47.明日への希望 1
スクナネズミの交配は順調に進んでいた。
尻尾を含めても大人の指の長さ細しかない小さな彼らでも、今では三百匹を超え、庁舎の奥の空き部屋ではそろそろ収まりきらない。あれだけもって来たケージも、ほぼ満杯状態だ。壁一面に積み上げられたケージに、小さなネズミがうぞうぞと動く光景に辟易して、エリカはこの部屋には入ろうともしない。
あれから三週間近く経った。
市内には犯罪が頻発していた。<ナイツ>中毒者の起こす無数の小競り合いは数え切れぬほどで、中でも一番酷いのは<ナイツ>をくれと狂乱した若者がガソリンを被って焼身自殺をとげ、その火が燃え移って市民が数人大怪我をしたことだった。
強盗事件も数件。それ以外にも、ゾクの若者たちがセンターサークル内の道路にまで侵入し、我が物顔で改造車を乗り回している。市内にサイレンの響かぬ日はなかった。
だが、市庁舎の奥のこの一画だけは切り離されたように静かである。
「ほうら、ご飯だよ~」
ユーフェミアはケージごとに夜光花の種子を入れてやる。ちょろちょろとスクナネズミ活発に動いた。餌には別の穀物なども混じっているが、世代が新しくなればなるほど、彼等は他の餌に見向きもしなくなるのだ。オリジナルと見かけは変わらないが、もうほぼ品種改良されたとみて間違いない。
研究所には出務できないが、ロナウドとソニアからも同じような報告が来ている。彼等は急にユーフェミアが出勤してこなくなった事に、最初かなり驚き混乱していたが、ある時から何も言わなくなった。意外なことにユーフェミアがいなくてもまじめに研究を続けてくれているのだ。これにはきっとバルハルトが関係しているのだろうと、ユーフェミアは思っている。きっと彼が陰で応援してくれているのだ。
「だけど、そろそろ次の段階に進めなくちゃ」
実験室ではなく、自然に近い状態で交配実験をしたかった。つまりケージの中でなく、地面の上、屋外の環境の中でと言う事だ。しかし、夜光花は公的には禁忌植物で、まとまって栽培されているのは研究所内の実験農場だけである。
しかも年に一度、真夏の夜に幻想的な花をつける夜光花は、落花後二月経って、今がちょうど種子が実る時期なのである。こんな機会は滅多にない。しかし、今の状態では研究所に戻る事は出来ないだろう。ましてや、犯罪者たちに秘密で栽培している夜光花の畑はどこかにありますか? と聞く訳にもいかない。
「さぁて、どうしよう。絶対うまくいくと思うんだけど……どっかに自然発生してないかなぁ。悪い人の知らないところで……でも探しに行けないし……」
ユーフェミアが考え込んでいる時、意外にもエリカから助け船が出されたのだ。
「姉さん、突然どうしたの?」
「実はね、ロマネスク・シティの実験場を借りられる事になったのよ」
姉と会うのは三日ぶりだ。
言葉には出さないが、市長である姉は犯罪対策で疲れ切っているに違いない。そしてユーフェミアも姉の仕事には口出ししないでいた。しかし、数日ぶりに会う姉は少し痩せたようだが相変わらず美しく、黒いスーツをびしっと着こなしている。
「え? ほんとう!」
「ええまぁ、あちらの実験場は市内にあるらしいんだけども。それがハイドン氏の口利きなの。彼はあなたのネズミの実験に興味を持ったようね。私にも詳しく聞きたがったわ。それで向こうの関係者に働きかけてくれたようよ」
ロマネスク・シティはゴシック・シテイより人口は少ないが、広い面積を持ち、ゆったりした環境を誇っている、この世界第二の都市だ。
「ミスター・ハイドンの? ……でもいいの? 姉さんの政敵じゃない。いわば喧嘩相手」
「意見と手段を異にする同業者よ。彼はロマネスク・シテイにもいくつか会社を持っているから顔が利くのね。それに、これは政治とは無関係だっておっしゃってるんだけど。どう? やってみる?」
「いいの⁉︎ じゃあ、早速ゼルに頼んで連れて行ってもら……」
ユーフェミアは目の前の機会に飛びついた。
「彼はダメよ。前の二の舞になりたいの?」
「え? でもじゃあどうやって……」
「大型ヘリを用意します」
「ヘリ? 私の実験のためだけに?」
「あなたの実験だけに公費は注ぎ込みません。そのヘリで、向こうの病院から頼まれた医療機器も運ぶ予定です。総勢はあなたも入れて六人。あなたにはガーディアンもつけるし」
「どうしてもゼルと一緒じゃダメなの? ヘリなら大丈夫だと思うんだけど」
あれからゼライド幾度か連絡はきたが、会えてはいなかった。ユーフェミアは思い出しても身の内が熱くなるあの夜を思い出しては、眠れぬ夜を数えていたのだ。彼は自分に会いたいとは思わないのだろうか? 連絡はいつも短い伝達だけで、それもめったにこない。
「どうしてもダメです。あの人のエージェントから、護衛の任務がないなら彼を開放してほしいと、矢の催促だし。それに彼は今、娼婦殺しの犯人を追っていると思う」
「聞いてない……」
エージェントと言うのはパルミラの事だろう。三か月の契約期間も残り僅かだが、パルミラは一刻も早くエリカと交わした契約を解消したいに違いない。違約金くらい、いくらでも払うつもりでいるのだろう。
——あの人はゼライドを私から引き離したいのだから。
ユーフェミアは唇を噛んだ。エリカは妹の様子を複雑そうに見つめている。エリカにはエリカのユーフェミアへの思いがあるのだ。
「……あなたが心配するって思ってるんでしょ? もっと悪くて手伝いに来るとか。彼は賢明ね」
「要するに私が邪魔なのね」
「あら御明察」
沈鬱そうな妹をエリカは情け容赦なく両断した。いつもの事である。
「……いいわよ。こっちがなんとかなったら、なんとでもして絶対会いに行くんだから」
「あなたねぇ……相手の事も考えて……」
「姉さん? じゃあ姉さんはゼルと連絡をとっているのね?」
ユーフェミアは似合わぬ洞察を見せた。姉の様子をじっと見つめている。
「そうね」
「彼は今何をしているの?」
「言ったでしょ? 彼は多分、野人独自の情報網を使って動いている。彼が動くと目立つから、色々障害は多いようだけど。……詳しくは私も知らない」
「そう……なら、私だって頑張らなきゃ! 姉さん、ヘリはいつ出るの?」
「明後日。護衛はつくけど、実験はあなた一人でやらなくちゃいけないのよ。できるの?」
「やって見せる」
ユーフェミアは言い切り、背後のネズミたちを振り返る。何匹かはきょとんとした顔で姉妹を見ていた。
「さぁ、私の可愛いネズミちゃん、いよいよ出番でちゅよ~」
「やめてよ。あんたまでネズミになるわよ」
エリカはネズミたちを見ないように視線を泳がせて言った。
どすぅ。
昏い空間にマットを打ちつけるような鈍い音が響いた。
重い靴で蹴られた男は煤けた壁に激突して崩れ落ちる。それでもまだ正気を失っていないのは、男が曲がりなりにもきちんと訓練を摘んでいるのと、殴った相手に手加減されたからだろう。
「ぐうう……」
男は口から血を流しながら、部屋の暗がりに立つ長身の影を睨みつけた。男も相当戦ったようだが、力の差は歴然だった。辺りには最早使えなくなった銃や暗器が散らばっている。必死で繰り出した手練の技もすべて、相手に叩き落とされたのである。辺りは広く濁った闇だ。
アウトサークル、それもかなり危険な一角にある、打ち捨てられた地下倉庫であった。
す、と影が動き、男の体が竦む。自分が喋らない限り、殺されないだろうとは思う。だが、到底五体満足で開放してもらえるとは思えない。恐れが男を蝕み始めた。口腔が粘つく。
「そろそろ言う気になったか? お前がマヌエルの仕事場付近をうろついていた事はもうわかってる。苦労して調べたんだ。上流の紳士がいくら変装したって、分かる奴には分かるんだよ。俺達ケダモンの嗅覚を舐めんじゃねぇ。吐いた方が楽だぜ?」
ゼライドはいっそ気楽そうに尋ねた。しかし、男は視線を合わせようともしない。ゼライドは屈みこんで、男の上質のスーツの襟を掴んだ。襟には有名なプロスポーツ団体のバッジがつけられている。男は有名なアマチュアのボクサー、そしてゴクソクだった。
「誰に頼まれた? そして、誰に報告した? ……言えよ」
ゼライドは穏やかな話しぶりから、いきなり語尾を落とした。野人の瞳が暗闇で凶悪な光を宿している。
「知らない。私はただのスポーツマンだ。お前たちみたいなゴロツキとは違う」
こんな状態でも男はしゃあしゃあと嘯いた。
「ゴロツキだ? まぁ、確かにそれについちゃあ文句は言えねぇ。確かに俺ぁゴロツキだよ。だが、そう言うお前はなんだ? 上流紳士のスポーツマン様が何で靴にこんなものを仕込んでいる!」
ゼライドは吹っ飛んだ靴を拾い上げ、つま先を男の傍の壁に思い切り打ちつけた。すると踵から小さくも鋭い刃が飛び出した。ギミックである。刃は小さいが濡れたように光っている、おそらく毒も塗ってあるに違いない。バックキックか、かかと落としをまともに喰らうと命に関わるだろう。
男はまだ経験の浅いゴクソツのようだった。ゼライドの顔をまともに見れずに、震えている。
「ヒョウ」
ゼライドは感心したように口笛を吹いた。
「なかなか、いい細工じゃねぇか。これだけのもんをつくれる職人はそうはいねぇだろう。そっからも調べはつくな。どうだい? このきれいな刃で、ハクがつくように傷を作ってやろうか? 古い言葉で、男の傷は勲章だって言うじゃねぇか。きっとカッコいいぜ? ん?」
そう言ってゼライドは、男の喉を掴んで吊るし上げる。地につかぬ足指が虚しく宙を掻いた。野人が凄惨に嗤い、靴ごと小さな刃を男の顔に押しつけた。
男はマヌエル殺しの実行犯ではないが、少なくとも関係はしていたようだった。何日も地道に調べた結果である。あの地域で顔の知られていない者の方が足がつかないと踏んで、利用されたものか。ボクシングクラブでは故障と称して、姿をくらましていたのをやっと足取りをつかんだのだ。
「ほらほら動くと、切っ先が当たるぜ。ふん……この匂いはリュウノネだな。一度俺んちに送りつけられた事がある」
リュウノネとは神経性の猛毒である。出会った頃のユーフェミアが不用意に触ろうとして、怒鳴りつけた事があった。あれはたった二か月半前の事なのだ。なんだかずいぶん昔の事のように思える。
「ずっと俺を狙ってやがったな……あいつまで巻き込んで……」
ゼライドは奇妙に掠れた声でそう言った。
「言え!」
突然迸る野人の激情。
光が少ないせいで、野人の瞳が燃えるように輝いている。それは、野人を忌み嫌っている男の目にも美しく見えた。
「言え! でないとこの刃をお前の喉にめり込ませてやる!」
野人の全身から怒気が噴き上がる。それは人ではない者の放つ、見えない質量だった。アマチュアボクサーは、まるで自分が直火に晒されているような感覚に襲われた。今まで強がっていた彼の顔が、今度こそ恐怖に歪む。
「ひ……」
男の喉が鳴った。美しくて無情な光が彼を貫く。彼はもう野人にとって戦う相手ですらない。
「や、やめろ! 言う……言うから、やめてくれ!」
男は泣き声を上げた。
「……誰がマヌエルをやった」
「シャンクだ……俺は手引きと見張りをしていただけだ!」
「シャンクだと? それは誰だ、どこにいる」
「誰もしらねぇ。お前が立ち寄ったと連絡を入れたら、すぐにやってきた」
「すぐとはどのくらいだ?」
「さん……いや、四十分くらいか……な……お前が寄って直後に連絡を入れたから」
四十分。
微妙な時間である。市庁舎からなら余裕で、思い切り飛ばせば研究所からも十分駆けつけられる時間だ。
「そいつと話をしたか?」
「しない。俺の端末にもういいから去れと連絡が入った。すぐ近くまで来てたんだろう。シャンクはいつも端末で指令だけを伝える。報酬はものすごい……だが、失敗したり逆らうと……殺される」
「ふん……ダニィって男を知ってるか? 二か月前に殺された男だ」
ゼライドは話を変えた。
「し、知らない。組織に横のつながりは……ない」
「ふぅん……それだけじゃ足りねぇな。もう少し身のある事を言わねぇと、手元が狂うぜ?」
ゼライドが残忍に言い放ち、鋭い刃物で、ほんの僅か皮膚に窪みを作った。まだ傷にはなっていない。
「よ、よせ! やめてくれ! 死んじまう!」
男の顔から滴る汗が、喉を掴むゼライドの手を濡らしてゆく。
「シャンクは男だ! 声からしてそう若くもない。だが老人でもない。痩せた、頭の小さい……いつも濃い眼鏡を掛けていて……何だか箱のような何にもない薄暗い部屋にいた。暗いモニタの画像ではそれだけしか話からない……あ……そ、そういえば」
男は何とか思い出そうとしているようだった。
「……左右で少し濃さの違う眼鏡をしている……そんな気がした」
「あ?」
左右で濃さの異なるグラス? なんて突拍子のない。ゼライドは首を捻った。
——どう言う事だ?
片手で首を締め上げたまま当て身を喰らわせると、男はあっさり意識を失った。
それをどっと床に投げ出すと、目もくれずに汚い倉庫を後にする。あれから家には戻っていない。
端末を取り出すと、多くのメールが入っていた。
多くはパルミラからだが、ユーフェミアからも一日一件はメールが入る。
文面はいつも短い。
『無理しないでね。私は大丈夫。連絡できそうなときはしてください』
ずきりと胸が痛むのをこらえて、野人は下町の雑踏に溶けこんだ。




