43.望みも檻の外にある 3
「おかえり」
それは野人が初めて言われた言葉。
後で考えても、ゼライドはその時の自分を思い出せなかった。
ただ、どしんと飛びついて首にぶら下がったユーフェミアを、荷物のように抱えてホールを駆け抜け、吹っ飛ぶように階段を駆け上がった事は覚えている。
久しぶりの主の姿に喜んだティプシーが頭上でばさばさと飛びまわり、けたたましく鳴いていたのだったか。
しかし、それも蹴り開けた扉の向こうに消えた。
全ては甘い香りのせいなのだ。
ほとんど何もない自分の部屋。壁面や天井の装飾が見事なだけに、そこには大きな違和感があった。
あるべき調度の替わりに雨音だけが室内を満たしている。
がらんとした空間の中央に、マットがむき出しのままの寝台が置いてある。そこへ二人して倒れこむように身を投げ出すと、夢中で抱き合った。
もうわずかでも体を離したくはない。顔を寄せるように上向いたユーフェミアの唇を、思い切り吸い上げる。
野人は、つがいを得た雄になった。
「んっ」
ユーフェミアが苦しげに喉を鳴らしたが、ゼライドには届かない。
無我夢中で柔かに色づくそれを貪っている。まるで子どもが熟れた果物にかぶり付いているようだ。
苦しがったユーフェミアが薄く口を開けると、熱く濡れた物が割り込んできた。
それはユーフェミアの口腔を力を込めて弄り、どくどくと熱い体液を注ぎこむ。技巧などお構いなしの野生の口づけだった。
最初は戸惑っていたユーフェミアだったが、次第に彼の熱を転嫁され、いつしか無我夢中で応えていた。深く絡まっては解れ、次の瞬間には更に深く求め合う。
みちみちと触れ合う音が雨音に代わって部屋に響いた。
雨はなお止まぬ。
「あ……む」
ゼライドの長い髪が乱れて、ユーフェミアの頬を撫でた。
息つく暇はない。膝をついて圧し掛かる男が、切なげに呻く。頑丈な腕がぐっとユーフェミアの腰を持ち上げ、服を通して擦り合わされた。分厚い皮のボトムと、夏用の薄い布越しに感じる固い質感。
「わ! ちょっ……」
ゼライドの指がスカートの裾に掛ったかと思うと、一気に引き上げられる。
「ゼ……むぐ」
情緒の欠片もない。
文句を言ってもいいかと開かれた口は、又してもすぐさま塞がれてしまった。
足を割って男が身を差し入れる。
カチカチと密かな金属音がするのは、なんだろうか? いつも彼が身に付けているいる、大きくて複雑な文様の銀のバックルが思い浮かんだ。
あんなの片手で外せるのかしら?
つまらぬことを思ったが、よく考えてみれば、いつだってイキナリの展開である。
あれほど冷静で、何にも興味を持たなかった男が今、何かに浮かされたかのように切羽詰まった様子で自分を抱いているのだ。
それはもしかしたら、拘留されている間、女っ気がなかっただけのことかもしれない。解放されて最初に見た女がたまたま自分で、溜まった欲を吐きだしたかっただけかもしれないのに。
それでもいい。
ユーフェミアはぼんやりと思っていた。
だって私はこの人が好きなんだから。
最後の布が抜き取られる。
恥ずかしくて身が震えたが、後戻りするなど考えられなかった。体中擦りあわされて、肌が敏感になっている。ロマンティックの欠片もない展開だったが、それはとても心地よかった。
ああ、やっとこの人が自分を見てくれるのだわ。
ユーフェミアは涙を抑えるために目を閉じた。
突然やってくる重い衝撃。
「ひあっ!」
ユーフェミアは反射的に上へと逃れようとしたが、大きな掌にがっちり掴まれていて逃げられない。しかし、それはまだほんの始まりなのだ。そして更に鋭い痛みが襲いかかる。ゼライドが少し体を進めたのだ。
「う……っく」
体が引き裂かれるようだ。学生時代のお粗末な経験など比べ物にならない。ユーフェミアは首を大きく振ることで、体の痛みを逃がそうとした。
「……すまねぇ」
頭の上で泣きそうなゼライドの声が落ちてくる。
ユーフェミアは驚いて目を開けた。部屋が暗いのでよくわからないが、闇に光る青銀の瞳がぼやけ、大変苦しそうである。
「嫌だってな、わかってる。けど、止められないんだ。堪えられねぇ……すまねぇ!」
「ゼル……」
彼の言葉を受け止めた途端、ユーフェミアから辛さが波のように引いていく。
「大丈夫……大丈夫よ、ゼル。私はへいき。女なんだもの」
ユーフェミアは微笑んだ。
「だから……もっと来て? 私の中に」
そうして二人は、身も心も互いのつがいとなったのだった。
横たわったユーフェミアは見つめている。
横で眠る野人は、ひどく若く見えた。整った鼻梁、長い睫毛が少しアンバランスなくらい引き締まった口もと。
例え、この交わりが今夜だけだったとしても、後悔など欠片もない。根拠もない確信だが、ゼライドが抱いた人間の女は自分が初めてだろう。
ユーフェミアにはそれが誇りだった。
そしてもう、野人だろうが人間だろうが、どんな女も抱いて欲しくない。生涯自分一人であって欲しい。
夢かもしれないけれど。
ゼライドは殺された娼婦は馴染みだと言っていた。
例え愛はなかったとしても、彼は何度もその女に情を掛けられたのだろう。自分を満たした熱いものを、その女にも注いだのだろう。
そう思うと、嫉妬の炎が心に灯る。
女が殺されたのは許されぬ犯罪だが、ゼライドが信頼したマヌエルと言う娼婦がいなくなった事に、安心している自分をユーフェミアは自覚していた。
なんて汚い女なの、私。汚くて、矮小で。
これからも、いろんな女がゼライドに群がるに違いない。どうして放っておけるだろう、この美しくて無垢な男を。
でも嫌! 嫌なの。私だけ見てほしいの。セルが触れる女は私だけであってほしい……!
「なぜ泣く、ユミ」
太い指で頬を撫でられてユーフェミアは、はっと目を開けた。
いつの間にか自分は泣いていたらしい。銀青色に光る眼がじっとユーフェミアを見つめている。
「起きたの? ゼル」
「そりゃ起きる。お前が泣いているから。そんなに痛かったか……?」
ゼライドはそっと腕を伸ばして、ユーフェミアの腰をさすった。
「ちがう……ちがうよ。ゼル……私は嬉しかったの」
「うれしい? 嬉しいと泣くのか?」
「泣くよ。だからもっと泣かせて?」
翠色の瞳が弱い灯を受けて揺れる。
「……くそっ!」
ぎゅっと眉を寄せて苦しげな表情をしたゼライドは、ユーフェミアの体を抱えて反転させると、自分の身体の上に乗せた。
「そんな顔、しねぇでくれ……俺はどうしていいかわからなくなる」
「簡単なことよ。ずっと私と一緒にいてください。それからその……できたら他の女の人と付き合わないで欲しいなぁって……思ってた。私のワガママだけど」
「付き合う? それってどっかにいくってことか?」
「え⁉︎ 違うよ。付き合うっていうのは人間の言葉で、ええと、交際……恋人同士になるって意味」
「恋人……つがいってことか」
「まぁ……そうだと思う」
ユーフェニアには野人のいう、つがいの概念がよくわからないのでとりあえず頷いた。ゼライドもまだユーフェミアが自分のつがいだということは伝えていない。
二人は今夜始まったばかりなのだ。
だがユミが俺のつがいだってことはまだ明かせない。
こいつが俺の命の綱だってことが敵に知られたら、今以上にユミは危険にさらされる。こいつは嘘がつけないから知らせねぇほうがいい。
まだ俺たちは雇い主と護衛の関係だ。周囲にはそう思わせなければ。
「ゼル? 怖い顔」
難しい顔で考え込んだゼライドの額の上を白い指が滑る。
「後悔してる? 私とこうなったこと」
「してる……けど、してない。今言えることはこれだけだ。ユミ、だが、俺はお前が考えてるように他の女と……えっと、つき合ったりはしない」
「ほんと?」
広い厚い胸板の上でユーフェミアは野人の顔を覗き込んだ。薄暗がりの中で銀青に輝くそれは、ひたりと自分を見つめている。
「ほんとうだ。だからそんな……」
「そんな?」
「そんな堪らねぇ顔をするんじゃない」
大きな掌がユーフェミアの後頭を掴んで引き寄せると、ゼライドは再び熱い唇を重ね合わせた。




