36.オオカミの檻 2
——誰か来る。
ゼライドは、寝っ転がった簡易ベットから起きようともせず思った。
観察室という隣の小部屋とこの独房は、マジックミラーで完全に仕切られているのだが、野人特有の鋭い感覚で気配は話かる。いつもの尋問時間からはかなり外れているが、どうせやってもいない殺しの事をしつこく聞かれるか、意味もなく殴られるだけだろうから、誰が来ても気にもならない。どうでもいい、とゼライドは思った。
この部屋に入れられてからゼライドは、できるだけ頭を使わないようにしていた。過酷な拷問はむしろ救いだった。打たれている間は何も考えなくてすむからだ。マヌエルや、ユーフェミアの事を思うと、きりきりと心が血を流す。殴られ、蹴られている間だけ、わずかでも彼女たちの事を忘れられた。
ゼライドの体中には打たれた跡が無数についている。特に顔が酷い。いくら頑丈な野人とは言っても、打たれれば、それなりに痛い。ただ人間よりかダメージが少なく、回復も早いと言うだけのことだ。
——なんともねぇな。
ゼライドは首だけ上げて腹や腕の打撲傷に目を落とすと、優秀な皮膚細胞が、昨日やられた青黒い痕跡を消しかけてくれていた。自分の頑丈さが苦々しい。ぼんやり眺めていると、さっとガラスのスモークが解かれ、同時に音が聴こえるようにガラスの中央付近のパネルが上がり、細かい穴が幾つも現れる。
今日は囚われて四日目。
「失礼」
部屋に入って来たのはがっしりとした青年だった。
彼は看守ではないようで、ラフな私服を着ていた。短い黒髪がツンツンと立っている。やや浅黒い顔には正直そうな瞳が嵌っており、ゼライドを興味深そうに眺めていた。それは子どもの頃から馴染みのある、人間達が自分を眺める時のお決まりの表情だ。
だが、この青年の瞳はまっすぐで、ゼライドが自分を認めたと見るや、直ぐに笑顔になった。
「よぅ、野人」
青年は陽気に片手を上げる。ゼライドは全く興味は持てなかったが、取りあえず半身を起こした。
「随分ハデにやられているな。けど、存外大人しいんだな。意外!」
「……」
「もっとも、ここじゃ暴れたって仕方がないか。いくら野人だって、ここの壁は破れないだろ」
青年はそう言いながら、どっかりとガラスの向こうに腰を下ろした。
「俺はウェイ・リンチェイって言うんだ。ただの巡査だよ。ミアから聞いてない? って、なんて目だ。おっかねぇ」
ウェイは大げさでなく、腰を浮かしそうになった。ユーフェミアの名前を出した途端、薄青い瞳をギラリと光らせて野人がウェイを睨みつけたのである。
「参ったな。すげえ殺気だ。こりゃ、話に聞いていたよりものすごいわ」
「お前、誰だ」
ゼライドは低く唸った。疑問形ではなく、詰問だ。
警官だというが、ゼライドは知らない顔だった。今まで行われた、取り調べと言う名の暴力には同席していなかったように思うが、彼が注視しなかっただけで、もしかしたらいたのかもしれない。体を縛り付けられたまま、さんざんに打ちすえられていたので記憶が確かではない。ゼライドから見れば、同じような制服を着た平の警官など、個体が識別できないと言う点では、ユーフェミアのペットのスクナネズミと大差なかった。
「あんた物覚え悪いのか? それとも殴られすぎてアホになったんか? 言ったろ。俺はウェイ、警官だ。そんでミアの学校時代の友人。一応同期奴らの中ではリーダーなんだけど……って、あんたにゃどうでもいい話だよな」
「で? 俺に何の用だ。取り調べなら、もう嫌ってほどしてもらったぜ。一体同じことを何回言わせれば気がすむんだ?」
「まぁ、そう言うな。だが思ったよりハデにやられているな。取り調べったって、普通はここまでやらねぇ。警察は市民の見方だからな。だが、あんたは市民じゃないらしいな」
「市民じゃないからこの扱いか。これじゃ、ガーディアンたちの方がまだしも紳士的だったぜ」
「かもな。奴らは一応エリート集団だし、地味な取調べなんかはやらねぇからな。俺はそうでもないけど、警察官の中にはあいつらと反目しあっている奴も多いんだ。だが、話を戻そう。あんたがこんなに酷い扱いを受けるのは、おそらく上のもんから指示が出ているんだよ。よっぽど誰かの恨みを買ってんだな、あんた。覚えがあるかい?」
「ありすぎてヤんなるくらいだ」
「だろうな。そのツラじゃ、同性の恨みを買うのはしかたねぇ」
ウェイは同性から見ても雄の色気溢れる銀髪の男をしみじみと眺めた。
「俺をからかいに来たんなら、日を選んで出直して来い」
「そんな暇はねぇよ。てか俺は、今日突然ご挨拶を思いたったんじゃなくて、そもそも一連の事件の最初から関わっていたんだ。あんたは知らねぇだろうが、俺は一月ほど前にミアに情報を求められた。だからあんたが逮捕されたって聞いて驚いたんだ。あんた、ミアの護衛を引き受けたんだろ?」
「気安くミアとかって呼んでんじゃねぇ」
ゼライドはぶっすりと言った。友達同士で使うユーフェミアの愛称を聞くのは不愉快なのだ。
「……んっとまぁ、ハラ立つ男だな。お前ミアに惚れてんのか?」
「惚れてねぇ。ただの依頼人だ」
ゼライドはそっけなく言ったが、ウェイは半目で彼を見つめ、口をへの字に引き結んでいる。不承知を絵にかいたような顔だが、その様子にどこか愛嬌があるのはこの青年の特徴だろう。そして、ユーフェミアはこの男を信頼しているのだろうか。
ともかく、彼はゼライドが野人だからといって、特別恐れたりはしていないようだった。
「ふぅ~ん。俺は昔、あいつに振られたんだ」
ウェイは面白くなさそうに言った。
「へぇ、そりゃ、気の毒だったな」
「うるせぇぞ、それ以上へらず口をたたくと、ミアの事を教えてやらん」
野人の肩がピクリと動いた。
「ユミ……お前、ユーフェミアに会ったのか?」
「ああ、昨日会った。というか、いきなり市庁舎に呼び出されたんで魂消た。あいつ今、庁舎のずっと奥の方で缶詰状態なんだ。だいぶ泣いてたぜ。俺は知りあって六年になるけど、ミアが泣いたのを初めて見たわ」
「泣いて……たんか……」
ゼライドは胸が掻きむしられる思いだった。目の前にいない者の泣き顔を想像して、自分の胸が痛む……彼にとって初めての経験だ。
——あいつが泣いてた……俺のことなんかで泣くなよ、ユミ。
「俺ちょっと役得だったわ」
「何だと⁉︎」
「うわっ! いきなり豹変すんな! 牙仕舞え、牙! すげぇ顔になってるぞ。けどそんなに眉顰めてもかっけぇなんて、正直羨ましいぜ。あのミアに惚れさせただけの事はある……じゃなくて、俺は熱に何にもしてねぇよ。泣いてる女につけこもうなんて鬼畜じゃねぇし」
「……」
「ホントだって! あいつ、泣きながらあんたの名前ばっかり呼んでんだぜ? 自分の胸で他の男の名前呼ばれる身にもなってみろ! まったくヤんなんぜ」
ウェイは本気で、腰を浮かせている野人を宥めた。それほど彼の放つ殺気は凄まじいものだったのだ。
「ああ、そうだよ! 悔しいけど認めるよ。ミアはあんたにゾッコンだ! きれいなでっかい目にいっぱい涙をためて、必死な顔してあんたを助けてくれって俺に言うんだ。ゼルは優しい人だ、見かけや態度は少し怖いけれど、女の人に手をかけるような事は絶対にしない。これは何かの陰謀だ……ってね」
「……それで涙を……?」
「ああ。最初は強がって人権侵害だの、証拠不十分だの、小難しい事をいろいろ喚いていたけど、俺がそいつに惚れてんのかって聞いたら突然泣き出した。正直びっくりしたぜ。終いにゃ床にしゃがみこんで、美人が子どもみたいにわぁわぁ泣くんだもんな。お陰で往生したぜ」
——ちきしょう! 心臓が潰れそうだ!
この男が胸を借したことには腹が立つが、ユーフェミアは自分を思い、あの美しい翠の目を曇らせて涙を流したと言う……。
ゼライドは唇を噛んだ。
「おいあんた、大丈夫か? 酷い顔だぜ。やっぱりどこか痛むんじゃねぇか? へっへっ」
——これで惚れてねえって、どのツラ下げて言うんだよ。
ウェイはニヤニヤ笑いながらたくましい野人の男を見上げ、ゼライドは嫌そうに顔を背けた。この二人、見た目は同年代の青年である。
「うるせぇ。それでお前、ほんとは俺に何の用なんだ。俺の面をどうこう言いに来たんじゃねぇんならさっさと言え!」
「ああ。そうだな。時間もないし」
浅黒い顔を引き締め、ウェイは野人に向き合う。
「殺人科のお偉方は、あんたをどうしてもホンボシにしたがってる。もっと上から圧が掛かったに違いない」
「だろうな」
予想していた事だったのでゼライドは驚かなかった。
「動かぬ証拠もあるんだ。あんたの精子が娼婦の部屋と膣の中から検出されているんだ。俺もデータを見た。これはちゃんとしたモンだった」
「知ってる。だが……だからこそ、そいつが捏造だって言うんだ。俺はあの部屋でマヌエルを抱いちゃいねぇ」
「ならなんで、ぴっちぴちの生きた精子が娼婦の体から出てくるんだよ。あんたどっかで不妊検査でもやったんか?」
ウェイはもっともなことを言い返したが、ゼライドはその言葉に示唆を受けたように考え込んだ。
「……おい、ちょっと聞きたいんだが、精子ってな、体外に出てどのくらい生きている?」
「さぁ……野人のは知らんが、人間のなら水分さえあれば、二三日は生きてるんじゃないか? ……おい、まさか」
ウェイは、はっとしたように背中を伸ばした。
「……」
「おい?」
「あの時だ……」
ゼライドは呆然と言った。
「え?」
「俺は二日前の晩……一人でヤッたんだよ。その……マスターベーションって奴を」
「なんだって?」
まさかの告白にウェイの切れ長の目がまん丸くなり、野人は嫌そうに鼻の頭にしわを寄せた。
「だからマスだよ。何回も言わせんじゃねぇ。無論やってから、自分で適当に後始末をした。状況がちょっと……アレだったもんで、その後はそんな事忘れちまってたんだが……」
「はぁ、で一体どこでやったんだ?」
「バイオテクノロジー研究所のちっこい実験棟。げっ歯類の飼育室」
「バイオテクノロジー研究所ぉ?」
「そうか……俺たちがあの部屋に来ると知って、出歯亀を決め込んだ奴が居やがったんだ……くそったれ!」
ゼライドはぎりぎりと奥歯を噛みしめた。
「ユミはモニターに細工にしたとか言ってたようだが……カメラなんかなくても、精巧な盗聴器一つあれば、室内の状況はだいたいわかる」
「おい、ちょっと待て」
ウェイはとりあえず状況を飲み込もうと、話に待ったをかけた。
「するってえと……あ~、つまりお前は、ミアと二人きりになってたんだな?……それでなんでマスなんか……」
かかなくちゃいけないんだ? と言う言葉をウェイはなんとか呑み下した。
——なんだって、そんな事する必要がある? すぐ傍に自分に惚れてる美味そうな女の子がいるってのに。いや、自分的にはシテほしくはないが、普通スルだろう? スルよな? いわゆる据え膳だし。
混乱したウェイは、なにから聞いたらいいのかわからなくなった。ゼライドは恐ろしい顔で考えこんでいる。
「そうか……俺たちがいなくなってから、こっそり採取しにきたんだな。汚ねぇ野郎だ……」
「おい聞けよ畜生! だから、何でマスなんかかいてんだって!?」
「けど、ちゃんと始末したよな…紙ナプキンで…」
「おーい、聞いてくださーい!」
「うっるせぇな……うん。だからやっぱり研究所内部――ユーフェミアにごく近しいところに内通者がいる。研究者か、それともそれを装ったゴクソツか……いずれにしてもそいつを探りださんと!」
おそらくそれは以前、蛇型の獣が盗み出した奴と同一犯に間違いない。
ゼライドはぐんと背を伸ばして立ち上がると、ぎらりとウェイを見下ろした。
「不本意だが、あんたに助けてもらわなくちゃいけねぇ」
「やかましいわ!」
ウェイは欲求不満の極みでゼィゼィ言っている。
「なに?」
「もうええわ! ……ふん、自分が惚れてた女が惚れた男の頼みを聞けってか? 自分がいい人過ぎて嫌になるぜ! 全く!」
ウェイはそっぽを向いた。目の前に立っている男が見ても見蕩れる美青年は、どういう訳かは知らないが、据え膳を喰わなかったのだ。野人が嘘をついていない事はなんとなくわかった。警官の勘である。
『ゼルを助けて!』
ウェイがユーフェミアの話を聞いた時点では、ゼライドの無罪に関して何の確信はなかった。とりあえず話を聞いてやれば、自分の役割は果たせる、そのくらいに思っていた。
だが――
ウェイの警官の血が告げている。行き過ぎた拷問まがいの取調べ、一部の上司のこそこそした態度、目の前の野人の人柄と様子――どれをとっても、どうもただの単純な殺人事件ではない。
——なにかあるんだ、絶対なにかある――。これは面白いことになるかも。
「おいお前なにをよろよろ考えてる」
「いろいろ考えてんだよ……ああ、でもわかった。俺にできることは少ねぇが……ちょっと探ってやる」
ゼライドの目を見てウェイは言った。
「ありがてぇ。誰かは知らんが、礼を言う」
「あんなぁ……せめて助勢を頼む相手の名前くらいは覚えてろよ」
げっそりとウェイは肩を竦めた。
「ああすまん、ワン」
「ウェイだ……お前、絶対同性の友だちいねぇだろ」




