42.望みも檻の外にある 2
雨は夜明け前に降る。
射干玉の闇が一番深くなる頃、激しく降り注ぎ、世界を洗う。
それは大地には潤いと恵みを齎し、深更の森に蠢く獣の血生臭い狩りの痕跡を流し去る、天空よりの賜物。
人間には――
咎人の秘された罪、嬰児の安らかな眠り、そして甘やかなる恋人達の逢瀬を守り隠す銀幕、水の帳。
そうして曙の光とともに去ってゆく。
それは世界がここに在る限り連綿と繰り返し、違える事のない天と地の約束事。
だからこの世界の夜明けはうつくしい。
例え、今日がどんなに暴虐と不条理に塗れようとも。
会いたい。会いたいんだ。
会ってどうなるものではない事はわかっている。会ってはいけないのだと言う事もわかっている。わかり過ぎるほどわかっている。
それでも会いたかった。
会わない時間がこれほど苦しいとは思わなかった。思い出せば暴走してしまいそうだから無理やり封じ込めた。
それは殆ど成功したかと思えたのに。
銀色の車がフリーウェイを疾駆する。
降り始めたばかりの雨が荒野を叩いていた。
降り始めが一番激しく、闇に染まった大地に幾筋かの流れができている。
雨はいつも夜明け前には止み、昼には元の乾ききった地面に戻るのだが、今はずぶ濡れの闇が世界を覆っている。
この世界の夜と朝の間を追って循環する雨雲。連綿と続く、この世界の天地の営みである。
遠くの方に街の正門とも言うべき、峨峨と聳えるゴシック・シティのシンボル、フォザリンゲートが見えて来た。
雨に霞みながらも、夜目にも白く浮き上がっている。色彩はどこにもなかった。
登録済みの車しか通さない関所。
何重もの防御機構を苦もなく通過し、ゼライドはシティを環状に取り巻くサークルラインに車を乗り入れ、目指すべき場所へ急ぐ。
肩の傷も指の傷もまだ癒えないが、既に傷は塞がっていて包帯は巻いてはいない。
ムラカミは彼の大きな傷を縫合し、小さな傷を治療した後、彼の車を示して帰りなさいと告げた。
『嫌疑は晴らしたよ。ボクは野暮じゃないから、あなたがなんで飼育室で精液なんか漏らしたとか聞かないけどね。でも、それを手に入れた人間がいる。この研究所内に』
『知ってる。そいつは誰だ?』
ゼライドは低く問うた。しかし、ムラカミはへらへらと笑った。
『まだ言えないよ。さすがに狡猾に立ち回るんで、決定的な証拠がないんだ。現在進行中の極秘調査なんだけど、何しろ探偵がほとんどボク一人だろ? 情けないことになかなか捗らなくて」
『……』
『要するに、ボクはボク以外の人間をあんまり信用しちゃいない。特に研究所じゃね。だって、すごいでしょ? この施設』
ムラカミは窓から見える広大な敷地を示した。
『ここにはありとあらゆる科学知識の集積があるんだよ。旧世界から受け継いだものも含めてね。バイオ・テクノロジーって言っても、その言葉はここでやってることの一部を表すだけにすぎないんだよ。ボクですら、全部の詳細は知らない。専門が違いすぎるから。運営資金は無論市から出てるわけだけど、それだけじゃない。色んな企業や個人から出資を受けて、その要求に応じている。だから、実際ここは、この世界の希望と欲望が集中する場所でもあるんだ』
『それをあんた一人で仕切ってんのか?』
『表向きはそう。でも、全部に介入はしてないよ。そんなことしてたら身が持たないし。ボクは、ボクを扱える人から受けた指示だけ実行するだけなんだ』
『それは俺の知っている人間だな』
ゼライドは珍しいことに、ちょっとだけ笑った。だが、ムラカミは平然と受け流す。
『野暮は聞かない』
『あんたのつがいなのか?』
『滅相もない。そんなことこれっぽっちもないない。ボクが勝手に役に立ちたいだけ。見返りなんか望まない』
見返りなんかはね、とムラカミは小さな丸い目で器用にウインクをして見せた。
『……』
『だからボクにしては珍しく慎重にやってる。下っ端を捕まえたってトカゲのしっぽ切りになっては、あの人の役には立てないもの』
『ヤマを張る訳にはいかないのか?』
『ダメダメ。ちょっとでも見当外れの人間をトッ捕まえたら、全ておじゃんになる。本当の敵は上手に身を隠すだろうしね』
『でも、逃げた奴が敵の首魁だってわかるじゃないか』
『それで我々が得られるのはそいつの名前だけだよ。何にもならない。そいつの上には、きっとまだ大物がいるかもしれないし。その人物は素知らぬ顔で痛くも痒くもない。街の脅威はちっともなくならない。今はまだダメだよ』
『……』
『不満そうだね』
『当然だ』
『ねぇあなた。正面突破は確かにかっこいいけど、ビジュールならともかく、相手はきっと社会的地位の著しく高い大物だよ。その影響はゴシック・シティだけのことにとどまらないかもしれない。ボクなんかにはなかなか手が出ない。でもきっといつか尻尾を出す。キミが放免されるとわかったら、きっとすごい腹立ててる。せっかくの計画とプライドがめちゃくちゃだもんね』
『俺はビジュール退治の恩赦で釈放されるのか?』
『違うよ。ビジュールの件は、あなたの釈放を喜ばない奴と、文句を言いたがる奴を黙らせる為の付録さ。まぁ、それでも言う奴は言うだろうけど、それはそれでいい。だって、場合によっちゃあ、あなた
や市長の敵が見えてくるかもしれないからね。でも、あなたを釈放する理由はさ、例の精液だよ』
ムラカミは小さな丸っこい目で苦労してウィンクしながらゼライドの股間を指差した。
無論、ゼライドは非常に嫌な顔をしている。
マヌエルが死んだのは、やはり自分のせいなのだ。自分が会いに行ったことで、敵に口実を与えてしまった。彼女の息子はどうやら、ムラカミが密かに手を打って南のアジャンタ・シティに逃がしたらしい。
気になるが、今はこれ以上自分が関わる訳にもいかなかった。
『証拠として提出された、娼婦の体内から検出された精液は無論あなたのものなんだけどね。それは性交の残滓と言うには余りにも量が少なかった。あなたみたいなでっかい野人の一回分の射精の量が、人間の成人男性の平均量よりずっと少ないなんてこた絶対ありっこない。ボクはあなたの体の隅々まで調べたんだからね。ちゃんと証拠になる。つまり、どこかで採集したものを器具を使って娼婦に注入した理、部屋に振りかけたりしたとも思えるでしょ?』
『採取……あの時見てたやつが……出歯亀野郎め』
『そう。あなたの言ってた通り、飼育室で自慰行為をして、そこらへんの布とか紙の中に放ったとしたら、それらに染みこんだり乾いたりして当然量としたら少なくなる……その位の分量だったんだよ。出てきた精子が』
『ああ、なんだか柔かくて分厚い高そうな紙だったかも……』
ゼライドは言いにくそうにしながらも、認めた。
『でしょ。実験用の使い捨てタオルだもん。液体はほとんど吸収しちゃうんだよ』
『……』
『うん、いいよねぇ。げっ歯類の実験室で自慰。ちょっとシュールだね』
『うるせぇ。俺が何でそんなことしたか、アンタ知ってるんだろう?』
『さぁね。でもよく我慢したよねぇ。歯を調べさせてもらったから分かるんだけど、あなたは生まれてから三十年から四十年ぐらいの、まだ若い野人なのにね。人間ならやっと大人になりかけた感じの……言うなればヤりたい盛りでしょ。それがさぁ』
『女はキライだ』
ただ一人を除いて。
——だが、その一人だって決して得意としている訳じゃない。ただ目を離せないだけ、時々どうしようもなく飢えを感じるだけで――。
『けど、俺は……そんなに若いのか?』
ゼライドは話題を変えた。彼にしてみれば気になる発言だったのである。
『その聞き方もすごいモンがあるけどねぇ。でも、そうか。あなたは、自分の種については殆ど知らないんだよね。僕だって実はあんまり知らなかったんだけど、ある人の所見を読んだからね。モーリス・ディレイって言う、本来は夜光花の研究者なんだけど、知ってる?』
『知る訳ねぇ。俺は本なんか読まない……ってか、アンタ霊長類の研究者だって言ってなかったか?』
『あんなのはったりに決まっているじゃない。ウソも方便って言うんだよ? 知ってる? まぁ、僕はたいていの生物のこと知ってるけど』
しゃあしゃあと言ってのけるムラカミに、ゼライドは呆れた。
『……』
『ともかくあなたはも少し、自分について知った方がいい。モーリス・ディレイだよ。読んでごらん』
『読まない』
『残念だねぇ。この人ロマネスク・シティに住んでてね、いろいろ役に立つ研究されてたんだけど。そういえば最近表に出てこないなぁ。なにかあったかなぁ』
『知らねぇ……じゃあ、俺は行くいろいろ世話になったな……また連絡するかもしれない』
黙って聞いているといつまでもしゃべりたそうなムラカミを置いて、ゼライドは車に飛び乗ったのだった。
ゼライドはぐんとアクセルを踏み込んだ。
加速はなめらかで迅速である。未明のフリーウエィは快適だ。だが、行くところがない、仮初に帰るところならあるけれど――。
ユーフェミアはどうしているだろうか? 今頃姉の庇護の元で安全な眠りの中にいるだろうか?
——会いたい。会ってあの不思議な翠色の瞳を覗きこみたい。覗きこんで、それから――
それから?
——馬鹿野郎。会える訳がねぇじゃねぇか。
夜の底が白み始めた。
車は見慣れた屋敷に滑り込む。
一見見事にクラッシックな外装のゼライドの住居である。門を閉じ、全てのセンサーと防御システムが作動し、屋内の生体反応を走査する。すると一つの印が動きまわっているのが見て取れた。
誰かいる。誰だ?
ゼライドは一瞬訝しんだが、その点が勢いよく二階から一階へと移動し、廊下を回ってホールに向かっているのを見て、どっと血が湧いた。
そんな動きをする人間は一人しかいない。
やれやれ、これじゃ前と何にも変わらねぇじゃないか……。
彼は苦笑を洩らし、雨でけぶる玄関灯の元、自分も勢いよく車の外に飛び出す。
顔を輝かせたユーフェミアが玄関に転がり出たのと殆ど同時だった。
その瞬間、無彩色の世界に一点だけ鮮やかな色彩が灯る。
「ゼル!」
ポーチに駆けだしたユーフェミアは結わぬ金髪を乱したまま、薄明りの雨の中に跳んだ。跳んで、階段を下りる手間を省いたのだ。慌てて走って来た男が受け止めてくれる事を疑わず。
「うわ! お前! あぶねぇだろうが!」
魂消たゼライドが怒鳴った。だがすぐに甘い香りがどっと押し寄せ、鼻腔を満たす。
その瞬間まで辛うじて保っていた男の忍耐は、女から吹き出す甘い匂いを感じた途端、呆気なく霧散した。
彼の腕の中で目を閉じた娘は自分を欲しているのだ。彼と同じく。
「おかえり!」
「……ただいま」
それを言うのがやっとだった。




