38.戦いは檻の外にある 1
ゼライドが市庁舎から連行された直後のこと。
ユーフェミアとエリカの姉妹は、閉ざされた市長室の扉の向こうで対峙していた。
無論、エリカは公務のために、そしてその後を怒り狂ったユーフェミアが無理やりついて行ったのである。
「姉さん! どうしてゼライドを捕えさせたの!? 酷い、酷いわ! 彼は無実なのに!」
「……少し声を落としてくれないかしら? あなたの声は通りがいいから耳に響くのよ」
執務室に入ると、エリカは疲れたように椅子にどさりと体を沈ませた。
この姉にしては珍しい所作だ。二人だけとはいえ、仕事の場でこのような態度を取っているのを見た事がない。この後も公務が目白押しなのだ。
「疲れているのね、姉さん」
ユーフェミアは少し態度を軟化させた。
確かに怒鳴っても事態が改善されることは少しもない。秘書や事務官たちは、とりあえず遠慮して部屋の外で待機している。
「ごめんなさい……でも私は、根拠もなく言ってるんじゃないわよ、姉さん。だって彼には娼婦のその……マヌエルさんを殺す理由がないもの。動機だって見当たらないし、仮に何か理由があったとしても、彼は今現在私の護衛なのよ。わざわざそんな限定された状況下で、すぐばれる殺人を犯すメリットはないわ」
「そんなことぐらい、わかっているわ。これは私に対する明らかな脅迫なのよ」
「ならなんで……」
「あれはちゃんとした認証番号のついた逮捕令状だった。つまり警察署長が正式に指示した物よ。あの場でゴタついてもゼライドにもあなたにも、そして私にもいい事はない。ゼライドもそれはわかっていたから、おとなしくついて行ったのよ。わからない?」
「……だってこれは、陰謀なのよ。一度しょっぴかれたら、二度と出てこれないんじゃないかと思うと……」
「それでも命令には従わなければいけない。彼は時間稼ぎをしてくれているのよ」
「……時間稼ぎ……」
「そう。だから、私達はこれから慎重に、そして大胆に行動を起こさなければいけない。ゼライドの気持ちに報いるためにも」
「……」
エリカの筋の通った説明に、ユーフェミアは言葉もなく、応接セットの椅子に崩れるように腰を下ろす。
「そうだったのか……ごめんなさい。私混乱して……」
「そうね。あなたの態度は軽率極まりなかったわね。余人の前で愛の告白なんて、ゼライドに足かせをつけたようなものだわ」
「……そうか、そういうことになるのね……姉さんにも……」
野人を白眼視している二人の政敵の前でゼライドを愛しているなどと、それが例え真実でも、いや真実だからこそ、口にするべきではない。冷静になれば分かる事だ。
ユーフェミアは押し寄せる後悔で顔を覆ってしまった。
「私いつも馬鹿ね……」
そんな妹に、エリカは小さな溜息と苦笑を落とし、話を続ける。
「起きた事はどうしようもないわ。今重要なのは、これからできることを考えること。私もこの問題を放置しすぎていたから、足元を救われて、ゼライドは逮捕された。でもこれで彼を罠にかけたのが、誰かわかるかもしれない。敵は警察内部に精通しているようだから、私の力は及ばないと思っているのかもしれないけれど、私だってそこまでおめでたくはないわ。細いけれど私にも伝手はある。魔ずはどんな証拠をでっち上げられたのか、調べて提出させる」
「姉さん……」
「私を失脚させるせるために、人一人の命を残酷に奪うなんて……許せない」
——姉さんが起こっている……それも酷く。
いつも冷静で理知的な姉が、めったになく激高しているのだ。ユーフェミアは背筋が伸びる思いであった。ワァワァ騒いでいる時ではない。これからは賢く大胆に、敵と切り結べる女にならなくては。
「わかった。姉さん、何か私にできる事はない?」
「あなたは確か、警察官の友だちがいると言ってたわね」
「ええ。ウェイ・リンチェイ」
「彼のことを少し調べてみる」
「え! 彼はいい人よ。彼を疑うの?」
ユーフェミアは数少ない友人を庇った。ウェイが聞くと泣いて感動する事だろう。しかし、エリカは容赦なかった。
「あのね、人情だけで人を判断するのが危険な事くらいもう理解しなさいよ。私は自分で調べた事実を信頼する。それにすら裏切られる事だってある。だからいくつものルートから探って、最も信頼できそうな答えを導き出すのよ」
「……わかった。それで彼を調べてどうするの?」
「もし、大丈夫そうなら使わせてもらう。彼は一般の警官だから、私たちよりもある意味動きやすい。ミア、私がいいと言ったら彼に連絡をつけて。まさか、私から言うわけにもいかないしね。でも、くれぐれも私の名は表に出さないようにしなさいね」
「了解。姉さんは姉さんのやり方で調査を進めて。私は私にできる事をする」
「ちょっと、あなた」
すっかり落ち着いていつもの表情に戻ったユーフェミアの態度に、危険を感じてエリカは慌てた。
この妹が何かを断言した時には、絶対に引かない事を知っているからだ。
「いけないわよ。外に出ようと言うのでしょう? 気持ちはわかるけど、暫くはここで大人しくして頂戴。あなたが動けばせっかくのゼライドの配慮が無駄になるわ」
「いくらなんでもそんな事はしないわよ。アパートには帰らない。ゼルの家にも行かない。私は当分おとなしく、姉さんの厄介にはなるつもり。でも、実験はさせて」
「仕事? そんな場合ではないでしょ」
「そんな場合なの。あれからスクナネズミの交配を重ねて、新しい世代では夜光花の実だけを食べるようになったのよ。それもすごい旺盛な食欲で。もっと数が増えたら<ナイツ>の原材料を根絶できる。少なくともそれに迫れる」
「ダメよ。次はあなたが狙われるわ……ついこの間も、バイクの集団に襲われたばかりじゃない。反撃の見通しがもてるまではあなたを外には出しません。ガーディアンに送迎させようとか思ってもダメよ。彼らをそんな私的な目的で使うわけにはいかない」
「実験は外でしかできないわけじゃないわ」
「どういうこと? あ! まさか……」
エリカは嫌な予感がした。猪突猛進の妹の頭脳は今高速でフル回転している。
「そう。私の可愛いネズミちゃん達をここに連れてくるの」
喜色満面でユーフェミアは宣言した。
「私だって黙って引き篭もりになったりしない。別の方向から私だって戦える」
「ちょっと! 清潔な市庁舎をネズミの巣窟にするつもり?」
「失礼ね! 私のネズミだって清潔よ。でもまぁ。うまくやるわよ。ここ、広さだけはあるもんね。問題はどうやってネズミや機材を、ここに運び入れるかだわ。姉さんは研究所内にも内通者がいると思うんでしょう?」
「無論。以前ゼライドの家が蛇みたいな獣に襲われた事を見ても」
「ああ、チュードか。あの件はあれから何かわかった?」
「まだ報告はないの」
「誰に調べさせているの?」
「まだ言えないわ。ちょっと変わった人物だけど、優秀な人よ。あの人は裏切り者に確信がもてたらちゃんと仕事をすると思う」
「ふぅ~ん」
ユーフェミアはかなり驚いた。エリカにそんなに信頼されている人間が研修所内にいるとは知らなかった。
——誰かしら? 私の同僚ではないわね。もしかしてバルハルト室長? ありそうなきがする。なんだか姉さんと室長っていに会いな気もするし……それとも、もっと上の誰かかしら? 室長ならいいなぁ……。
「ともかく、ネズミの件についてもその人に話をつけて何とかしましょう。あなたが無鉄砲に飛び出さないようにね」
「ありがとう! 姉さん」
「管理は徹底してよ。書類やケーブルを齧られちゃかなわないわ」
「約束する。密閉できる大きな部屋を頂戴」
「調子に乗ってはダメよ。取りあえず今日明日は大人しくしていなさい。居住セクションから一歩も出てはダメ」
すっかりいつもの様子に戻った妹に、エリカは釘を刺した。
「姉さん、せめて秘書の手伝いくらい……」
「無用です。余計な仕事が増えるわ。さ、この話は今日はもう終わり。私は仕事に戻ります」
エリカは形の良い指先で机上のボタンを押した。すぐに秘書官の一人が入ってくる。
「ああ、ナオミ。妹を使える部屋に案内して。それから、悪いけど今日はこの子から目を離さないでくれるかしら?」
二日後。
直前に届けられたばかりの報告書に目を通していたエリカの元へ、警察内部を探っていた腹心から連絡が入った。
短いメッセージに示された名前に、にやりとした彼女は直ちに行動を起こした。
機会を逃してはならない。エリカは今まで読んでいた。報告書に目を落とす。別ルートで調べさせた娼婦殺しの調書だった。それには短い所見が付け加えられていた。確かに穴はある。
——ウェイという男は使えそうね。ミアに呼び出させよう。あの子の我慢もそろそろ限界だし。でも、あの子に泣き落としなんてできるかしら? まぁ、ゼライドが関わると自然に泣けるかもしれないわね。
「まぁ大丈夫でしょうよ。だいぶ参っているようだし」
——これで警察内にゼライドとのルートはできる筈。娼婦殺しの証拠は一見決定的だけれど、もしそこが崩れたら……。堤も蟻の一穴から、になるかもしれない。
エリカの目が細まった。彼女はもう戦闘中なのだ。
——さて、次は研究所だわね。嫌だけど、仕方ない。
エリカは市長専用の端末を引き出した。あるナンバーを押すとすぐに反応があった。笑えるくらいに早い。
「はい。ボクでぇす! お呼び?」
甲高い妙な声だ。しかも台詞がまぬけである。しかし、エリカは無視を決め込んだ。これくらいでひるんでいては、この人物と付き合えない。
「私です。あなたが忙しいのはわかっていますが、なるべく早くこちらに来て貰えますか?」
『え~~、御冗談を。ボクが忙しくない事ぐらいよくご存じでしょうに、女王様。ボクは最早どの部下にも相手にされないくらい、暇を持て余しているんですよ」
「冗談を言っているのはあなたの方です。一体そのふざけた様子で、どのくらいの人間の目を欺いているのかしらね? でもまぁ、いいでしょう。来てくれるの?くれないの?」
『無論。エリカ女王様の仰せとあらば、直ぐに馳せ参じますとも。ボクの女神』
「市長とお呼びなさい。取りあえず運んでもらいたい物があるんです。妹がうるさくってね。あの子のラボに置き去りにして来た実験材料一式を持って来て欲しいの。無論私費でね」
『何ですって! ラボの全てをですか? データだけじゃなくて? うわぁ。私費ってあなた持ちってことですよね、ね?』
「無論です。私にはわからないけれども。ミアが作成したリストがあるわ。今から送るからそれに則って手配して頂戴。もちろん、念入りに偽装してよ」
『いやはや! 妹御の研究についてはボクも聞かされていましたが、確かナイツ絡みでしたよね? 一式となると結構な量になりますよ。その……つまり確か……ネズミが……ねぇ』
「なのですってね。私は苦手だから心底ぞっとするわ。でも、取りあえず半分は持って来て欲しいのですってさ。よくわからないけど、なんでも世代を重ねた物ほど餌が限定されてくるそうで、次々と繁殖させなければならないんですって。餌ってのが夜光花の種子なんだけど。あの子はそのネズミでナイツ禍を撲滅しようと息巻いているのよ」
『使命感に燃えた良い妹御ではありませんか。見た目と印象が違うのがまたよい……フム』
「そうね。自分の妹でなかったら、私もあなたのような感想を持っていたでしょうね。でもあの子は私のたった一人の妹なのです。あの子をここから出さない為に、そしてあなたがここに来るのに不自然に見えない為にも理由がいるのです。私はここでたくさんの仕事を抱えているのですからね」
『なるほど……ご苦労されているようですなぁ』
「苦労はいつもしています。とにかくできるだけ早く準備をして来て下さい。あなたの手腕に私がいつも期待している事を忘れないで」
『これは汗顔のいたりです。では期待に応えるため、久しぶりにうんと召かし込んで今から伺い……』
「いつもの通りでいいんです! いいですか? くれぐれも普通にして来て下さいよ。ネズミなんかを運ぶのに目立ってどうしますか! 普通にして頂戴! 普通に!」
エリカは語尾を強めた。この女性にしては珍しいことである。なかなか一筋縄ではゆかぬ人物のようだ。無論相手はネズミの運搬など、表向きの理由だと十分承知している。
「いいですね」
『かしこまりました、私の女神』
「市長とお呼びなさい! でないと運搬費を、あなたの給料から差っ引きますよ」
無言で回線が切れた。
エリカは顎の下で指を組みながら、暫し黙考する。
これからの事を思うと憂鬱だった。しかし、やらなければならない。市の平和と市民の安全保障は何よりも優先する。敵は近くにもいるのだ。だが、決定的な証拠を提示できなければ、逃げられてしまうし、そうなったら二度と機会はない。慎重に確実に進めなければ。
ある程度の犠牲も進んで受け止めよう。自分には乗り越えられる胆力も知性も備わっているはずだから。ともかく、まずは今から来る彼と筋書きを書いて、ゼライドに外に出てもらわなくてはいけない。その為には、超法規的措置も致し方ないだろう。敵はあの野人をコマの一つにするつもりなのだから。
「期待しているわよ、ムラカミ所長」
エリカはゆっくりと立ち上がった。




