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18 押し入れの中にあったもの

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 その夜は眠気が訪れず、ひたすらに部屋を歩き回った。例によって左手の部屋から、壁伝いに各フロアを歩き、何十周と回った。何もかも、夕方に訪れた疑念のせいだった。体は疲れ切っているのに、人と満足に付き合える自信が心から失われていて、不安に苛まれている。ある意味では、自分は立ち直った。精神的な怠惰も、肉体的な不摂生も、何もない4LDKにいる事で取り除かれた。好奇心が薬になったのかもしれない。しかしいくら体調が戻っても、人前に出ればまた苛立ちや嫌悪感に捉われ、軽蔑を恐れるようになれば、同じように引きこもってしまう。問題の根本は自分にある。

 人と接するのが恐ろしい。かつてこれほどまで明確に人を恐れたことがあっただろうか。あるいは、自分は社会人になってうまく仕事が出来なくなってから、ずっと人を恐れていたのでないか。不快感や苛立ちの陰で、不安の種が日に日に大きくなってしまったのではないか。今、こうしてあらゆる環境から解き放たれて、それが明確になったのかもしれない。

 西堀さん、と僕は思う。君とまたうまく話が出来たら、どんなにうれしいだろう。僕は彼女を異性として好意を寄せているわけではない(ないと思う)けれど、彼女に認められて、正しく友達として扱って欲しいと思っている。「友達として扱って欲しい」という言葉には何か対等でない響きを感じるけれど、今の僕は正直にそう願っている。

 次第に、対人不安は西堀さんに会いたいという思いに変換されつつあった。本当に自分は変態になりつつあるのだろうか、と疑心暗鬼にもなる。何十回目かの室内巡回が終わり、また左手の部屋に戻った。僕はふと思い出す。そういえば、西堀さんは押し入れが広いと言っていた。以前別の部屋で確認したが、人が入れるくらいのスペースはあるだろう。完全な暗闇の中で今の疑念と向かい合えば、何かしらの踏ん切りがつくかもしれない。狭くて暗い場所に引きこもりをほおり込んで矯正するという施設もあるようだし。

 引き戸を手に掛けて引くと、想像以上に大きな音を立てて戸が動いた。僕はこの部屋の静けさに慣れ過ぎていて、音の大きさの基準が狂いつつある。北側に面した共通廊下を照らす白い明かりが、すりガラスから部屋に差し込んでいる。その明るさでは、押し入れの奥行を一目でうかがい知ることはできない。手を暗闇に伸ばして手探りしてみると、なるほど人が一人横になる事は十分にできそうだ。冷えるには違いないが、一時間程度ならこもる事も出来るだろう。僕は上下二段に別れた押し入れの上段に片足をかけ、体を支えようとさらに押し入れの奥に手を伸ばした。

 ふと、暗闇の中で指先に何かが触れた。僕は指を引っ込め、暗闇の中を凝視する。そこには一抱えの段ボールが収まっていた。封は開いている。軽く手で引いてみるが、ずいぶんと重い物が入っているようだ。押し入れの引き戸の閉まっている側に段ボールが位置していたので、引き戸の位置を変える。廊下から洩れる光に段ボールがかすかに照らされる。段ボールはかつてガムテープで封をされ、再び開かれた跡があった。それも乱暴に引きはがしたのではなく、貼られていた部位にのみ、剥がした跡が残っている。中を覗き込むと、ノートやファイルの類が隙間なく詰め込まれていた。

 ノートには簡単な日付や、何かしらの題名が付いているものがある。字は丸みを帯びた若い女性特有の文字だ。一番上のノートを手に取り、ページをめくってみるが暗すぎて内容までは良く見えない。改行が多く、ページの上半分しか使用していない箇所が多くみられる。詩か、短い散文のような。僕はノートを閉じて元に戻す。動悸が強くなってきた。部屋は寒々としているのに、額に汗が浮かんでくる。恐らくこれは、西堀さんが個人的に書いてきた創作ノートや日記のようなものだ。大学の間に書き溜めてきた物か、あるいはそれよりずっと以前からの物かもしれない。今度は音が響かないよう静かに押し入れを閉める。リビングへ戻るときすら、忍び足で移動したくらいだ。詳しい内容まで見ていない、見ていないが、発見したことそのものが問題だった。変態的だ、と僕は改めて思う。彼女が住む予定だった4LDKに合い鍵を作って不法侵入し、彼女の充電器を使ってスマートフォンを充電し、あまつさえ彼女が誰の目にも触れさせなかったであろう創作ノートまで盗み見てしまった。やっている事だけ見れば立派なストーカーだった。いや、自分が気付いていないだけで、心の底からストーカーになっているのかもしれない、という疑念すら浮かんだ。

 ここにそんなものがあると知った以上、もう一日たりともこの場所にはいる事が出来なかった。明日にも彼女がやってくる危険性があった。そうなれば何もかも終わりだ。西堀さんとは生涯話せなくなるし、不法侵入で逮捕されるのも間違いない。僕がやっていた事自体はストーカーじみているから、ネットニュースが興味を煽るように書き立てるかもしれない。そうすれば、僕の本名は一生ネットの海から消えなくなる。まともな職に就くことは難しいだろう。

 僕はなるべく物音を立てないよう、荷物をまとめ始めた。充実していたと思っていたこの一週間の生活が、ひどく異常者の行動のように思えてきた。アルミシートは折りたたむたびに、静けさで満ちた部屋に大きな物音を立てた。僕はそれにひどく苛立ったし、怯えた。ひととおり荷物をキャリーケースに入れてしまうと、カーペットと充電池だけを外に残して、キッチンの隅でうずくまりながら暖をとった。体のすぐそばにキャリーケースを置いた。いつもは南向きの窓側に横たわり、朝日と共に目覚めたが、今は窓越しに誰かに見られるという万が一にも備えたかった。ここは地上八階で、そんな可能性は皆無なのは分かっていたが、そうしないわけには心が安心できない。眠気はどこかへ消えてしまった。

 気持ちを紛らわせるために、スマートフォンで百科事典を閲覧した。爆風による人の損壊の指数や、世界各国の政治腐敗ランキングなどを眺めた。なるべく悲惨で、残酷な記事を眺めているのは気が滅入ったが、不安な気持ちと相殺して一種の思考停止になる事が出来た。仕事を辞めて部屋から立ち退きを迫られていた時も、僕は同じようなページを開て心を無にしていた。

深夜の三時前に、スマートフォンの充電が切れた。僕は暗闇の中で膝を抱えて時が過ぎるのを待ったが、三分と経たず耐えられなくなった。対人への不安、西堀さんからの軽蔑、それから今の行いが露呈した時の恐怖。それが代わる代わる脳裏を巡り、人格の幹を根元から揺さぶった。僕は観念して、西堀さんのスマートフォンの充電器を取り出し、バッテリーに挿しこんだ。もう使うまいと心に決めていたから、使ってしまうと罪悪感に苛まれた。スマートフォンは完全に電源が落ちて再稼働するまでに三分ほど掛かる。はやく電源が入ってくれよ、と念じ続けた。

 無軌道に移り変わる思考は、今は西堀さんの創作ノートの事を考えた。なぜあんなものが、この4LDKにあったのだろう。あれがなければ、今のように混乱と恐怖に苛まれずに済んだはずだった。あれがあったために、自分は決定的にストーカーの行いに分類されてしまったのだ。あまつさえ、僕はあのノートを開いた。そして正直に言えば、もう一度あのノートを明るい場所で見たいと思っている。結果的に異常な行動となってしまった事に嫌悪しながら、僕はそれでも彼女の詩を読みたいと思っているのだ。西堀さんが日ごろどのような詩なり散文なりを書いているか知らない。あの優雅で傲慢な彼女は、どのような詩を書いているのだろう。やはり自分は変態になりつつあるのかもしれないという自覚で息苦しくもなったが、彼女の詩を読みたいという念は一向に去らなかった。それは欲望だった。性を覚えた中学生の頃に、何度もコンビニの成人向け雑誌のコーナーの前を横目で見ながら素通りするような、抑えられない興味がそこにあった。

 それにしても西堀さん、君は何だって伯父から借りようとしていた部屋に、自分の創作ノートを持ち込んだりしたのだろう。それもあの量だと、彼女の体格では簡単に運べない。持ち上げて抱える事が出来るのかすら怪しい。ノートをキャリーケースに詰め、潰した段ボールを別に用意していれば一人でもできなくはないが、恐ろしく手間がかかる。段ボールには剥がした跡があった。恐らくここに持ってくる前には、ノートはあのダンボールに入っていたのだろう。ノートを段ボールから取り出してキャリーケースに入れ、それぞれを持ってこのアパートまで運ぶ。アパートに着いたら段ボールを組み立て、もう一度入れ直す。それも、空の段ボールを床に置いてノート入れると持ちあげるのは難しいので、段ボールを押し入れの上段に置いて、キャリーケースから少しずつノートを移すのだ。考えれば考えるほど、妙な行動だった。よっぽどの必然性がない限り、そんなことはしないだろう。いったい何のためにそんな事をする必要がある?

 気が付くと、画面にはとっくに光が戻っていた。意識は四角い光に吸い寄せられ、思考が鈍くなっていくのが分かった。同じスピードで並走する高速道路の二台の車のように、僕の思考と悲惨な記事は意識の同じ間隔と維持した。僕はすかさずSNSを開き、西堀さんのアカウントを表示させた。


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