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ビースト・ブラッド ー野獣のつがいー   作者: 文野さと


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51.陥穽(かんせい) 2

「あぐぅっ……!」

 ユーフェミアは苦い胃液を吐きもどした。これで一体何回目だろう?

 美しいパウダールームの磨き抜かれた洗面台が吐瀉物で汚れる。センサーが反応して水流がせり上がり、それは渦を巻いて流れ去った。

「おぅ、はぁあ……!」

 もう吐く物などない筈なのに、胃が激しく収縮してえずいてしまう。顔中に汗の玉が浮いているのだろう。いくつかは流れて顎を伝って落ちた。上がった息がなかなか収まらない。鏡を見ることもできない。背後でカメラを構えた男が立っているのを鋭く意識する。あんな男の前でこんな顔を晒すのは死んでも嫌だった。

 拉致されてから、およそ一日程度は経ったと感じている。はっきりわからないのはこの部屋に時計がないのと、窓がすべてシャッターで塞がれてしまったからだ。

 目が覚めたときは夜の三時ごろだと言っていた。

 眠っている間に移動させられたのだろうが、ここがどこだか皆目見当がつかない。食事を取ったテレビ局のある社屋ではない事はなんとなくわかった。周りに物音が全くしないからである。だが、ロマネスク・シティの内か外かもわからない。しかし、目覚めてから半日以上経っているから、おそらく今は夕方頃なのではないだろうか? ユーフェミアはそう検討をつけていた。

 目覚めてからずっと、この部屋でハイドン秘蔵の映像を見せられ続けている。それは、餓えたビジュールの檻に放り込まれた人間や、複数の男たちに凌辱される女達の目を覆わんばかりの、惨い光景。これがハイドンがユーフェミアに見せたかった映像。彼の趣味なのであった。

 部屋に戻ると待ち構えていたハイドンに後頭部を掴まれ、目を(つむ)ることも顔を背けることも許されぬ。そんなことをすれば、別の場所に囚われているロナウドがどうなるかな? と言われては聞かざるを得ない。それでも堪らなくなると、吐くために洗面所に駆け込むことだけは止められなかった。ただし、その様子もハイドンが手持ちの器機で嬉々として撮影していた。

「もういいですか?」

 びろうどのような猫なで声。

 それを聞くと再び胃液がこみ上げそうだ。ユーフェミアは洗面台にうつぶせながらも、カメラを構えた男を睨みつけた。

「ああ……いいですねぇ、君のその宝石のような眼が、苦しげに潤むのは最高ですよ。そんなに……唇をかみしめて、ああっぞくぞくする。さぁこちらにおいで」

 撫でるような声でハイドンは、ぎっと睨みつけるように顔を上げたユーフェミアを見下ろし、まるで好々爺のように微笑んだ。そして次の映像を見せるために背中を押して豪奢な居間に急かす。部屋では相変わらず、薄暗い壁面を四角く切り取ったような光が、惨劇を映し出している。

「こんな……こんなことが……」

 柔らかな、なめし皮張りの安楽椅子。手を伸ばせば届くところに高級な酒を満たした杯を用意されながらユーフェミアは喘いだ。

「ん? 私は何もしていませんよ。これらは私が集めた映像であって、私が手を下したものではないのだから。あくまで個人の趣味ですよ」

「嘘よ! あなたがやらせたのでしょう! 蹂躙されている人の中にはあなたの名を叫んでいた人もいたわ!」

「そんなことは知らないよ。ほら……今度は少年が出てきたね。長くてきれいな手足だ。これからこの子がどうなるかワクワクしないかい?」

「……もうやめて……やめて頂戴!? こんなの気が狂いそう」

 ユーフェミアは頭を抱えて膝に突っ伏したが、髪をつかまれ強引に起き上がらされる。

「おや、あんな野人に身を任せた穢れた女のくせに、殊勝なことを言うんですね……あ、ほら、この子はこの大男にこれから侵されるんだ。わかるかい、この少年は野人の幼体なんですよ。ほら目が光ってる」

 画面いっぱいに映し出された少年の目は恐怖で見開いていた。その光彩が淡く輝いている。人間でいえば七、八歳くらいの野人の少年だ。その周りをむくつけき男たちが取り囲んでいる。いくら身体能力に長けた野人といえども、幼い子どもである。複数の大人の男相手には太刀打ちできない。

 子供は画面に向かって何かを叫んだ。しかし音声は消されている。ハイドンが見せつけた映像の半分ほどは音声を伴っていない。純粋に恐怖に満ちた表情だけを楽しみたい、というのがこの狂人の言い分だった。確かに無音の映像は、被害者の純粋な恐怖を見ているものに焼き付ける。

 野人の少年は服を引きちぎられ、四つん這いにされて男たちに嬲られていた。涙を流しながら小さな口が何かを叫んでいた。親の名を呼んでいるのか? それとも来るはずのない助けを呼んでいるのだろうか?

「この幼体は森海で彷徨(さまよ)っているところを捕まえたんですけどもね、何回も楽しませてもらったんです」

 何気に『楽しませてもらった』というハイドンの過去形が怖かった。

「いやっ! 見たくない……お願いもうやめて……」

 ユーフェミアは髪が引っ張られるのも構わずに、体一杯で抵抗する。だが、ハイドンは容赦がなかった。

「ふふふ……すぐに君も大人しくなる……そしたら君にも素敵な被写体になれるように最高の演出をご用意しましょうね。ああ、楽しみだ」

 そう言ってハイドンはユーフェミアを床に投げ出した。放り出されたユーフェミアが吐き気をこらえながら顔を上げると、ハイドンのきっちりと着込んだスーツの前が不自然に盛り上がっているのが目に入っる。興奮しているのだ。この凄惨な映像と、目の前の女の苦悩を見て。しかし、不思議なことに、彼は一度も性的な意味では、ユーフェミアに触れようとはしなかった。

「何を見ているんですか? ああ、そうか、君もどんどん興奮してきて、私に抱かれたくなったのですか?」

 ぬるりとした笑顔から顔を背けたユーフェミアに、ハイドンはくすくす笑って言葉を続ける。

「残念ながら、私は女と肌を擦りあわすような低俗な趣味はないのです。自分の体の一部を他人に突っ込むなど、嫌悪以外のなにものでもないです。私を鎮めるのは女なんかじゃない。でもそうですね……あなたを素敵な脚本のヒロインに仕立て上げて、実際に私が魅入られたあの表情を見せてくれた時に、私は満足するのかもしれない」

「……?」

「そうです。真っ暗な荒野で暴漢たちにレイプされそうになりながら、あなたは自分で死のうとしていました。あの時のあなたの目……恐怖すら乗り越えて、どこか至高なものを見つめていた……見たこともない翠色……ああ、ぞくぞくする……ううっ!」

 ハイドンはいきなり顎を反らせ、椅子の背に仰け反って痙攣した。ユーフェミアは卒中でも起こしたのかと仰天したが、そうではなかった。彼のスーツの下衣がみるみる濡れ始めたからだ。

「ああ、想像するだけでこうなってしまう……あれは何回も見たから、もう私の一部になってしまっているんだな」

「……」

 またしても吐き気がまた込みあげる。既に胃液すら吐けないだろう。

「本当はすぐにでも手に入れたかったんですよ、君をね。ユーフェミア」

「じゃあ、あの夜のゾクはあなたが……」

「いえ、アレは本当に偶然だったのですよ」

 夜光花の開花に浮かれて夜のフリーウェイを飛ばしたあの日。強くて美しい野人と初めて会ったあの――。

「ゾクはビジュールに若い娘を襲わせるつもりだったようですが、あなたがターゲットになったのはまさに奇跡」

 あれを奇跡と言うのか、この男は。

 ゾクが襲ったのではないだろう、この男が襲わせたのだ。そこへたまたま通り掛ったのが自分だったのだろう。だが、その後の出会いは確かに奇跡と言えるかもしれない。

 ユーフェミアはこんな時ながら、あの時のゼライドの事を思い浮かべて目の奥が熱くなった。百歩譲って、その点だけは、この男に感謝していい点かも知れないと考えた自分は不謹慎な女なのだろうか?

「それを……あの忌々しい野人が……」

 ハイドンはユーフェミアの頭の中を見透かしたように顔を歪めた。先ほどの恍惚の表情とは打って変わった、濁った怒りが眉間に滲み出る。

「汚らわしい……ケダモノめ……君はあの汚らわしい野人にもう抱かれたのですね……実験室ではずいぶん積極的に誘っていたらしいから……」

 ハイドンは這いつくばりながらも、ぎっと顔を上げたユーフェミアを憎々しげに見下ろした。

「あ……あなただったの? ゼライドと私のことを知って、彼の体液を……」

 娼婦マヌエルを無慈悲に殺し、あまつさえその罪をゼライドに擦り付けた卑劣な人物。だが、その問いはどういう訳かハイドンを面白がらせたようだった。

「いいえ、あれをやったのはシャンクですよ?」

「シャンク……?」

 その名はうっすらと知っている。あの夜ゼライドに吊し上げられた男が白状した名前だ。

「それは……」


「私のことだよ」

 突然部屋の大きなドアが開いた。ほっそりした男が立っている。

「やれやれ。とうとうこんな所までやって来て君は。困ったものだ」

 ハイドンはげっそりしたように肩をすくめた。

 背後が明るいために、顔はよくわからない。だが、その姿と落ち着いた声は、ユーフェミアのよく知る人物のもので――

「あ……あ……あなたは……」

 ユーフェミアは身を起こそうとしながら影を凝視した。

 ——嘘だ、こんな事、あってはならない。あるはずがない。

「どうし……」

 ——信じられない。信じられない。信じ――

 影は小さく溜息を付いたようだった。

「……僕は幾度も警告したのに……こうなっては仕方がない。悪いが、最後まで付き合って貰おうか。ユーフェミア・アシェインバード」

「バルハルト室長……」

 声は絶望に彩られた。




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