50.陥穽(かんせい) 1
結局あれからどんどん話が弾んで、ユーフェミアがディレイの家を辞したのは、ハイドンと約束した食事に間に合うギリギリの時間だった。
「遅くなって申し訳ありません。下のお部屋を借りて着替えておりました」
夕食に招かれたのにスーツではよくないと思い、ユーフェミアは上品なワンピースとさりげない小物を身に着け、髪型と化粧を直した。殆ど駆け足で最上階のレストランにロナウドと共に入ったのだが、予定時間を少し過ぎており、冷や汗をかいたが、ハイドンは鷹揚に手を振ってこたえた。
素晴らしい夜景の見える個室である。
「ああ、いいですよ。女性が身支度に時間をかけるのは当然ですからね。そのドレスは大層似合っておいでだ」
「ありがとうございます。姉に貰ったものです」
見え透いたお世辞に、ユーフェミアは愛想よく返した。
「この建物にもテレビ局が入っているのですね。どおりで人の出入りが多い訳です」
「ええ、今日は何か催しがあったようですね」
「駐車場は大きなコンテナカーがいっぱい停まっていました」
「そうでしょう?」
ハイドンは、世間話をしながらも適当なタイミングで給仕を呼んだ。待ち構えていた給仕が恭しくメニューを差し出す。いわゆるVIP待遇である。
すぐに食前酒が配られ、コースが始まった。
「素晴らしい葡萄酒ですね。初めて飲みました」
美しい赤い酒を灯りに翳して色を楽しみながらユーフェミアが言った。初めて飲む酒は非常に口当たりが良い。しかし、飲みすぎてはいけない、そう思いながら。
「これらは旧世界の葡萄を再現した木から、採れた葡萄で作ったものなのですよ」
「と言うと、保存されていた胚を使って?」
ユーフェミアが尋ねた。彼女の専門は本来植物なのである。
「ええ、そうです。旧世界の遺産は我々に計り知れない恩恵をもたらしてくれる。これはその一つです」
ハイドンは紅玉のような色の酒を灯りに翳しながら、うっとりと言った。
「……その世界はどこへ行ってしまったのでしょうね? そこには人も、人が作ったものも、そうでないものも、すべてがあったはずなのに」
「多くは母星と運命を共にしたのだと言われています。我々はその忘れ形見なのですよ。旧世界の人々は滅びの運命を前に、選ばれた私たちの祖先に未来を託した。我々は選ばれしものの末裔であることを忘れてはならないのです」
「でもどうして、そのあたりの記録が詳しく残っていないのだろう。……残すべきものではないと彼らは考えたのでしょうか?」
ロナウドが珍しく真面目な事を言った。
「後世に知られるのが憚られるような争いか何かが起きたのかも」
「そうね。でも知らない方がいいってこともあるわ」
「……思慮深い事をおっしゃる。ユーフェミア嬢」
そんな話をしながら、食事は意外にも和やかに進んだ。
料理はすべて美味で、雰囲気も申し分なかった。普段はあまり人好きのしない雰囲気のハイドンも、今夜は至極穏当に若い二人の相手をし、ロナルドをからかい、ユーフェミアをおだてた。
尖塔聳えるゴシック・シティに比べると、やや牧歌的な雰囲気のある、ロマネスク・シティだが、それでも市内で一番高い建物の最上階から見る夜景は素晴らしかった。
「この建物の全てがあなたの持ち物なんですか?」
「まぁ私というよりも、会社の持ち物なんですが。因みにこの周りのビルは全てそうです」
「すごいなぁ。僕なんかには想像もつかないお金持ちなんですね」
「お金だけ持っていてもつまらないものですよ。私なんて年寄りの独り者なんですから。お金は有意義に使うことでのみ意味がある」
ハイドンは余裕の微笑みでロナウドに頷いて見せた。
「え…? ミスター・ハイドン、奥さまはいらっしゃらないのですか」
「いたことないですねぇ……家族もなし。ははは、寂しいもんですよ。趣味ばかりでね」
「趣味ですか、まさか趣味は仕事とかっていうんじゃないですか?」
「上手いね、君。ええ、確かに仕事は嫌いではないですが、趣味とは……ちょっと違うかな……そこまで救われない男じゃないはずですが……」
「ミスター……」
「その堅苦しい呼び方はやめてもらえませんか? 親しい人はジグと呼ぶ。私の名はジッグラトと言うんですよ」
堅苦しいと言えば、若輩者の二人に丁寧すぎるほどのものの言い方をするハイドンのほうなのだが、彼はこれがディフォルトらしい。しかし、ハイドンに愛称で呼びかけるほど、親しい人間がいたと言う事ユーフェミアのとっては驚きだった。
「ジグ……ですか? ちょっと珍しいお名前ですね」
「ああ、そうでしょう? 旧世界でも古い文明の言葉で……『聖なる塔』という意味らしいです」
上手に隠してはいたが、ハイドンはその言葉を非常に丁寧に発音した。自分の名前を誇りに思っているのだろう。
「聖なる塔……ですか」
「ええ」
ハイドンはユーフェミアを見つめていった。
「素敵です……それで、どんなご趣味をお持ちで?」
ユーフェミアは粘っこい気がするハイドンの視線から逃れるように尋ねた。
「まぁ……一言でいうなら映画……映像かな?」
「映画! 素晴らしいじゃないですか! 僕も大好きですよ」
「私は映像が好きでしてね……特に旧世界の映像データは今ではほとんど知られていないが、秀逸なものがたくさんあるんですよ」
「あ……タマにTVで特集されますよね。昔は今より夢のある作品が多かったように思います」
「そうだね。だげど、私が好きなのは真実を映し出したドキュメンタリーなんですよ。奇をてらったり、とく特殊効果を用いていない生の映像がね。好きが高じてテレビ局のオーナーになってしまったくらいだから」
「うっわ! そこが我々とは大違いの発想ですねぇ」
ロナウドが素直に感心する。
「だって君、テレビ局を持ったら、いろんなところにスタッフを派遣して、様々な画像を撮ってこれるじゃないですか。一人で集めるより効率がいい」
「今までにたくさんの映像を集められたのですか?」
「ええ。そうですよ。美しいのから驚くべきものまで……あまり手を広げ過ぎたので、最近は少しジャンルを絞っていますが……ユーフェミア嬢、いつか私の資料室まで見に来られませんか? さ、もう少しいかがです?」
ユーフェミアにワインを勧めながらハイドンは言った。給仕が半分くらいになった彼女のグラスに酒を注ぎ足す。
「え? でも私の姉はサイオンジですよ」
「そんなこと関係ありません、確かにあなたの姉上は私のライヴァルかもしれないが、あなたとはそうではない。姉上だって寛容な方だ。ちゃんとわかってくださいますよ。私は是非あなたに見せたいものがある」
「さぞ素敵な映像なのでしょうね?」
極上のワインでいい気分になったユーフェミアは、穏やかな笑顔を浮かべて寛容に言った。
——空気が湿っぽい。
音はしないが、肌の感覚でなんとなくわかる。雨が降っているのだ。大地を閉じ込めるような雨が。
「……」
ユーフェミアはうっすらと目を開けた。馴染みのない感覚に取り囲まれている。肌に触れるのは上質の布の感触。こんなもの自分の記憶にない。だが、その記憶そのものが酷く曖昧になっていた。
ぼんやりしていた感覚が少しずつ蘇ってくる。
いったい自分はどうしたのだろう。腕を伸ばしてさっと体をなでると、とりあえず服は着ているようでまずはホッとする。周囲は暗い。しかし闇の中という訳でもない。首を捩じって足元を見ると向こうに細長い光が見えた。おそらくドアが薄く開いているのだろう。光はその向こうから漏れている。青くて冷たい光が。
——なんだろう?
起き上がってみるが、その途端強い目眩に襲われた。たちまち気分が悪くなって、またしても布の感触に沈んでしまう。柔らかくて、暖かい感触。慣れていればとても居心地がいいはずの――。
「え?」
そこは大きくて豪華な寝台だったのだ。
——どこっ⁉︎ ここどこ? なんで私こんなところにいるの?
恐慌がじわじわとユーフェミアを侵食しはじめた。ぐぅと胃液が迫り上がる。
——落ち着け。パニックになっても何にもいいことはないわ。思いだそう。私はさっきまで、ロナウドとミスターハイドンと食事をしてて……それで……
食事がメインのコースまで進んでいたことは覚えている。
映像の話が盛り上がって、葡萄酒が注ぎ足されて……葡萄酒!?
「気がついたようですね」
ユーフェミアが目を閉じて吐き気をやり過ごしながら考えている内に、いつの間にか傍らに人影が立っていた。
「……え?」
再び目を開ける。影はハイドンだった。
「あっ、あのっ⁉︎」
「ああ、いいですよ。君は少し飲みすぎて、あのまま眠ってしまったんだよ。だから、レストランの下の私の部屋に運んだのです。ご安心を」
安心どころではない。姉の政敵になんという醜態を晒しているのだ自分は。ユーフェミアは慌てた。
「そ……それは……ご迷惑をっ……! すぐに帰りますので」
「帰るってどちらへ?」
「だって、そのヘリが……今何時ですか? 予定では十時ごろのフライトでしたよね……でもこれは雨の気配……?」
だとすると、とっくに日付が変わってしまったのではないのだろうか?
「そう……今四時を過ぎたところです。余りにぐっすりお休みになっていたので、帰りは明日でいいかと愚考いたしました。雨が激しいですからこの時間に飛ぶヘリはありません」
「……」
肌がしっとりすると思っていたら、やはりもうそんな時間なのだ。どれほど正体なく酔っぱらってしまったのだろう。あんなに気をつけていたのに。ユーフェミアは、又しても仕出かしてしまった大失態に身の竦む思いだった。
——だけど、それほど飲んでないはず……確か一杯目が少なくなってきたら、給仕が少し足してくれて……。
「もう……申し訳ありませんが、姉に連絡を……」
「心配ありません。サイオンジ市長のことは私に任せてください」
「あなたが連絡を? そうだ、ロナウドは……」
「ああ、彼ね。彼も別の部屋で休んでいます。あなたと同じように」
——まさか、ロナウドまで酔いつぶれてしまったの?
ロナウドは酒には強いはずだ。ユーフェミアは、何か大変な事が起きたのだと感じ始めた。だが、気分が悪くてなかなか思考がまとまらない。
「そ……うですか。二人して色々ご迷惑をかけてしまったようで……いずれちゃんとお詫びします……すみません、私のバッグはどこでしょうか?」
「ああ……バッグね。こっちの部屋にありますよ」
「あ、すみません。ちょっと端末で、知人と連絡を取りたくて……」
ゼライドに連絡を入れてみよう。彼ならもしかしたら、すぐに駆けつけてくれるかもしれない。それにやっぱり自分から姉にこっそりメッセージを入れておきたかった。
ユーフェミアは何とか寝台から降りて立ち上がった。吐き気は収まらないし、目眩までする。しかし、何とかかここをやり過ごさなくては。
よろめく足を叱咤して隣の部屋に足を踏み入れる。その部屋もやはり広く、なのに明かりは点いてなくて暗かったが、一つだけ大きなが光源があった。
正面の壁際におかれた巨大なモニター。
そこに映るもの。
『……ビジュールだよ。可愛いだろう?』
暗い荒野と男たちの背中がおそらく車のライトに明るく照らし出されている。そして、その向こうに倒れているのは……
『こ、こんなもの……どうして!?』
『ここの草の上が柔かそうだぜ……それにカメラの位置とも合う』
『い、嫌だ……やめて』
『すまねぇな、お嬢ちゃん。あんたはこれから二人のならず者に犯されて、コンテナ内部でビジュールに襲われて殺される。その後雨が降って朝方に惨殺死体が発見されるっていう筋書きだよ?』
『や……や……やめろーっ!』
映し出される恐怖に歪んだ顔は。
『ふざけるなああああああーーーーーー!!!』
そこでビデオが途切れ、室内は人口の闇に満ちた。
映像の残光がモニタに残り、ぼんやりと立ち尽くすユーフェミアを照らしている。
「……いい映像でしょう? これがぜひ君に見てもらいたかったものなんですよ」
なめらかな声が耳もとで囁く。
「……」
「でも、これ以上はダメなんです。ここまででいつも切ってしまうんですよ。この先にあの忌々しい野人が映っているからね。いつかちゃんと編集しようとは思うんですが……」
「……ミスター?」
絞り出した声はどうしようもなく震えている。
「ジグ……ですよ。そう呼んでください、ユーフェミア……あなたの名前も美しい……」
「これは一体……?」
「わかりませんか? あの時のあなたの映像です……少し巻き戻しましょう……」
ハイドンは再生ボタンを押した。再び室内が映像に照らし出される。
「……この頭の悪そうな男たちが邪魔ですが、あなたの恐怖に満ちた顔が素晴らしいでしょう? そして……ほら、ここ!」
ハイドンは画像を停止させた。
男に馬乗りになられ、シャツを引き裂かれている自分。髪に指を突っ込み、何かを決意したように腕を振り上げ……。
「ああ……ここです……」
画面がスロー再生に切り替わる。ハイドンは青い光に照らされながら、食い入るように画面を見つめていた。
「死を決意したのでしょう? この瞬間のあなたの目が……とてもいい。もう何十回となく見ているのですが、いまだに興奮する……ねぇ、ユーフェミア?」
ハイドンはゆっくりと立ち上がった。
「この顔をもう一度見たいんです。あなたには素晴らしい舞台を用意しているのですよ。さぁ、もう一度お眠り? 次に目覚めたときは、もっといいところに連れて行ってあげますからね……」
びろうどのようなハイドンの声を、他人事のようにユーフェミアは聞いた。




