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12 平内さん新年のごあいさつ

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「ちょっと様子見ね、充電器は予備があるからいつでもいいわ」西堀さんはメールにそれだけ書いていた。僕なりにその後の状況を細かく書いて送ったが、それには返信がなかった。そのことが僕をひどく不安にさせた。

 それから後の数日間、僕はスマートフォンの小さな画面で動画や文字列を追うだけの生活を続けた。どんな情報に触れていても30分に一度くらいのペースで平内さんの怒号や前蹴りの感触がフラッシュバックした。初めて自分がイジメの対象になった中学生は、こんな気持ちかも知れないな、と思う事もあった。

 変化のキッカケはSNSだった。12月に入り、知り合いの面々が仕事の忙しさや飲み会の様子などをアップしている中、僕は前蹴りのコツについて調べたことを書き連ねた。なぜそんなことをする必要があったのか、自分でも説明できない。僕は誰にも会う事がなく、平内さんから罵倒され、西堀さんからメールの返信はないだけだ。

 ここの所、僕のSNSの日記は知り合いの中で一種のジョークになっていて、意味不明な内容に6件ほどコメントが付いた。西堀さんの閲覧履歴はあったが、コメントは残さなかった。平内さんも閲覧していた。しかも投稿当日と、次の日も続けて残していた。意味が分からない。もしかすると、前蹴りの練習をしているのかもしれない。閲覧履歴に残った二度目の平内さんの名前を見たとき、僕は唐突に思い当たった。僕は平内さんに皮肉を言いたかったのだ。君は威勢のいい事を言ったけれど、蹴りは全然痛くなかったよ、と。そして、平内さんは最初の閲覧で混乱し、翌日の閲覧で意図を汲んだだろう。彼女の烈火のごとし苛立ちが画面越しに放射される思いがした。今度はひるまなかった。僕の胸の内に溢れてきたのは、激しい嫌悪感だった。

 お前なんて嫌いだし、会いたくもないし話したくもない。誰にだってそうだ。誰にも会いたくない。話したくない。誰も俺を好きになんてならない。それは暴力的で理性を超えた暴風だった。そしてこの嵐は、一週間経っても僕の胸中から去らなかった。西堀さんから、いつもの調子でメールが返ってきていたら、それも違ったと思う。クリスマスが過ぎ、年末の空気が充満し始めても、西堀さんは連絡を寄越さなかった。寄木だけが、年末の大きなイベントに参加したことをSNSで伝えていたが、誰もコメントを付けなかった。


 年末になっても、父は何かと理由を付けて家に戻らなかった。母は父にかなりきつい言葉でそのことを責めたが、父は元旦にしか帰れないと伝えた。僕は母に元旦に出かける予定があると伝えた。平穏無事な正月になる訳がない。父に何かを言ってもらいたがっている母の素振りが苛立たしかったし、お茶を濁そうとして不機嫌になる父も見たくなかった。自分がいなければいい、と僕は思った。

 元旦は初詣の参拝客を病人に仕立て上げようとするような、強い北風が吹いていた。天気は良く晴れて乾燥している。僕は荒れた上唇にリップクリームを塗りながら、ミリタリージャケットのポケットに手を入れてターミナル駅に向かった。初詣に向かう家族連れや恋人たちでコンコースは込み合っていた。ターミナル駅に降りても、最寄りの大きな神社へ向かう人ごみは多かった。誰の目線も恐ろしかったし、ひどく苛立つ思いがした。

 改札を抜けたすぐ横の立ち食い蕎麦に入ろうと暖簾をくぐった時、僕は足を止めてひどく後悔した。そこにいたのは見知らぬ男と肩を寄せ合っている平内さんだった。目があった瞬間に平内さんにひどく苦い表情が浮かんだ。たぶん、自分も同じ表情をしていたんだろう。それも一瞬のことで、支払いを済ませた彼氏がこちらを向くと同時に、平内さんは努めて明るい、気さくな声を出した。

「よ、あけおめ」平内さんは言う。「今年もよろしく」

 僕は何だかよく分からない事を口ごもって目を逸らした。僕らは出入り口から店の横へ移動した。

「これ、あたしの相方。会社のひと」と言って横にいた男を差した。相方、という言葉が恋人を差しているのだろう。その漂わせ方に苛立ちが募った。男は背が高く痩せて色白だが、肩幅は広く手は節ぶっていてがっしりしている。ハンドボールか水球をやっていたのかもしれない。顎が細くてややゾンビ的な面影があるが、笑うと爽やかだった。

「あ、大学のサークルで一緒だった下山くん、たまにみんなで集まるときのメンバー」と平内さんは相方に向かって説明した。相方はへぇ、そうなんだ。とか言わなかった。そうらしいですよ、と僕は思う。平内さんは間を開けず続けた。

「この間はごめんね、せっかく来てくれたのにやさぐれてて。あの時が仕事も体調も一番最悪だったんだ。次の日に西堀さんには物凄い勢いで謝って許してもらったの。下山君は中々言い出せなくて、ほんとうごめんね」

「いや、大丈夫だよ」僕は反射的に言ってしまう。

「会社は結構きついけど、私、クーデターを起こしてやろうと思うの。女性社員がサボるんなら、私が営業社員にびしばし言って仕事回せるようにしよう、って。ちょっとうまくいきそうなんだ。な?」な、と言って平内さんは相方の背中を強く叩いた。男は爽やかに苦笑いしつつ、曖昧にうなずいた。男がその営業社員の一人なのだろう。

「あ、そうそう、西堀さんに充電器返してあげなよ。西堀さん、何となく会いそびれてそのままになってる、って言ってたよ。なくても困らないみたいな口ぶりだったけど」

「そうだね、早いうちに」僕の口が言った。

「じゃ」平内さんは気さくに右手を上げた。「また飲みがあったら声かけてね」

 僕が何か言う前に平内さんは二三歩後ろ足で下がり、ターンして向きを変えた。相方が一歩遅れて、僕に曖昧な会釈をした後、彼女の後ろに続いた。

 僕はしばらく二人の後姿を眺めていた。平内さんが男の手を抱き寄せた。僕が飲み会後に高架下でされたように。平内さんは、また声かけてね、と言った。

二度と会うものか、と僕は思った。


 ターミナル駅を出て、なるべく人通りの少ない通りを探して歩いたら、百貨店が並ぶ大通りに出た。どの店も休業で、六車線ある大通りも車の通りはまばらだった。ほとんど誰もいない。誰かに腹を立てたり、怯えたりする必要がない。正月の大通りは深夜の農道と近い雰囲気を持っていた。このまま車道の中央を歩いてやろうかとも思ったが、馬鹿馬鹿しく思えてやめた。

 深夜過ぎに家に帰ると、母も父もまだ起きていた。リビングのこたつに母が座り、父は電気カーペットを膝に乗せてソファーに腰掛けていた。僕が現われると母はキッチンへ行き、父は聞こえないように溜息をついた。テレビからNHKの定時のニュースが流れている。父と二、三言葉を交わして、僕はリビングを通り過ぎて自室へ向かった。自室のドアを閉めた後、母が何か声を荒げ、父がなだめたような気がしたが、僕は布団に潜りイヤホンを耳に詰めた。


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