44.甘さと苦さと 1
ぴちゃぴちゃぴちゃ
——何の音かしら?
ふっと意識が戻る。どうやら自分は気を失っていたらしい。
ユーフェミアはぼんやりとした感覚を取り戻した。
雨が降っている。でも雨の音に混じって、この音は何だろう? しかも、なんだか熱くて柔らかいものが肌を這いずる感じがするのだが。
「っ……⁉︎」
がばりと起き上がる。自分の胸元に覆い被さっている美しい銀の帳。その両端から太い腕が伸びている。
「わぁ!」
「起きたか?」
声と共に帳が上がり、男の顔が現れた。仄かに光る銀色の瞳は少し潤み、眦に僅かに朱を刷く、壮絶なほど艶めかしく、それでいて精悍な男の顔。
ざんばらな髪が首や肩に貼り付いている様も色っぽく、ユーフェミアは暫く見とれてしまった。
「……私……寝てた?」
「少しの間だけ。無理をさせた……すまねぇ。怒ってるか?」
ゼライドは心から詫びた。
久しぶりに帰ってユーフェミアの顔を見て、その香りを嗅いだだけで理性が吹っ飛んだ。
軽い体を抱え上げてベッドになだれ込んでしまったのだ。
こんなに切羽詰まった事は生まれて初めてだった。すぐに体を繋げなければ、狂いそうだった。実際狂っていたのに違いない。
なのに、ユーフェミアは一言も責めないで、穏やかに自分の腕の中にいてくれる。
「なぜ、私が怒るの?」
「俺……途中からもう何も考えられなくなって……お前痛がってたのに。からだ……辛いだろう?」
「へいき」
——あなたのほうが痛いみたいよ?
ユーフェミアはその言葉を飲み込んだ。
「何してたの?」
ユーフェミアは、ほとんど泣きそうなゼライドの頬に手を添えた。
「お前を味わってた」
「あ〜」
大真面目な顔をして何をさらりと言っているのだ、この男は。がっくりと力が抜ける。
「なんで俺の口は一つなんだろう。お前に口づけしながら、胸も、首も、背中も全部一時に味わいたいのに……」
言いながらゼライドは、また鎖骨の辺りを舐めはじめた。
「一応全部舐めたんだが、まだ足りな……」
「わ~! ゼル! もうそのくらいでいいから!」
ユーフェミアは体中を朱に染めてゼライドの言葉を遮った。彼は別に気にした様子もなく、ひたすらユーフェミアの肌に吸いついている。そして武骨な大きな掌が体中を這いまわっているのだ。
それが酷く心地よくて、ユーフェミアは諦めて彼の好きにさせることにした。自分の体を気に入ってくれたのならそれでいい。
「……お前のヴァージンを奪ったのは誰だ?」
しばらくしてゼライドが低く尋ねてきた。いつの間にか上からユーフェミアを覗き込んでいる。
「え?」
「俺だって知ってるぞ。女の初めてってな、血が出るもんなんだろ? お前は俺の前にどんな奴らに抱かれたんだ?」
「奴等って……一人だけだよ? 学生時代にちょっとだけ付き合ってた人と、一回だけ。そん時も血は出なかったけど」
別に悪いことではないと思ったのでユーフェミアは正直に答えた。
「アイツか?」
「アイツ?」
「警官。ウェイとか言う……」
「違う違う! その以前の話。ウェイはいい人だけども友達だから」
慌ててユーフェミアは訂正する。妙な誤解はされたくない。
「初めての奴は酷い男でね。私が痛くて泣いてたら、君は顔だけだね、なんて言われて。その人に幻滅してから、ちょっと男性不信になって……」
「……殺してやる」
ゼライドは唸った。
「え⁉︎」
「そいつは今どこにいる?」
「しっ、知らないよ? それにもう顔も思い出せないくらいだもん。好奇心だっただけで、そんなに好きでもなかった。若気の至りとはいえ、軽率で軽薄だったのよ、私は」
「……」
ゼライドはまだ凶暴な瞳を滾らせて、喉の奥で剣呑な唸り声を発している。
「……こんなだとは思わなかった」
「え! それって……」
——私の体がよくなかったって事? やっぱり人間だから? それとも私だから?
「ゼル……ごめんね? ごめんね? 私、あんまりこういう事よく知らなくてさ……でも、がんば……」
「違う」
ゼライドは短く言った。
「……こんな、あいつが言ってたのは……こう言う事だったんだな……」
『だから、つがいなのよ。抱きしめたい、抱きしめられたい。愛したい、愛されたい。そして、命をかけて尽くしたい』
——お前の言うとおりだったぜ……マヌエル……。
「ゼル?」
「……俺はもう、ダメかもしれん……」
ゼライドはユーフェミアの首筋に顔を擦りつけて呻いた。
——離してやれねぇ……離れると俺が死んじまう……。
「は? 何言って……」
「ユミ」
ゼライドは、目を丸くしているユーフェミアを哀しそうに見つめると、いきなり上から抱きしめてきた。
彼の重みでぐえ、となるが、抱きしめられたまま体が回転し、マットの上に二人して横伏しする形になる。体が脚の間に挟みこまれているので、硬い異物感がダイレクトに伝わって、非常に恥ずかしい。しかし、ゼライドは今度はひたすらユーフェミアの項に吸いついていた。きっと体中に彼の残した跡が散っているに違いない。
「ああ……お前の体はどこもかしこも甘い。いつもそうだが、今日は特に。一月ほど前にもそんな時があって、喰いつきたいのを抑えるのに苦労した」
「へぇえ、一か月? それって生理周期とかと関係あるのかな? やだなぁ」
人間の女には約一月に一度、月経とそれに続く排卵があり、ホルモンの関係で体調や体質が微妙に変化する。食欲や性欲が旺盛になり、体臭にも表れるらしい。人間の男ならば気づかない事でも、野人ならば、敏感に察する事ができるのだろうか?
「そうか? でもすげえ甘くて……麻薬みたいで、我慢できなかった……酷い奴だよな? すまねぇ。俺の事、嫌んなったか?」
「今更そんなこと言うのはルール違反だよ」
「……」
——もう嫌だって言われても、押さえられる自信がねぇ……お前のヴァージンを奪った男や、これからお前が少しでも関わる男には、すべからく殺意を抱く事になるんだ。俺は――。
「……でも、じゃあゼライドはちょっとは良かったってこと? その……私の体と言うか……感覚が……」
「ちょっとだって? お前にはわからねぇよ」
当然だ。ついさっきまでゼライドですら、わからなかったのだから。
数日ぶりに会ったユーフェミアに我を忘れて飛び掛かり、本能のままに貪った。拘置所でもずっと会いたくて、触れたくて、顔を思い浮かべれば眠れなくて、ずっと苦しかった。昼間、拷問されてる方がマシだったくらいだ。
夜になるとユーフェミアの記憶が生々しく蘇り、心と体を苛み続けた。つがいから離されて死んだ野人もいると聞いたことがあったが、こういうことなのだと今では身をもって知った気がした。
だが、その時ですらまだ甘かったのだ。一度抱けば諦めも付く――そう思っていたのだから。
——諦めるどころか、一層執着する事になっちまった。
ゼライドは後悔の臍を噛みしめる。
彼の細胞の一つ一つに、ユーフェミアは沁みこんでしまったのだ。これでもう、自分からは離せない。その体温や吐息を近くで感じ、腕を伸ばせば抱きしめられる場所に常に置いておきたい。他に取られるなどとんでもない。
これが……。
——つがいという存在なのか……。
ゼライドは遺伝子に組み込まれた、太古からの記憶を反芻しながら、ぽかんとしているユーフェミアを抱きしめる。首筋に鼻を埋めると、さっきと同じ濃いつがいの香り。彼の雄は既に痛いほど張りつめている。
——ユミは俺のものだ。そして俺はこいつに全てを捧げなくてはいけない。いや、捧げたい。身も、心も、命ですらも。これを俺から取り上げる奴がいたら……。
「殺す」
最後の思考は思わず口から零れてしまっていたらしい。ユーフェミアがびくりと身を竦ませてすり寄って来る。
「ゼル、お願いだから、簡単に殺すとか言わないで。ゼルが言うと冗談にならないから。それにやっと嫌疑が晴れたところなのに」
「ああ。そうか」
「でも、それって私を独占したいって意味にとっちゃうよ? いいの? そんなこと言って」
「よくねぇ。お前とこんな事するのは間違ってる。だが、肌が合っちまって驚いただけだ……そういう意味だ」
ゼライドは苦しそうに言った。心が張り裂けてしまいそうだった。
——違う……違う、これじゃまるで俺がユミを物みたいに、思っているようじゃないか
「そう……なんだ。身体の相性がいいって言うことなんだね。そう言えば亡くなった娼婦さんの事も馴染みだって言ってたね。だから、敵を討つのね?」
「そうだ……けど……」
ゼライドは歯切れ悪く言った。ユーフェミアが、自分の都合のいいように受け止めてくれた事がとても辛い。しかし、彼女はゼライドの胸に額を寄せただけだった。
「あのゼル」
「なんだ」
「あの……私一回抱いてもらえばいいかもって思ってたんだけど、もしよかったら……気が向いたらでよいから、また……こんな風にしてくれる?」
「……」
「やっ、そのぅ……あたしなんかじゃ満足できないかもしれないけど……むぎゅ」
その先は言わせて貰えなかった。
「……はぅ」
背中から抱きしめられている。自分に巻きつく太い腕に生々しい傷跡が一杯付いている事に、既にユーフェミアは気付いていた。きっと一番新しい任務で負った傷だろう。
多分、自分の知らないところで何らかの取引が行われたのだ。きっと無理難題を吹っ掛けられたのに違いない。しかしその結果、こうして自分の傍に帰って来てくれた事が、ユーフェミアには堪らなく嬉しかった。
——こうしてると、まるで恋人同士みたいだって錯覚しちゃう……。
硬い大きな掌。
それが壊れ物を扱うかのようにユーフェミアの肌をなぞってゆく。右手は臍から脇腹を辿り、滑らかな曲線を確かめるように上下する。
もう、それだけで良かった。例え一時の執着だとしても、それはきっとゼライドの中では真実なのだ。彼は嘘をつかない人だから。
「あっ!」
不意にざらついた掌で胸を優しく覆われる。
「いいのか?」
ユーフェミアの胸指で擦りあわせながらゼライドは尋ねた。愛撫というのか、今までしたことがないものだが、手が勝手に動くのだ。
——どうすれば悦んでもらえるのだろう。さっきは我を忘れて暴走したが、これからは――これからなどないとはわかってはいても今だけはユーフェミアを悦ばせてやりたい。
「あ……うん」
「……俺は人間の女のことよくわかんねぇから、嫌だったら言ってくれ。でないとまた俺の勝手にしてしまうかもしれないから」
「いいの。ゼルの好きなようにしていい……」
この瞬間こそ全て。二人ともそう思っている。
——今だけ、今だけだから。許してくれ。
「これは……苦しく……ないか?」
ゼライドは激しく体を揺すり上げながら尋ねた。
「ん、ううん……ゼルの方が……苦しそう……だわ」
「ああ、俺は苦しい」
どうしたらこの愛しさと渇望が満たされるのだろう? 愛しいものを壊さずに愛するにはどうしたらいいのだろう?
そしてもう直ぐそこに迫った別れの時に、自分は正気を保っていられるだろうか?
「あうっ!」
限界が近いのだろう、ユーフェミアの体がしなり、狂おしい程の愉悦と痛みを伴ってゼライドを絞り上げる。
「う……ユミ……俺を喰え! 喰ってくれ!」
そうすれば、彼女の一部となってずっと一緒にいられる。
ゼライドはひっきりなしに嬌声を上げ続けているユーフェミアの口元に自分の胸を差し出した。本当は指でも喰いちぎらせたらいいのだろうが、全身の皮膚と皮膚を擦り合わせたくて巻きつけた腕を解く事ができない。
しかし、ユーフェミアは軽く頷いて、汗でぬれた大胸筋に噛みついた。
そして――
腕の中の愛しい女は全身を硬直させて大きく震えると、ゼライドの放った熱い迸りを全て受け止め……
幸せそうに微笑んだ。
「ああ、ユミ……ごめんな」
ユーフェミアは頂点に達した後、速やかに眠りの国に沈み込んでしまっている。ゼライドと体を繋げたまま。
薄く開いた唇から、甘やかな吐息が漏れた。
これが彼のつがいだった。




