4.闇の邂逅 3
ルビがなくても獣は「じゅう」眼鏡は「グラス」とお読みくださいませ。
その時、ユーフェミアは何が起きたのかわからなかった。
こんな奴らに好き放題に犯された上、この世で最も残忍な獣に餌として投げ与えられ、喰い殺されるくらいなら死んだ方がましだ。
後から思いだしても笑えるくらい、一瞬で決めた命の結末。それまで迷いに迷ってぐずぐずしてきた人生が嘘みたいに思えた。
——自分の人生なら終わらせてやる。自分の手で!
そう思って姉からもらった護身用の刃を自分に向けて振り下ろした……つもりだった。
なのに、小さくて美しい刃が喉に食い込む瞬間は訪れず、それどころかいきなり体が軽くなった。初めは上から胸を執拗にいたぶっていた男が視界から消え、次いで下方から圧し掛かって胸を弄っていた男もいなくなった。
――あれ?
ユーフェミアが呆然としていると、かなり向こうの茂みがバキバキと鳴り、それと同時に聞き苦しい悲鳴が上がった。
しかし、そんなものに構っていられない。ユーフェミアはなんとか半身を起こし、尻餅を突いたままじりじりと後退さった。
本当なら車の停まっているフリーウエイまで走って逃げたいのだが、立とうとしても恐怖で萎えた足が言う事を聞いてくれない。それに、本当に強姦の脅威がなくなったのかも分からない。一難は去ったかもしれないが、今のこの状態ではとても安全とは言えなかった。10モルと離れていない所に大きな影が蟠っている。こちらに広い背を向けて。
影はまたしても男だった。
彼はユーフェミアに圧し掛かる一人の襟首を掴み、無造作に後方へ投げ捨てた。そしてもう一人の喉首を締めあげ、伸ばした右腕の先に吊るしている。男は暴れる気力も萎えたようにだらりとしていた。すごい力だった。体格的には暴漢二人が遠く及ばない程の大男。
弱い光線の下でも黒衣に包まれた素晴らしい長身と長い脚がわかる。反対に頭部はやけに白く見えた。
ーー誰? 何者? 敵か、それとも助け手か?
男は片腕を地面と水平に上げた。
「お前……どこのもんだ?」
低い声が問うた。静かだが心底が冷えるような響きを孕んでいる。喉首を押さえられ、無様にぶら下がっている男が無様に呻いた。
「ぐげぇ」
「言わねぇと、このままへし折るぜ。あ、それか、顎を砕いてやろうか? 一生トーフしか喰えねぇ体にしてやってもいい」
「ムスコさんはすっかり大人しくなってるぜ」
「うわ、汚ねぇ……涎垂らすなこの野郎」
次々に繰り出される言葉は品が無く、発音も少し変っているが、意外にも野卑ではない。殺気は発しているが、わかりやす過ぎるからおそらく演技だ。その気になれば、易々とやり込められる相手に脅しをかけるのを楽しんでいるだけなのだ。と、すると矢張り危ない類の人物なのだろう。
ユーフェミアはそう感じた。
会話(会話と言えればだが)は、どうして男達が自分を狙ったかという方向に進んでゆく。それは非常に気になるところであったから、ユーフェミアは千切れた衣服を掻き寄せながら身を出来るだけ低くして耳を澄ませた。
身を縮こまらせて窺っていると、シャンクと言う人名が挙がったが、元よりそんな名前に聞き覚えはない。そもそも全てが何かも間違いなのに違いなのいだ。
自分はただの公的機関の下っ端研究員で、志は低くはないが、今までのところ大した成果もあげていない。どこかの知らない誰かに狙われたり、殺されたりする値打ちなどないと、そう考えたかった。
「二度とこの娘のケツを追いかけるなとな。ゼルがそう言ったと言えば大抵の奴ならわかる」
銀髪の男が言い放った。
——ゼル? それがこの男の名前なの……? いえ、今はとにかくこの場から逃げなくちゃ。
ユーフェミアには吊るされている男も、ゼルと名乗った黒づくめの男もどうでもいい。どう考えたってどちらも100%堅気じゃない。それに引き換え、自分は多少派手な外見をしているだけで、どこで切っても善良な一市民だ。
ユーフェミアがまだ震える足を叱咤しようとした時、甘い匂いが前方の闇から流れてきた。今まで色んな感覚が麻痺していたのか、結構大きな機械音もしているようだ。割と耳に馴染んだその音は、職場の保管庫の電動扉の音に似ていた。
「ち……さっきの奴が息を吹き返したんだな」
——さっきの奴?
ユーフェミアを襲っていた変態の事だろうか? なんだかさっき勢いよく飛んでいった様な……それにしても甘ったるい匂いが漂う。まるで南国の熟れ過ぎた果実のようだ。
回らぬ頭でぼんやり甘い匂いを嗅いでいると、直ぐ傍に停まっていたトレーラーが急発進し、ぎゅるぎゅると旋回しながらハイウエイの方へ去って行った。
さっきの音はコンテナのシャッター音だったらしい。飛ばされた男が仲間を見捨てて一人で逃げたのだろう。そしてその後に何かが蠢く気配。
——あ……赤い灯?
ブッシュの直ぐ上あたりに、光る二対のそれは。
さっきコンテナの小窓の向こうで見たのと同じ。周囲の闇に甘い匂いはますます強くなっている。
——まさか、ビジュール!? さっきあいつらが話していた?
脅威は去ってなんかいなかった。命の危険は更に増している。ユーフェミアは絶望に顎を落とした。これで万事休すだ。逃れるすべはない。自分もこの謎の男も。
危険な獣が放たれたのだ。
「あ……あ……」
ユーフェミアは喘いだ。
ーー酷い。こんなのは酷過ぎる。
目の前に危険な男二人、その少し向こうにもっと危険な肉食の獣が見えた。金属質の鱗が鈍く光っている。周囲を伺いながらこちらに狙いを定めているのだ。
どこをどう逃げたら無事に家まで辿りつけるだろうか。その可能性は限りなくゼロに近い。さっき自決しようと思っていた事さえ忘れてユーフェミアは、眼前の三体の脅威を見つめた。
ケダモノは苦もなく二人の男を屠るだろう。そして、その次は自分の番だ。間違いない。
獣のほっそりした首が傾げられる。その仕草だけは可愛いと言えない事もない。
そして声とも言えない叫びが上がった。
ぐんと高く舞い上がる二つの赤い凶星。獣が跳躍したのだ。
それからの出来事は一瞬の筈なのに、後から思い出しても映像の様にユーフェミアの脳裏に鮮やかに再生される出来事となった。
ずんぐりとした首を掴んでいた逞しい右腕が横に振られて男が吹っ飛ぶ。そして頭を僅かに傾げた長身の男は、高々と左腕を天に差し伸べ、頭上から降って来る凶獣に対して備えた。
ユーフェミアは書物でしか見た事がない美しく禍々しいその獣の姿を想い浮かべた。
不吉に彎曲した爪は地面を蹴るのにも、樹木を駆け昇るのにも非常に適している。無論、見定めた獲物に襲い掛かるのにも。
男は体を捻ってその攻撃をかわすと、その最凶の足首を引っ掴み、肩を中心に遠心力を使って地面に叩きつけた。そして目にも止まらない素早さで馬乗りになると、今度は顎の下をがっちり抑えつける。
まさか自分の攻撃が回避されるとは思いもしなかったのだろう、獣は長い尾と脚を使って大暴れしているが、体重差が二倍ほどはあるだろう、大柄な男を振り落とす事は出来ないらしかった。
「生け取りにしようかと思ったんだが……この状況じゃな」
呑気そうな呟き。そして首の骨が折れたらしい、ガキという嫌な音がしたと思ったら、凶暴な獣の体がピンと反り上がる。幾度か痙攣したのち最初に足が、それから尾がばたりと地に落ち、動かなくなった。
——ああ、死んでしまった。
残酷な生き物の残酷な結末を、ユーフェミアはただ茫然と見ていた。
「ひ、ひいいいいいいいっ! たっ助けてくれ、バケモノ、化け物だ~!」
自分と同じように腰を抜かしていた男が不細工な悲鳴を上げておたおたと逃げてゆく。もちろんユーフェミアも心からそのマネをしたかった。
なのに出来なかった。
最早ピクリとも動かない獣に何の注意も払わず立ちあがった男がゆっくりと振り向く。その動きに目が釘付けになっていたから。優美とも言える所作は自信の表れか。
バケモノとは今しがた死んだ獣ではない。
この男こそが獣なのだ。
逃げた男が口走ったのはこの事だったのだ。
ユーフェミアはやっと理解できた。
闇の中に青銀の宝石が瞬いていた。今さっき死んだ獣の赤い凶眼に勝るとも劣らない、光の強い一対の双眸。
「ああ……いたんだっけ?」
男が僅かに動き、無情な言葉と供に光が消える。眼鏡をかけたらしい。この闇の中で。
——だけど今見たあれは……人の目?
ユーフェミアは立ち尽くす。
ーーああ……恐ろしい。だけどなんてキレイなの? この人の目は。
そんな思考を最後にユーフェミアの意識は急速に遠のいた。