勤めているところかもしれない。彼女は日付が変わる真夜中に、意を決してSNSにお別れの挨拶をした。きっとこの一週間もうまくいかなかったのだろう。
早朝にタワーマンションを出てしまうと、精神的な解放と、新しい気がかりで意識が混乱し始めた。キャリーバックを引く手が重く、わずかな段差に引っかかって煩わしい。ひとまず自分は誰にも見つからずに危機を脱することはできた。けれど、西堀さんは今まさに危機を迎えている。僕のように会社を辞めてニートになる、というレベルでは比較にならないほど深い部分で望みを失っている。けれど、自分に何ができるだろう?僕は彼女の実家も知らないし、勤め先の場所も分からない。SNSのコメントに彼女は一切返事をしていなかった。メールや電話をしてみても同じ事だろう。
一晩中、混乱と恐怖で張りつめていた頭も体も、何かをするには疲れすぎていた。僕は結局実家に戻って、昼過ぎまで手短に眠った。浅い眠りと覚醒を何度も繰り返すような、できそこないの睡眠だった。昼食はキッチンでインスタント麺を食べた。母は言い訳のネタに使った架空の恋人の事をしきりに聞いてきたが、リアリティのある嘘をつくだけの気力もなかったので、僕はひたすら言いよどんだ。母はとにかく怪訝がっていた。
午前の眠りはいい加減な物だったにも関わらず、目が覚めてしまうと西堀さんの事が気がかりでならなかった。僕はもう一度SNSを開いて彼女の「ごあいさつ」を見てみる。言葉を入れる大きな箱、というのは彼女の青春時代の比喩のように見える。しかしそれは具体的な形をした段ボール箱だし、からっぽの部屋は実在するのだ。そのことを知っていて、現地で実物を見たのは恐らく僕だけだろう。からっぽの部屋は本当に静かで、底冷えのする場所だった。彼女はそんな場所で一週間も自分の詩を読みふけり、悟ったのだ。言葉を失えば、心も失う。とすれば、仕事を務めている限り、言葉は失い続けるし、同時に心も失い続ける。
僕はいたたまれなくなり、家を出て適当に目標を決めて歩き出した。西堀さんと二人でランチをしたバーガーショップやベトナム風サンドイッチ店や、ベーカリーバイキングの前を通った。歩いている内に、やるなら本格的にやった方が気が紛れると思うようになり、僕らが通った大学へ行った。部室へ行って暇そうにしている後輩に西堀さんを見ていないか声を掛けたが、心当たりはないとの事だった。後輩たちの間でも、西堀さんのSNSは心配の種になっているようで、彼女が修得していたゼミの教授にも聞いた後輩がいたが、教授の方にも特に連絡はなかったという。僕は大学を出ると、悩んだ末にタワーマンションの最寄駅へ向かい、今朝までいたからっぽの部屋に行った。素早く室内を見て回ったが、誰もいなかった。テナントビルのパーラーも見てみた。考えるまでもなく、こんな場所にいるはずがない。ひょっとしたら今から来るところだろうかと改札前で待ち構えても見たが、三十分ほど待って諦めた。人が多すぎるし、こんなところで待ち伏せするのは不審すぎる。そもそも会って何を話せばいいのかも分からないのだ。必要なのは、とにかく彼女の悲しみを緩めてやることだけだが、それが自分にできるのかというと、まったく自信がなかった。
それだけ回ると、僕は行く宛を失った。コンコースから見える幾列もの線路が夕日に光るのを眺め、電車が通り過ぎる音を聞いた。もう一か所、心当たりがないわけでもない。それは平内さんの家だ。けれど、仮に西堀さんが平内さんに頼って家に寄っていたとして、僕がその場で何を話せばいいのか分からない。そもそもいない確率の方が高いのに、平内さん宅に直接行くのは馬鹿げていた。諦めて家に帰れば、気持ちが焦れるのは分かり切っている。僕は思い切って連絡をした。数か月前に寄木が作ったチャットルームを使って寄木と平内さんに呼びかける。
「西堀さんのSMS見たけれど、彼女大丈夫かな?誰か連絡取れてる人いる?」
返信はすぐには来なかった。今は夕方の六時過ぎ、二人ともまだ仕事をしているかもしれない。頭では分かっているが、気持ちばかりが焦れて、追加でチャットを送信した。
「大学へ行ってみたけれど、部室や教授のところには来てないようだった。その他、例の4LDKのあるマンションの周りや、彼女と行ったことのあるお店も回ってみたけれど、見当たらなかったよ」
送信した後で、これはストーカーまがいではないかと後悔した。けれど、ほどなく寄木が返信を寄越してくれた。
「僕は彼女にメールと電話してみたけど、反応なかった。他のサークルの同期や後輩に連絡したけど、今のところ心当たりなし。仕事先が分かれば、行ってみようかとも思ったけど」
やや遅れて、平内さんも連絡があった。
「西堀さんの勤めてるスマホショップ、私知ってるけど、どうも今日は出社してないみたい。辞めたわけではなさそうだけど。営業の人に平内さんを指名するようお願いして聞いてきてもらったから、間違いないと思う」
平内さんは営業マンを私用のパシリにできるほど、着々と社内の地場を固めているようだ。あるいは、例の哀れな相方さんかもしれないが。
西堀さんの捜索はそのまま手詰まりになった。実家の場所については、寄木が個人名の記載されたタウンワークを図書館まで調べに行って、西堀姓が市内に六十二件ある事がわかったぐらいで、進展はなかった。平内さんも西堀さんに連絡を取ってみたが、返事はなかった。そもそもスマートフォンの電源が入れられていないようだ。最後に会った時、西堀さんはスマートフォンの充電器を受け取らなかった。彼女は「今からもらったってしょうがないもの」と言ったのだ。
僕らは個室のある居酒屋に集まり、互いに知っている情報を出し合った。二度と話すものかと心に決めた平内さんとも、ごく自然に会話ができた。向こうも、ことさら僕を軽蔑する意思は感じられなかった。普段は会わない同期のメンバーにも声を掛けて参加してもらったが、誰も決定的な情報はなかった。僕は合い鍵を使って彼女の「からっぽの部屋」に忍び込み、創作ノートが詰まった箱を見つけた事はさすがに言えなかった。
話し合いが煮詰まっていたころ、店員が電話の子機を持って現れた。
「今日ご予約いただいた平内さんですよね、お友達から電話が入っています」
それこそが、西堀さんからの電話だった。寄木が今日の打ち合わせ場所と日時とメンバーを、西堀さんのアカウントあてに送っていた。都合が良ければ来てください、みんな安心します、と。
「西堀さん、大丈夫なの?皆で心配して集まってたところだよ」
最初こそ平内さんは心底心配そうな表情と心のこもった声で話をしていたが、徐々にトーンダウンし、表情がこわばり始めた。「そりゃそうだけど」とか「でも、本当に?」などと言っている。西堀さんの声は小さいらしく、平内さんは何度か聞き直していた。スピーカーフォンに切り替えていいか確認したが、それは強く断られてしまった様子だった。
「ちょっと待ってね西堀さん」平内さんは一旦話し口に手の平を密着させてから言う。「今、実家で休養していて、仕事を休ませてもらっているだけなの、心配しないでって言ってる。誰か何かいう事があったら、考えて」
小声で素早く言った後、平内さんは会話のつなぎ留めに戻った。
僕は頭をフルに回転させる。周囲の人が分からず、平内さんだけが分かる言葉を選ばなくてはいけない。
「変わってもらっていい、平内さん。一言だけ」僕は言った。
平内さんは一瞬、怪訝な顔をしてから、思い切って「下山君に代わるね、切らないで」と言って僕に電話を渡してきた。
僕は電話を受け取る。
「もしもし、下山です」
返事はない。僕は続ける。
「以前、4LDKの鍵を伯父さんに返すって言ってたね。本当に、返しちゃっていいのかな」
電話の向こうで受話器がかすかな音を立てた。受話器を持ちかえたのかもしれない。
「SNSのさ、からっぽの部屋って、例の4LDKの部屋の事かと思って」
寄木が横で驚いた顔をしている。平内さんは眉を寄せて僕を見ている。
「伯父さんは四月から部屋を不動産屋に委託するって言ってた。だからもし、君があの部屋に忘れ物をしたなら、困ったことに―――」
「下山くん」
西堀さんは話を遮った。しかし、その後に何も話さない。
長い沈黙だった。僕もあえて何も言わなかった。そのことが彼女の確信を深めたようだった。西堀さんは鋭く空気を吸い込み、一度に吐きだすように言った。
「合い鍵を作ったわね?」




