45.甘さと苦さと 2
雨が止みかけていた。
窓の外がうっすらと白む。夜明けが近いのだ。
満たされた男は傍らで眠る女をうっとりと見つめていた。
そっと腕を伸ばすと乱れた髪を撫でつけてやる。絹のような手触りはいくら触れても飽きることがない。
あれから何度も体を繋げた挙句、気を失うように眠ってしまった彼女に、その夜最後の精を注ぎこんだのはついさっき。
あれからゼライドも少しは眠ったらしい。
もっとも、野人の眠りは深くとも短いから、目を覚ました時にもまだユーフェミアは夢の中だった。彼がこの家に戻ってきたのが真夜中過ぎだったから、それからずっと絡みあっていた事になる。ユーフェミアの全てを味わい、自分の全てを注ぎ込んだ。
——こんなこと、気ちがい沙汰だ……。
野人の女にも求めないことを人間の女に求め、貪りつくした。眠るユーフェミアは、水のような薄日を白い肌に受けてもぴくりとも動かない。深い吐息に上下する胸を除いて。
髪を梳いていた指を肩に滑らすと、肌はひんやりと冷たかった。あれだけかいた汗が乾き、冷えてしまったのだろう。
——このままでは風邪をひいちまう。何か掛けてやらねぇと。
そんなことを思うのも生まれて初めてだ。ゼライドは寝るためにしか使わない部屋を見渡した。
しかし、殺風景な室内には毛布など、気の利いたものは見当たらない。日常生活用品などは殆ど置いていないのだ。この寝台にしても、むき出しのマットレスのままでシーツすら敷いていないし、汗と体液であちこち湿っている。確かにこのままではよくない。
ゼライドはそろそろと体を起こした。
体の中まで洗われたように爽快だ。あの凄惨なビジュールとの戦いの疲れなど、微塵も残ってはいない。
彼は、裸のまま隣のバスルームに入った。風呂は天窓のおかげで具合よく明るい。蛇口をひねると勢いよく湯が流れる。彼自身は風呂になど浸かった事がない。体を清める時はいつも熱いシャワーを浴びるだけなのだ。石鹸すら匂いがきつすぎて好まない。
しかし、あれだけ汗を流した後なのだから、ユーフェミアは暖めてやった方がいいのだろう。彼は自分の感覚では温いと感じる温度に設定した。湯が流れる音が雨音をかき消し、どんどん嵩が増えてゆく。湯を張る間に隣の部屋の寝台を用意する事にした。ユーフェミアが元々使っていた部屋は、彼の部屋からは離れ過ぎていたのでもう使わせる気はなかった。大体殆どの部屋は使っていないのだから、どこだっていいのだった。
隣の部屋も同じつくりで、真ん中に寝台が置いてある。クロゼットを開けると、真新しい寝具が一杯入っていた。ベッドメイキングなどやった事もないが、知っているイメージを総動員して寝具を並べていく。シーツは皺ひとつないように広げて端をたくしこみ、枕をたたいて膨らませる。すっかり仕上がると案外気分がいい。自分ながら手際よくできたと満足する。そのうち湯が溜まったようなので、自室に戻ってユーフェミアを抱き上げて運ぶと、浴室にはたっぷりと湯気が満ちて、天窓から夜明けの光がさしていた。
ゆっくりと湯に体を沈めてやると、さすがにユーフェミアがうっすらと瞼を持ちあげた。
「ふへぇ? なぁに?」
「いい。風呂に入れただけだ。寝てろ」
しかし、湯量がたっぷりし過ぎていて、まだ体に力の入らないユーフェミアがつるりと沈みそうになってしまう。
「仕方ねぇな」
具合よく自分も裸だったので、ゼライドはユーフェミアを支えたまま、後ろから浴槽に滑り込んだ。浴槽は大型だが、大柄な彼が身を沈めると縁から湯がさらさらと溢れる。清潔な淡い色のタイルの上に、きれいなさざ波が立った。
「ゼル……そこ……」
ユーフェミアが首を捻り、目の前にある男の胸を見ていた。さっき夢中になって噛んだ痕がある。鎖骨の下に小さな歯型がくっきりと赤い痣となって並んでいた。
「ごめんね……ごめん。何でこんな事したんだろ」
「俺が頼んだんじゃねぇか……もっとやってくれたってよかったんだ」
「だって……だって、ゼルはいつも私のために体を張ってくれるのに……」
ユーフェミアの顔がぐしゃりとつぶれた。
彼の体には他にも生々しい大小の傷跡が、無数に走っている。そのうちの幾つかはまだ真新しいものだ。なんとか塞がってはいるものの、赤黒い筋になっていかにも痛々しい。ユーフェミア走るよしもないが、それはビジュールとの戦闘でできたものった。古い傷も合わせると、無事な部分が殆ど無いくらい彼の体は傷だらけだ。
「こんなにたくさんの怪我を……私は……何にも知らないで……」
ユーフェミアが涙を流している。それが野人の胸を締め付けた。
「泣くな……な? もう何ともねぇぜ。痛くもかゆくもない。お前は何も心配しなくていい。な? 頼むから泣き止んでくれ。言ったろ? お前が泣くと俺はどうしていいのかわからなくなるんだ」
「ゼル……すき……」
ユーフェミアは溜まらなくなって男の首を抱きしめる。太い腕がやさしく背中に添えられた。
「大好き」
「ああ、そうだな。何回も聞いたよ」
「ゼルが私の事好きじゃなくてもいいから好きでいていい?」
「ああ、わかったよ。いいから今は……休め。洗ってやるから」
ゼライドは浴槽に腰を下ろし、足の間にユーフェミアを坐らせて支えながら言った。
石鹸は使わぬ代り、自身の大きな手で体の汚れを流してやる。金色の髪がゆらゆらと湯の上を漂った。何度も梳いてやる。ユーフェミアは気持ちがよさそうにくったりと身体を預けると、またうとうとと眠ってしまった。
「やれやれ……」
ゼライドは気持ちがいいどころではない。朝の光の中で見たユーフェミアの体は真っ白で、触れている内にまたしても彼の雄はりゅうと漲ってしまったのである。眼下にはぷっかりと浮かんだ丸い珠。肌が白いせいで頂の紅色までくっきりと目の毒である。
思わずごくりと喉が鳴った。
しかし、もう無理はさせられない。仕方無くそのまま苦行に耐え湯から出ると、大きめのタオルで体をざっと拭い寝室に運んだ。作ったばかりの寝台に横たえる。拭かれている間、ほえほえしていたユーフェミアが、再びぐっすり眠ってしまったのを見届けて、服を身に付てからゼライドは階下へ降りた。
——起きたら何か喰わさないといけねぇな。
自分はムラカミの元で喰わせて貰ったからいい。しかし、ユーフェミアはどうなのだろう? なんだか痩せていたような気もするし、殆ど一晩中自分のような男に抱かれていたのだから、きっと消耗している筈なのだ。
廊下に出ると締め出しをくっていたティプシーが、嬉しげに彼の肩にとまった。鋭い嘴で髪を引っ張る。
「わかったわかった、お前にも飯をやるから、そう文句を言うな」
翼竜のような小型の獣は、まるでその言葉がわかったように、彼を先導して階段をふわりふわりと降りてゆく。ゼライドも続いた。
キッチンの冷蔵庫を開けると食料品でいっぱいだった。普段殆ど覗く事の無い白い箱の使い勝手がよく分からないが、留守中もきちんと管理はされている筈である。しかし、バターやミルクは知っていても、魚や、野菜となるとさっぱりだった。とりあえず、熟れた果物があったのでティプシーに投げてやる。雑食性のこの獣はひらりと空を切って見事に果実を受け止めた。すぐにカウンターの端に止まってついばみ始める。獣はそれで事足りるが、問題は人間の女だった。
——う……どうしたらいいんだ。暖かいもんの方がいいんだろうが、何がいいんだろう? 確か、粥とかってネバネバした食い物の事は聞いた事が……。
ゼライドはずらりと並べた食材を前に途方に暮れた。こんな事をしても時間が経つだけである。
——そうだ、こう言う時の端末だ。
ゼライドはキッチンに備え付けの端末を開くと、そこには夥しい数のメールが入っていた。殆どがパルミラからのものである。めんどくさいのでそのままにして、粥のレシピを検索してみた。
——なんじゃあ、こりゃあ。
検索の仕方が悪かったのか、ゼライドには正体不明の食い物の名前がずらりと並んだ。さんざん苦労して、その中から「ミルク粥」と言うメニューを選択し、作り方を調べる。
手軽に作れる、消化にいい、栄養豊か等など、説明書きにはよさげな言葉が並んでいるので早速材料を取りだす。米はレトルトのものがあった。幸い調味料も全て揃っていたので、その辺りに掛っている鍋を火にかけ材料を放り込んでみると、美味そうな匂いが漂いだした。注意点は火加減だけ。後はミルクを入れて数分煮込むだけのようである。
——なんだか初めてにしちゃ上出来なような……。
ゼライドは鍋の中でしんなりしてきた米を満足そうに眺めた。料理などに関心のなかった自分が、つがいに食わせるためにキッチンに立っている。自分でも信じられないが、ちっとも煩わしくはなかった。
しかし、人生最初の料理には残念ながら邪魔が入った。
端末が涼やかな音を立てた。誰かが来たらしい。ゼライドが目を向けると、玄関のモニターにはパルミラの顔があった。
——パルか、何の用だ。
仕方がないので門を開けると、パルミラが慎重に車を中に入れ、門扉に沿って停車させたようだった。直ぐに玄関が開き、バタバタと掛け込んでくる音がする。ティプシーが鋭い警戒音で鳴いた。
「ゼル! 帰っていたのならなぜ連絡をくれないの?」
開口一番、パルミラは訴えた。
「悪かったな……後でしようとは思っていた」
「拘束されたって聞いて、私がどんなに気を揉んでいたか……」
「悪い。が、その事については今は余り聞かねぇでもらいたいんだ」
「そ、それはでも……あなたのエージェントとして、大まかな事情ぐらい知らせてくれないと……ところであなた……何をしているの?」
パルミラは調理器具を手にしたゼライドにやっと気づいたようだ。
「ああ……こいつか、こいつも気にするな」
「車のGPSで、あなたがここにいる事を知って夜が明けたらすぐに来たのよ。ねぇ、少しでいいから何があったか教えてくれない?」
「……わかったよ、だからそう騒ぐな」
——あいつが起きちまうじゃねぇか。
ゼライドは諦めて一旦火をとめると、パルミラに向き合った。久しぶりに見る彼のエージェントはレインコートも脱がず、髪と顎から水滴を滴らせている。雨は上がっているはずだが、ずっと外にいたのだろうか?
「タオルを使え」
「そ……そうさせてもらうわ」
パルミラは傍の棚からタオルを取りだすと、コートを脱ぎ、髪を拭った。コートの下は薄く黒いニットで、その下はやはり黒のタイトスカートである。ゼライドと合わせてかどうか、彼女もよく黒を好んだ。
「何があったの? 娼婦殺しの嫌疑を掛けられたんでしょう? 誰かの罠だったの?」
「まぁ、そうだ。俺はハメられた。ハメた相手はユミ……ユーフェミアのいる研究所内部にいる。今調査中だ。だが、俺の方は証拠不十分って奴で、釈放された」
ゼライドはざっくりと説明した。パルミラが納得しそうになかったからだ。彼女はゼライドの腕を見て叫んだ。
「大怪我をしているじゃない! まだ新しいわ」
「凶悪犯罪者の可能性が少しでも残る野人を、タダでは釈放出来ねぇってんで、向こうの出した条件を呑んだんだよ。タダ働きだがな。けど、もう大丈夫だ。あいつらは俺を怒らせた。俺はマヌエルの敵を取り、サイオンジの妹も守る」
「どうやって? 部外者のあなたに研究所内部の人間は探れないでしょう?」
「捜査が進展したらある人物が情報をくれる。それに、俺も少し気になる事がある。釈放されたばっかりで目立っては動けねぇが、俺にだって少しは考えがあるさ!」
「どうするの?」
「……」
「私には言えないのね。信用してくれないの?」
「そういう問題じゃない。俺の事でこれ以上、巻きこまれる奴を増やしたくないだけだ」
「市長の妹は信用したのに?」
「……」
「ユミ……って言ったわね。珍しいわね、あなたが人間の女に愛称まで付けて呼ぶなんて……もしかして……寝たの?」
「お前には関係ない」
ゼライドは背中を向けて冷蔵庫からミルクを取りだした。
「寝たのね? あなたがお料理をしている理由がこれでわかった」
「……」
最早答えず、ゼライドはミルクの分量を真剣な目で測っている。
「……どうして? どうしてなの⁉︎」
不意にパルミラが叫んだ。その悲痛な声に流石のゼライドも振り返る。その背中に縋りつく細い腕。
「どうしてあんな小娘なの? 私の方がずっと昔からあなたを愛してきたのに……!」
「おい……パル」
「私が駆け出しの頃、荒んだ目をして仕事をくれって、転がり込んできた時からあなたを愛しているのに!」
叫びながらパルミラは、視界の隅に、開け放ったままのキッチンの向こう、ホールの階段の上に白い影を見ていた。
「ねぇ、私を見てよ」
パルミラが声を落として、ゼライドを振り向かせる。
「パル……止せ」
「いいえ。現実を見て。あなたはちょっとふらふらしただけ。だって、あの子は市長の妹で、野人と付き合えるような子じゃないもの。あなただってわかっているでしょう?」
「……」
「ね? ほら、ちょっと可愛い子だから、つい食指が動いたんだろうけど、あの子はダメよ……ほら、私を見て」
「おい!」
そう言うと、パルミラはゼライドの頭を抱え込み、唇を押しつけた。
ゼライドの背後にユーフェミアが立ちつくしている事を十二分に意識をしながら。




