16 完全なるエスケープ、あるいは不法侵入
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どうして二月の冷え込みは、一年で一番厳しいのだろう。一年で一番陽が射さない冬至は十二月の下旬だと言うのに、そこから二か月分日が長くなった二月に、一年で一番の冷え込みがやってくる。そんな疑問がふと頭に浮んだのは、家の防災袋を自室に持ち込んだ時だった。中には缶詰や乾パンが詰まっている。それから100Vのコンセントを挿入できる充電式バッテリー。リビングから電気カーペットを自室に持ち込む。そういえばこれは父が正月にひざに乗っけていたな、と何となしに思った。
母には何も言わずに出ていくつもりだったが、色々と事を荒立てて警察沙汰になるのも困る。結局、僕は髭を剃り、なるべく清潔に見える服を着て、わざわざ美容院に行って髪に切ってもらった後で、母にこう言った。「恋人が出来たので、そこのアパートにしばらく入り浸ることにする。たまに帰る」。母は思いっきりうろたえたし、色々と探りを入れてきたが、突っ込むに突っ込めず口ごもった。結局、母は旅行用のキャリーバックを引いた僕を引き止めきれなかった。
合い鍵は難なく鍵穴に挿入でき、エントランスのオートロックが開いた。西堀さんが夢見たタワーマンションの4LDK、そのエントランスは相変わらずの静けさを持って僕を迎えた。
西堀さんとパーラーで気だるく話をしていた時、彼女は鍵を置いたまま席を立った。僕はその鍵を持って、駅ビル内の鍵屋に持っていき合い鍵を作った。自分でも本当に使うのかどうか、鍵を手に店を出たときは半信半疑だった。作成に十分くらい掛かると言われた時は、もう無理かと思った。恐らく僕がパーラーに戻る前に、西堀さんは席に戻るだろう。当然鍵がない事に気付く。それは西堀さん個人の鍵ではなく、親戚のおじさんの大事な鍵だ。当然言い訳が必要になる。いや、誰もいないところに置いておけなかったんだよ、というのは苦しいぞ、何しろ自分の荷物も西堀さんの荷物も、席に残したままだしな、などと考えていた。作ったはいいが、結局この店の返却口にあるゴミ箱に捨てる事になるかもしれない。しかし実際戻ってみて、西堀さんはまだ席にいなかった。途端に、僕は合い鍵の存在価値が上がったように感じた。鍵を見たときに感じたひらめきを、そのまま実行できるかもしれない。帰りの電車の中で、ひらめきが具体的なプランへと移り変わっていった。
電気もガスも水道もない、誰もいない4LDKに、誰にも知られる事なく引きこもる―――対人嫌悪と怠惰に満たされた自分には、魅力的な思い付きだった。
エントランスを抜けると、思いのほか高揚はやってこなかった。キャリーケースを持つ手が汗ばむ。不法侵入には違いないのだから、緊張しても当然だよな、と自分に言い聞かせた。
部屋の鍵も問題なく開いた。気密性のいい重い扉を開くと、例のごとく精密な沈黙が部屋に漂っていた。時刻は午前の八時半、日差しは澄んで柔らかい。部屋の空気はさすがに淀んでいる。僕は静かにリビングのガラス戸のロックを外し、外気を部屋に取り入れた。ベランダは南向きのガラス戸の幅よりも広く取られていて、四人家族でバーベキューだってやれそうな広さだ。小型犬なら運動不足も解消できるだろう。窓を開けると同時に外界の音も部屋に入り込んでくる。風や草木や車などの音が遠くから混ざり合う音だ。ピアノが弾けるほどの遮音性の中から出ると、外界は音に満ちているのだと改めて気づく。
さて、と僕は思う。空気がある程度循環したことを確認し、僕は手ごたえのあるガラス戸を慎重に閉める。これからの事を考えなくてはいけない。まずは生き延びるために、食料や温かさを確保する必要がある。食料については当面、持ち込んだ非常食の缶詰と乾パンと保存水があるので数日は持つ(なにせそれは、三人家族分の大きな防災袋なのだから)。それよりも暖をどのように取るかが重要だ。防災袋には寒さ対策用に、体に巻きつけるアルミシートはあるが、こんなもので耐えきれるとは思えない。となると、リビングから持ち込んだ電気カーペットの出番となる。せいぜい1m×0.5m程度の大きさだが、これを敷いて、アルミでくるまれば少なくとも凍死することはあるまい。防寒具として着用してきたダウンジャケットもある。しかし、いくら消費電力が少ないとはいえ、充電式のバッテリーでどれだけ持つかは未知数だった。定期的な充電は欠かせないだろう。どこで充電するかは、考えておく必要がある。当然、水道もないので、用を足すときはわざわざ外に出なくてはいけない。幸い、河川敷には公衆トイレがあるので、よほど緊急でなければ何とかなるだろう。間違っても、ペットボトルに用を足してはいけない。匂いが残るに決まってる。ハミガキも公衆トイレでできる。入浴だけは、何日かに一度銭湯に入るしかないだろう。
僕はさっそく乾パンの封を開け、保存水のキャップを捻った。乾パンは容赦なく口の水分を奪い、ペットボトルから取り込んだ水分を片っ端から吸収していった。こんなの、地震が来て参ってる時に毎日食うのはつらいだろうな、と独りでに笑えてきた。実際に声にでて、僕はこの生活にようやく高揚し始めた事に気付いた。
簡単な食事をすますと、キャリーケースの衣服を一つずつ取り出して、丁寧に取り出した。思ったより底冷えしたので、さっそく電気カーペットを充電器に繋いで暖をとった。温かさは問題なさそうだ。荷物を整理している間、僕はスマートフォンの充電器を持ってくるのを忘れたのに気づいた。痛恨のミスに思いっきり表情を歪めたが、西堀さんの充電器が返しそびれたまま鞄に入れっぱなしなのを思い当たった。念のため充電式バッテリーに挿してスマートフォンに繋げてみたが、問題なく使用できたので、このまま拝借することにする。何だか西堀さんが暮らそうとした部屋で、西堀さんの充電器を使うと言うのも、変態じみていて気が引けたが、他にどうしようもない。
ひとしきり衣服を広々としたリビングに並べてしまうと、僕はくまなく4LDKの中を歩き回った。キッチンのカランを水もでないのに捻ってみたり、乾いたバスタブの中に服を着たまま入って横になったりした。給湯器のコントロールパネルに「泡ぶろ」と「ミストサウナ」の表示があって、思わず声を出して笑ってしまった。同じレイアウトだと分かっているのに、各個室を覗いて回った。ドアから眺めるだけでなく、壁伝いに一部屋ずつ一周してみた。玄関から向かって右手手前の部屋で、西堀さんの言葉を思い出し、実際に押し入れを開けてみた。二人用のソファーが上下二段に置けるようなスペースと、衣服をハンガーに掛けたまま収納できるクローゼットが完備されていた。確かに広い。僕は押し入れの引き戸を閉めると、玄関から左手の部屋に行き、以前と同じように仰向けになった。耳に痛いほどの沈黙と、背中に感じる冷ややかで固いフローリング。北側の窓はすりガラスで、二月の空が快晴である事を明るさと薄い青さで伝えている。
僕はここで引きこもるのだ。数日か、可能なら数週間。胸には実家でいた頃とはまるで違う生活の充足感のようなものが宿っている。同じようにやることがないはずなのに、この違いは何だろう、と思わずにいられない。
さて、と僕は思う。今はスマートフォンにも触る気になれない。




