40.戦いは檻の外にある 3
薄い闇の中に漂う、血と、甘い死の香り。
美しい桃色の鱗におおわれた大型の獣は、殆ど音も立てずに広い空間の真ん中へ着地した。
大きな動作の後、一瞬だけ動きを止めるのはこの獣の習性である。まるで、衆人の注目を浴びようと女優がポーズを取るように。
獣は、不思議そうにゼライドの方へほっそりした首を傾け、紅く大きな瞳に彼を映すと、視線を落として血塗れのヤギを見た。
ビジュールは、この世界に存在する獣の中でも比較的知能が高いと言われている。獣の逡巡は一瞬だった。ヤギの方はいつでも喰えると感じたのだろう、獣はゼライドへと向き直ると、威嚇するように口を大きく開けた。
声帯を持たぬこの獣に咆哮はできない。しかし、剃刀のように鋭い牙を獲物に見せつける事が充分な威嚇になると彼らは知っている。それは不意に腰を屈め、体高を低くすると、ゼライドに向けて大きく跳躍した。後ろ足が伸び、しなやかな筋肉が惚れ惚れするような速度で獲物を急襲する。
「……っ!」
ゼライドも大きく後ろへ跳躍した。視界を広く保つためだ。
脱走したビジュールは三匹。これはその一匹目だ。彼等は狩りに長けた獣である。一匹が獲物の注意を引きつけている間に、もう一匹が背中から引き倒す。一匹ならば、ゼライドには充分な勝算があったが、三匹となると――。
「ちっ、面倒な……」
——まずは一匹だけでも仕留めねぇと。
後の二匹が現れないうちに。
獣の攻撃を躱したゼライドは、愛用の銃を構えた。銃身は短いが、この距離なら狙いを外す事は少ないだろう。ビジュール以外の相手ならば。
しなやかで美しい獣には、無駄な肉は無く、動きも非常に俊敏である。また、痛覚が鈍いので足を砕くか、致命傷を与えない限り、その動きは殆ど衰えないのだ。
眼前のビジュールは、自分の攻撃が難なく避けられた事が理解できないように、口を開けて動きを止めていたが、再びふわりと舞い上がった。獲物は壁を背にしているから逃げ場はないと思ったか、余裕のある動きである。優美な長い尾が鋭く空を切った。
パンパンパン
ゼライドは床に転がり様、上を過ぎる獣の滑らかな腹に向けて三発放った。一発は逸れて天上のガラスに突き刺さる。二発目は脇腹に、三発目は上手く大腿部に命中した。しかし、獣は難なく着地し、長い首を巡らせてゼライドを振り返った。しかし、大腿部に命中した弾が神経を傷つけたのか、体がなかなかこちらを向かないようだ。
「っと、いけねぇ」
ゼライドは瞬時に腰を落として構えの姿勢をとった。弾が当たった天井は、硬質ガラスの一部をすり鉢状に凹ませただけで破片すら落ちてはこなかったが、空気の振動がどこかの刺激になったのか、二匹目の獣がホールの上部から姿を現したのだ。
——だが、まずはさっきの奴からだ。
ゼライドは傷ついた獣が次の攻撃に移る前に、大ぶりのサバイバルナイフを腿のホルダーから引き抜くと、壁に沿って走った。感情の無い目でこちらを振り返る獣の頭部に向かって跳ぶ。この戦闘で初めての先制攻撃だ。
長い首がぐんと伸びて、頭を食いちぎろうとするのを間一髪ですり抜け、逆手に持った刃で細い喉を切り裂く。
ドシャ!
ものすごい量の血が噴き出した。原始の獣はそれでも暫くは立っていたが、やがてどさりと床に斃れた。しかし、ゼライドに息つく暇はない。彼の攻撃の最中に、二匹目の獣も動きだしていたのだ。たった今までゼライドが立っていた場所に、そいつはべたりと四這いで着地したのである。そしてすぐに立ち上がると、威嚇するようにぐりぐりと眼球を巡らせた。
しかも、その間に——。
三匹目が上から降って湧いたのだ。
「きついじゃねぇか……割りに合わねぇ」
三匹目は少し離れたところに着地した。
ゼライドの肩からは血が流れている。鋭い牙からは逃れたが、その下から伸びた爪による攻撃を避けきれなかったのだ。鋭い爪は分厚いレザーを大きく裂いて、皮膚に到達していた。腕を動かせなくはないが、かなり深い傷である。
二匹目の獣は死んだ一匹目の同朋には見向きもせず、傷ついたゼライドを見て首を傾げた。獣に感情など無い筈だが、その様子はまるで傷ついた獲物をあざ嗤っているように見える。これから嬲り殺しにしてゆっくり喰うつもりなのだ。
——残念だがそうはいかねぇ。俺は死ぬ訳にはいかねぇんだよ。あいつに会うまでは。
不思議な事に、人間など信用しない筈のゼライドが、何故かムラカミの言葉は受け入れられていた。くだらない事ばかりしゃべり続ける背の低い丸顔中年男は、今まで彼が会ったどんな人間とも違っていた。ゼライドを見る眼鏡の奥の目は、瓢気てはいたが、邪悪さは感じられなかったのだ。
だから彼は、ムラカミの言うようにビジュールを倒さなくてはならない。おそらく、それはムラカミがゼライドを助ける為に用意してくれた舞台なのだろうから。
ゼライドは二匹目の獣から視線をそらさずに三匹目の気配を探った。どうやらそいつは、さっき投げ捨てたヤギを貪り喰らっているらしい、余程飢えていたのだろうか? それとも厄介な獲物は同胞に任せようと言う魂胆か。どちらにしても、ゼライドにとっては僥倖だった。二匹同時に襲いかかられては、野人といえども命の保証はない。しかし、与えられた時間は僅かしかなかった。大食漢のビジュールにとっては、ヤギなどただの前菜だろうから。
「メインディッシュは俺ってか? ふざけろ!」
一匹は仕留めたが、残る二匹はまったくの無傷である。どちらかに狙いを定めて動きを封じなければならない。
ゼライドは跳躍の為に僅かに屈伸した。跳びながら獣の膝を狙って数発撃つ――が、獣は恐ろしく素早い動作で後ろに跳ねた。こいつはビジュールの中でも大型で、体高は長身のゼライドを軽く超えている。つまり、筋力も半端ではないのだ。
——くそ! 外したか!
悔しがっているいる暇はない。間髪をいれずに仕掛ける。すばしこい獣も、跳躍している間は無防備だ。
ビジュールが小さく跳ねる。ゼライドは腕に仕込んだワイヤーを放ち、後方の梁に打ちこんで縮めた。ぐんと体が上昇する。殆ど仰向けの体制で浮上し、接近してくる凶悪な口吻に身構える。
思いがけず、目の前に躍り出た獲物に、獣は本能的に牙を剥いた。足に噛みつかれたらそのまま喰いちぎられるだろう。彼は両足を大きく開脚しながらそれをやり過ごし、かっと開かれた真っ赤な口腔に向けてぶっ放した。弾丸が二発、怪物の喉に吸い込まれる。
しかし――。
獣は少しよろけただけで、着地するやいなや、梁にぶら下がっているゼライドを見上げたのだ。なんという生命力だろうか。
——これでも堪えねぇか。難儀な……
弾丸は喉と内臓を傷つけた筈だった。持久戦になれば次第に弱って行くのかもしれないが、そんなものを待ってはいられない。しかも、上から見下ろすと、三匹目の獣がヤギを嚥下し終えて、次の獲物――ゼライドに向けてその邪眼を向けたのだ。
——この高さくらいでは安全圏とはとても言えねぇ。
長身が災いして跳びかかられたら、膝から下を持っていかれてしまうだろう。ワイヤーを外しても、下で待ち構える二つの飢えた胃の中に収まるだけだ。この体制では弾を込める事も出来ない。残弾は後一発。しかも、先ほどの肩の傷からどんどん出血している。戦いを長引かせる訳にはいかなかった。ゼライドは一瞬の間、空中で思案する。
ぼたぼたと滴る血が獣の食欲を更に刺激したのか、未だ無傷の三匹目のビジュールが動いた。
ぶら下がったゼライドは獣にとって、肉屋の倉庫に吊るされた生肉のように映っているのだろう。自分に向かって伸ばされる、死の牙と爪。ゼライドは体を振り子のように大きく揺らせると、ワイヤーを収納しつつ前に跳んだ。着地点は三匹目のビジュールの背中である。
ゼライドは空中で体を捻ると向きを変え、そのまま細いビジュールの背中に騎馬乗りになった。彼の重みでガクンと獣の立位が崩れる。しかし、体勢を崩しつつもゼライドは腿で首を絞めつけた。そして振り落とされそうになりながらも、ビジュールの後頭部に最後の弾丸をぶっ放した。至近距離どころか、銃口が延髄にめり込んでいるのだ。外しようがない。
脳髄を砕かれ、脳漿を撒き散らしながら獣はどうと床に斃れた。寸でのところで床に片腕をつき、下敷きになるのを逃れてゼライドは転がる。吹っ飛んだ銃が床を滑って行くのが見えた。床は既に血の海だ。ゼライドの肩からも新たに血が迸った。しかし、その真上にはそれ以上の脅威が、文字通り牙を剥いていたのである。
ゼライドは、素早く移動した二匹目のビジュールの腹の下に転がってしまったのだ。
「うあ!」
さすがのゼライドも、一瞬もうダメかと思った。
しかし、最早獲物は逃れられないと見たか、獣は足の間にゼライドを挟み、赤い目で彼を覗きこんだ。口から血が滴り落ちてゼライドの顔と髪を汚す。先ほどゼライドが喉に放った弾丸の傷だろう。血と、そして夥しい唾液が混じりあい、だらしなく零れている。
そして――
獣は牙をむいた。
赤い口腔に隙間なく並ぶ鋸歯状のそれが、ゼライドの喉笛に狙いを定めていた。