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41.望みも檻の外にある 1

 ビジュール。

 それは最凶で最狂、そして最強の(じゅう)

 内臓を傷つけられても、殺戮の本能は衰えぬ。姿は美しいが故に、その原始の生命力が恐ろしくも愛おしい。

 カァッ!

 ゼライドの頸椎を噛み砕かんとして、上下一杯に避けたビジュールの口吻は、その形状のまま動きを止めた。

 野人の手が唇の無い両顎を握りしめている。ごつい皮手袋はあっけなく破れ、口腔内の柔い肉に喰い込んだ指が鋭い歯で傷ついて血が腕を伝い落ちた。

「……っ!」

 深手を負った肩が焼けつくように痛む。しかし、ここで力負けしては、待っているのは確実な死だ。

「ぐぅうう……」

 ゼライドはそのまま獣の顎を掴みながら、一杯に開けられた口をじりじりとこじ開けていった。獣の口から絶え間なく血と唾液が流れ落ち、握力が鈍る。声帯の無い獣の、声にならぬ苦鳴がホールに満ち、空間にひびが入っているようだ。

 鋭い爪を持った腕が闇雲に振り回され、ゼライドの体が更に傷ついた。もう少しビジュールの腕が長ければ、これだけでも致命傷になるだろう。しかし、絶え間なく新しい傷を増やしながらも、ゼライドは少しずつ腕を広げ、獣の口を更に開いてゆく。

 ガハッ!

 ビジュールの口から大量の血と胃液が吹き出し、ゼライドに降り注いだ。美しい銀髪が見る影もなく汚れてゆく。悪臭のする液体を浴びながら、野人はそれでも指を解かない。

 そして終に――

 形容できない異様な音と供に、獣の口が上下に引き裂かれた。口角の皮膚が裂け、顎の骨がごきりと折れてだらりとぶら下がる。

「くあっ!」

 ゼライドは全身の力を使って、圧し掛かる獣の体を突き飛ばした。なんとか立ってはいるが、ゼライドも満身創痍以上の負傷である。肩は裂け、腕や脇腹は大小の裂傷だらけ。無事なままの指もほぼない。おまけに全身不快な色と臭気の体液(まみ)れである。

 それでも、これだけ傷つきながらその獣は立っていた。口こそ使い物にならないが、足と腕は無傷なのである。赤い瞳が憎悪に燃えてゼライドを見つめていた。

「やべぇな」

 銃は遠くに転がっている。拾いに行くのはいいが、この指では弾込めに時間が掛かるだろう。今手元にある武器は太股のホルダーに取り付けたナイフだけだが、これも握力が落ちている為、まともに握れない。

 しかし、やるしかなかった。

 ゼライドはナイフをホルダーから引き抜くと、手首のワイヤーを短く引き出し、左手にすっぽりと柄が収まるようにきつく巻き付けて握りこんだ。即席の添え木のようなものだが、ただ一度の攻撃の間だけ保てばいい。

 そう――。

 次の一手で終わりなのだ。

 それは目の前の獣も分かっているのだろう。ぶら下がった顎からまだ(おびただ)しい血を流しながら、ゼライドを見据える赤い目。瞼の無いその目は漸く濁り始めていた。

 ぐん、と獣の体高が沈む。ジャンプの前の屈伸だ。素晴らしく発達した大腿筋が伸縮し――。

 獣は跳んだ。

 しかし、流石に出血と傷の所為か、最初の頃の高さはない。それがゼライドには幸いした。

 前足の爪による攻撃を避けながら、ゼライドは左手を大きく掲げて走った。大振りのナイフの刃が頭の上を通り過ぎる獣の腹を真一文字に裂いていく。腹膜が破れ、ゼライドの背後で血と内臓が滝のようになだれ落ちた。


 ハァッハァッハァッ

 ゼライドは肩で大きく息をする。どくどくとこめかみが鳴っていた。

 清潔な白いホールは見る影もない有様である。最早動かなくなったビジュールが三匹、紅銀色の鱗を見せて横たわっている。

 辺りは凄まじい血と肉の匂いに満ちていた。

『終わったようだね』

 スピーカーからのんびりした声が降ってきた。ムラカミである。この声が演技であることはもう知っている。

『ビジュールから生体反応は無いようだ。救護班を入れるから、そこを動かないで』

「必要ない。自分で出ていく」

『大丈夫かい?』

「ああ」

『では背後の扉を開けるよ。直ぐに体を洗って手当するからそのつもりでいてね』

「必要ない」

『ダメ。ここはボクの領域なんだから、言うとおりにしなさい。それに、その方が君にも都合がいいんだ。いいね?』

「……」

 ゼライドが何も言わないうちに大きくゲートが開いた。すぐ正面に白衣を着たムラカミ。そして、白い制服の救護班と、死骸の後始末をするのだろう、青い作業服の男たちが待ち受けていた。

 しかし、彼らは踏み込むのを一瞬躊躇った。どの顔も驚愕と畏怖に満ちている。それほどの惨状が目の前に横たわっていたのだ。

 この男はたった一人で三匹のビジュールを斃した――その事実が彼らを、人間を竦みあがらせている。

 これが野人なのだ。

「ご苦労様、全部モニターで見ていたよ。すごかった。すごい戦いだった。よく頑張ったね」

 しかし、ムラカミはゼライドを見上げて変わらぬ口調で(ねぎら)った。その甲高い声はマイクを通さずともあまり変わりはない。だが、彼の丸い瞳は雄弁に心の内を語っている。

「さぁ、キミ達何をぼんやりしているの? この人は大怪我をしているんだよ。早く手当を」

「いらねぇ。俺は行く」

 ゼライドはそっけなく断った。だが、ムラカミは白衣が汚れるのをものともせず、血だらけで異臭がするゼライドの腕を取った。

「ダメダメ。動物にやられた怪我は治りにくいんだよ。ましてや獣だよ? いくら野人だってバイ菌には勝てないでしょ。バイ菌怖いよ〜、バイ菌。それにね、そんなボロボロのままじゃあ、迎えに行けないでしょ。ね?」

 相変わらず科学者にあるまじき根拠のないことをぺらぺらとまくし立てる。彼の紡ぐ言葉は殆どが意味不明だが、その中に一縷(いちる)の鋭さが混じっているのをゼライドは嗅ぎ取っていた。

「迎え……? 何を言っている」

「少しは見られる姿になってから、お姫様を迎えに行きなさいってんの。それにね、そんな姿で行ったらきっと泣かれちゃうよ。あなたそれでもいいの?」

「……」

 それは嫌だ。

「でしょ? わかってくれたんだね。これは命令の振りしたお願いだよ。少なくとも傷を看るまでボクの管理下にいて。すぐにちゃあんと見られるようにしてあげるから」

 ゼライドの無表情をどのように読んだか、ムラカミは小さな声で話を続けた。

 そして、す、と手を上げると、予め言い含められていたのか、救護員が集まりゼライドの服を脱がして、消毒液を振りかけ始めた。こんなに大勢の人間に体に触れられるのは初めてである。非常に不愉快だったが、ぐっと我慢した。案の定、上半身は傷だらけである。特に正面切ってビジュールの爪にやられた肩の裂傷は酷く、肉が弾けて、血が流れ続けている。ゼライドは消毒液の沁みる痛みよりも、その強い刺激臭に顔を顰めた。

「そうそう、イヤだろうけど。とりあえず明日くらいまでね。うわぁ、楽しみだ。この筋肉をじっくり観察しよう!」

「……明日?」

「ああそうだよ。あなたはこれから一昼夜だけボクの用意した集中治療室に入るの。安心してよ。ボクはこれでも医者なんだよ。というか、医者でもあるんだ。その間にボクは少しキミと話をしたりする。信頼できないとか思ってる? やだなぁ、そんなのは当然だけどね。ボクの言葉を信じるしかないよ。その後で君は一旦放免」

 ムラカミは言いたいだけしゃべってしまうと、丸い顔を更に丸くして笑った。

「……一日だけだ」

 ゼライドはむっつりと言った。

 その首筋がちりりと逆立つ。

 背後に鋭い視線を感じ、ゼライドはすばやく振り返った。この視線の重さは人間の者ではないと、本能が反応している。だが、そこには忙しく働く職員たちの姿しかな買った。ある者は床を洗浄し、ある者は牽引機で死んだビジュールの死骸を引きずり出している。映像に撮っている者もいた。彼らは作業着だったり、白衣だったりしたが、いずれも人間で異形の者はいない。ビジュールの目はかっと見開いていたが、それは完全に死んでいるはずだった。

 ——だが……なんだ? この違和感は……。

 体を洗浄消毒され終わったゼライドは、救護員に促されて頷いた。タオルが掛けられる。所内の病院にでも行くのだろう。カートに乗るかと勧められたが、首を振って辺りに注意しながら歩き始める。ムラカミがのんびりと後をついてきた。

「あ! 死んだビジュールは一匹は標本にしてね。後の二匹は剥製。内臓もちゃんと保存して。できるだけ、うまく再現してくださいよ。この獣は高価なんだから、売れば損害くらいは取り戻せるよ。あ! ウロコは一個置いといて。ボクのバックチャームに……」

「所長」

「あ?……ああ、クロイツ君。君も来ていたのだね。モニターで見た? さっきのすごかったでしょう?」

 ムラカミの後ろから声をかけてきたのは、見知った男だった。ユーフェミアの上司でもあるクロイツ・バルハルトである。彼は神経質そうな顔を曇らせてゼライドを見つめた。

「ええ。君はユーフェミアの護衛を務めていた野人だね? ミアはいったいどうしたのだ。欠勤の申し出が入っただけで、さっぱり連絡がつかないんだが」

「ああ、あの子ね。あの子はしばらく預かるって姉上から連絡があったよ」

 ゼライドに代わってムラカミが受けた。バルハルトは不審な目を上司に向けた。

「サイオンジ市長から? 何があったんです」

「ああ、君は彼女に新しい実験を勧めたんだってねぇ。あんな若い子の要求に応えてやるなんて、君はいい上司だ。でも、ちょっと休むらしい。きっと姉上を怒らせたんだね、だからこの彼も当然仕事がなくてさ。それでボクが、今日は借りた。ビジュールが逃げ出したなんて事が明るみに出たら、ボクの信用が台無しだからね。これで首の皮一枚でつながったんだと良いんだけど」

 歩きながらぺらぺらとムラカミはしゃべり続ける。バルハルトは適当に相槌を打ちながらも、その目はゼライドに据えられている。

「だからバルハルト君もそのつもりでいてね。そっちは忙しいようだからとっても気の毒なんだけど、これ以上人材は回せないの」

「……」

 バルハルトの冷たい目を無視し、ムラカミは今度はゼライドの方を向いて喋り続ける。

「って、そういう訳だから、あなたもあんまり急がないでね。本当に、ボクが言うまでは絶対に(・・・)動かないでよ。さぁ、行こうか。所内の病院まで少しあるけど、歩いて大丈夫かい? うわ、ちょっと! もう血が止まりかけてるじゃないか。野人ってすごい! ボクは常々思っていたんだけど、もしかしたら君たちが人間の進化形なのかもしれないね。となると……こりゃ新しい仮説ができて……あ、ボクもっと偉くなれるかも……!」

「わかったわかった。だもんで、ちょっと黙ってくれねぇか」

 疲れ切った野人はげっそりと肩を落とした。




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