34.オオカミの罠 3
夏が過ぎ行く。
空が高い。
その朝もよく晴れていた。雨が洗った後の緑は一層深く、大気は濃密である。風はあるかなきかで蒸し暑い。
「おはよう。昨日はさっさと寝ちゃってごめんなさ……どうしたの?」
ユーフェミアがきちんと支度を整えて階下に降りてゆくと、キッチンにいたゼライドが自分の端末を食い入るように覗きこんでいた。
——パルさんから連絡かな?
毎朝パルミラからゼライドに連絡が入っているのは知っている。その内容は知らないが、単に仕事の連絡だけではないだろうとも思っていた。ゼライドは常にあっさりした態度だったので、ユーフェミアは自分からその事を訪ねたりはしなかった。
二日前の夜、ユーフェミアはゼライドに抱かれてもいいと思って誘惑した。しかし、結局その望みは叶わず、二人は相変わらず微妙な緊張状態のまま、契約関係を続けている。
——嫌われてない、女として意識してくれているとあの時は思えた。しかし、邪魔が入ったとはいえ、ゼライドは体を繋げようとはしなかったし、愛していると言われたわけでもない。彼の本心はわからなかった。
あれから、ユーフェミアは悲しみを抱えて仕事に没頭し、夕刻、街に帰っていたゼライドが迎えに来た時には、元気そうなふりをして家に帰った。
今日はさらにそのその翌日である。
ゼライドの様子がおかしい。その全身から立ち昇っている感情は――怒りだった。
「ゼル……?」
——どうしたのかしら? ものすごく怒っているようだ。
野人が端末を握りしめて震えている。こんな彼を見たのは初めてである。パルミラからの定時連絡ではなかったのか?
「……れた……」
酷く歪んだ唇から犬歯が光る。
「え?」
「マヌエルが殺された……」
絞り出すようにゼライドが唸った。
「マヌエル? 誰?」
「……俺の知合いで野人の女だ。昨日の午後会った。その日の内に殺されて、死体が今朝発見された」
「……」
ユーフェミアは急いで事態を把握しようと、起きたばかりの脳に喝を入れた。
昨日、ゼライドがラボに迎えに来てくれたのは薄暮を過ぎた頃だった。さすがにいろんな事が立て続けに起きて、疲れ切っていたユーフェミアは、本当はもっと話をしていたかったのに、車に乗るやいなや眠ってしまい、家に着いた記憶がない。
だから、おそらくゼライドが部屋まで抱いて運んでくれたのだろう。夜中に一度目が覚めたが、階下に降りても誰もいなかった。しかし、夜に彼がユーフェミアを一人にする筈がないから、きっとどこかにはいたのだろう。ユーフェミアが冷蔵庫から食べ物を漁っていると、外からティプシーの鳴き声が聞こえたから、屋根にでも登っていたのかもしれない。
してみると、ゼライドがマヌエルと言う女に会っていたのは、昼間、彼が街に戻っていた間の出来事なのだろう。どのような要件かはわからないが、彼の怒りと、そして悲しみから察するに、その女性は彼にとって重要な人物だと思われた。
——もしかして、そのマヌエルと言う人は、彼のつがい……と言う存在だったのかしら?
ゼライドは、銀青の目をぎらぎらさせながら、端末に映し出された写真を睨みつけている。その視線を追ってユーフェミアもそれを覗きこみ――慌てて顔を背けた。
「……う」
一瞬しか見なかったが、惨い殺され方をしたと言う事は分かった。体中切り刻まれたのか、画面は血の海だったのだ。
「酷い……」
ユーフェミアはゼライドの背中を見つめた。震えているのは怒りのせいだったのだ。
「俺が……俺のせいだ……」
「ゼルの? なぜ?」
「俺が会いに行ったから……俺への恨みで殺された……俺が行ったばっかりに……あいつには息子がいるのに!」
ゼライドはぎりぎりと拳を握りこみ、端末を睨みつけている。
その瞳が激しい悲しみと怒りで滾っている。このような生の感情をむき出しにしている彼を初めて見たユーフェミアは、この状況に混乱ながらも、一つの答えに辿りついた。
——ああ……そうか。ゼルはその人の事が好きだったのね。彼と同じ野人の女性……。
「ゼルのつがいだったの……?」
「……マヌエルはいい奴だった」
彼はユーフェミアの言葉に少し目を上げたが、その言葉を肯定も否定もしなかった。
「いい奴だったんだよ」
ゼライドはそう繰り返した。
自分の愚かしさに吐き気がしそうだった。監視されている事を知っていたのに迂闊に出歩くのではなかった。
まさか真昼間から、ちょっと立ち寄っただけの薄汚い娼婦の館に、彼等がここまでするとは思わなかったのだ。マヌエルだって野人だから、普通なら人間ごときに後れを取るとは思えないし、ゴクソツに対する用心も怠ってはいなかった筈だが、彼らはその上を行く狡猾さと憎悪を以って、彼女を殺したのだ。
その理由は無論ゼライドへの威嚇と憎悪である。
——奴等ら、いよいよ本気で俺を燻りだそうとしてやがる……そしておそらく……。
ユーフェミアをもだ。
もう疑いの余地はない。
ゼライドを排斥しようとするゴクソツ達は、サイオンジ市長の敵と結託して彼らを葬り去ろうとしている。目的が違うから、ユーフェミアの方は殺される事はないかもしれないが、姉のエリカは政治的に二度と日の目を浴びる事のない破滅へと導かれることだろう。
そして、野人であるゼライドには、確実な死へと導くシナリオが、この瞬間にも綴られているのに違いない。
——ユーフェミア。
ゼライドは不安そうに自分を見上げる、大きな翠色の宝石を見つめた。見つめるだけで体の奥に熱い塊りが膨れ上がる。
——俺のつがい。……この女が。
だが、彼女は自分が野人などのつがいと成ったことなど知らないだろう。知ればどう思うのだろうか?
—— 一昨日の夜、彼女は何と言ったのだったか。
『友だちなんて嘘よ! 異性としてゼルが好きなんだから』
好き――それはどう言う意味を持つのだろう?
野人であるゼライドには人間の感情の全ては理解できない。好かれているのはわかる。しかし、それは野人がつがいに対する持つ熱情と執着とは、全く違うかもしれないではないか。
「愛していたの? ゼル――その女の人を」
ユーフェミアは辛そうに彼に尋ねた。
「あい?」
——あいしている?
——ああ、そう言うのか。人間ならば。
マヌエルも昨日、そんな事を言っていた。
『愛したい、愛されたい。そして、命をかけて尽くしたい』
ゼライドはその言葉を反芻した。
ついこの間まで、彼には縁のない言葉だった。自分に関わりのない言葉に心が動く事はなかったのだ。漣のように始まったうねりは今や、荒れ狂う嵐となって彼を苛んでいる。
「ゼル?」
出勤用に豪華な金髪を一つにまとめ、化粧っけの無い顔に度のない眼鏡を掛けているユーフェミア。
服装はいたって地味で白いシャツに黒いパンツ。知的に見せたくて一生懸命美しさを隠そうとしている。そして、この小さな頭の中で、恐ろしい麻薬<ナイツ>をこの世界から除こうと本気で考えている、変わった娘。この無垢で無邪気で、それでいて内に強い意志を秘めた彼のつがい。
——あいしている……この女にそう言えたなら。
「あいなんか知らねぇ。必要もねぇ」
しかし、ゼライドの口から飛び出したものは、全く逆の言葉だった。
真実を伝えてはいけない。自分が彼女に特別な想いを抱いている事が敵に知れたら、確実にマヌエルの二の舞になるだろう。そしてそれはエリカに大打撃を与え、市政はズタズタになる。彼の敵にとって、こんなに都合のいい事はない。
今この瞬間だって、充分に危険なのだから。
「だって、マヌエルさんは!」
ユーフェミアが言い募ろうとするのをゼライドが遮る。
「馴染みの娼婦がいるってったろ? 俺はマヌエルの客の一人で、たまに相手をして貰っていたんだ」
「昨日もそうだったの? お客で行ったの?」
——私を抱かない代わりに? その女の人を――?
「昨日は違う。バイクを届けてすぐに帰ってきた」
雄弁な疑問を浮かべたユーフェミアに、ゼライドは正直に応えた。最悪の嘘を突き通すならば、その他の事ではできるだけ正直でありたいと思ったのだ。
「あいつは俺と同じ頑丈な野人の女で、死んだつがいとの間にできた子どもにいい暮らしをさせてやるために、娼婦になったんだ。いい奴だった。殺されていい訳がない」
ゼライドは苦々しく口を噤んだ。
「その人は……もしかして、ゼライドを脅かす為に殺されたの?」
「おそらく」
「なら、私とも無関係じゃないのね」
「……ああ」
「少し待ってね」
ユーフェミアはパタパタと階段を駆け上がり、十分ほどしてから降りて来た。
「ゼル、今日の夜に姉さんが時間を取ってくれるって」
「え?」
「本当はもっと早く行けるといいのだけど。姉さんは公務だし、私は仕事を休めないし……それに色々調べる時間もいるし……」
ユーフェミアの何やら考え込んでいる様子にゼライドは慌てた。
「ちょっと待て、お前こんな事を聞いても仕事に行くのか? 研究所内部だって油断ならねぇンだぞ」
「行くわよ。私がのほほんと仕事をしていないと、敵だって尻尾が出せないのよ。だから、せいぜいふらふら歩きまわって、どいつが裏切り者なのか探りを入れるわ。まさかこの頭悪そうな顔が役に立つ時が来くるとは思わなかった。みんなでマヌエルさんの敵を討つのよ!」
ユーフェミアは断固として言った。
「……話はわかった……ユーフェミア、そしてゼライド。たった今、警察から送られてきた検証データによると、マヌエルと言う娼婦は、あなたが立ち去った直後に殺されたようね」
エリカは、大ぶりの端末の画面を指先で消して野人に向き合った。
朝、ただならぬ様子のユーフェミアから連絡を受けて直ぐに事態の重要性を察したエリカは、ただちに警察の要人に連絡を入れたのだ。今日のエリカのスケジュールも分刻みに組まれている。このところ<ナイツ>関連の犯罪の増加で、マスコミの論調も日増しに厳しくなっており、市長は次々に対策を打ち出していかなくてはならない。
新たな規制や、細かい政策の見直しも目白押しで、今も人に会う予定だったらしいが、何とか都合をつけて二人の話を聞いてくれたのだ。
「……やはりそうか」
ゼライドの声は地を這うように低い。
「彼女が殺された場所は、仕事部屋の一つとして借りているアウト・サークルのG地区にある平屋のアパート。立地や利用目的からして、部屋の使用者以外の人間が室内に立ちい入る事はないし、個人営業だから余程の事がない限り、同業者もお互いを干渉し合わない。彼女の一人息子は別の場所に住んでいるようだし……」
「……」
「鑑識によると、彼女は絶命するまでに相当抵抗したらしい。部屋の中はめちゃめちゃで、血が天井にまで飛び散っていたとか。……ミア、気分が悪いなら出て行きなさい」
「……いいえ、大丈夫。最後まで話を聞くわ」
青い顔でユーフェミアが強がってみせる。エリカはもう何も言わずにデータを示した。
「そのアパートは娼婦たちが夜の仕事場として使う場所にあって、昼間はほぼ無人。だからあれだけ騒いだのに、誰も様子を見にやって来なかった。ただ、前を通りかかった酔っ払いが昼過ぎに屋内で大きな音を聞いたと言っている。多分それが犯行時刻と考えて先ず間違いが無い。死体は今朝たまたまやってきたアパートの管理人が見つけた」
「俺が部屋を出たのが正午頃だから。殺害時刻はまず間違いないと思う」
「死因は失血死。もっと詳しい事は検死結果……多分解剖もされるだろうから、それを見ないとだけど、彼女がなぜ殺されたかわかる?」
「おそらく俺が会いに行ったから……俺の情婦だとでも思われたんだろう……俺は今朝早くツレからの連絡でこの事を知ったんだが、マスコミはもう知っているのか?」
「警察も動いているし、彼等も独特の情報網を持っているからおそらく。でも、野人の女だとは確認していない可能性もある。でも今日中にはニュースになるわね」
「……他には?」
「関係あるかどうかはわからないけれど、一週間ほど前からその付近を見慣れぬ男が徘徊していたという情報ならあるわ。見慣れぬ男など珍しくはないはずだけど、ここらの客にしては身なりはいい方だったという。場所が場所だけに、その男の狙いが殺された女性だったかはまではわからない。今一応調べています」
「俺も伝手をいくつか当たってみる。それで……サイオンジ市長」
「なんでしょう?」
「こんなことになっちまって悪いが、俺があんたの妹と行動を共にするのは、もう止した方がいいんじゃないか? マヌエルだって俺に関わったばかりに……」
「いやよ!」
それまで黙って聞いていたユーフェミアが、間髪をいれずに大声で叫んだ。エリカもゼライドもその激しさに思わず目を剥く。
「ミア……」
「その女の人が殺された時は、傍にゼルがいなかったのよ! もし彼が傍にいたら絶対にその人だって殺されることはなかった筈よ! それにもう、私はとっくにゼルにしっかり関わっているもの。しかも私達の方から関わったのよ、守ってくれって! なのに今更、離れてしまったら、益々危険になってしまうわ! 私だって狙われているんだから!」
「ユミ……だから、お前はここに留まって……」
「駄目。そんな事をしたらスクナネズミの研究ができなくなってしまう! せっかくバルハルト室長がチャンスをくれたのに! 今日だって、ずいぶんと言葉をかけてくれたのよ。私、この実験を進めたい!」
「それでも、お前の命には代えられない」
「ゼルは守ってくれるでしょう? ずっと一緒にいてくれたら危険は減るわ。研究所内にも堂々と出入りできるように、姉さんの方から取り計らって……」
「二人一緒に狙われてしまうかもよ。ここは彼の言うとおり、あなたはここに……」
「絶対に嫌!」
エリカの諌めにもユーフェミアは屈しなかった。
「二人一緒に? それならなお好都合じゃない! 誰が私達を狙っているのか、どこで結託しているのか、一度にわかるってもんだわ。まさか大型銃器を使うってわけでもないでしょし、近くはゼルに、ウェイにも連絡をして警察にも協力してもらって……私はいわば囮よ。罪のない人を殺そうとする卑怯な悪党を引き摺り出すのよ」
「だが……」
「ゼル! 守ってくれるって言ったじゃない。ここまで来て私を見捨てないで! お願い、一緒にいて!」
ユーフェミアは必死だった。せっかく研究チームが進み始めたのに、ここまで来て後には引けない。ゼライドと引き離されるのも耐えられない。自分の想いはそんなに軽くはない。
「逃げ出すのも泣き寝入りも嫌! 私だって私のやり方で戦うわ! お願い、姉さん……いえ、サイオンジ市長閣下、こんなことであなたの妹は怖気づいたりしない!」
両の脚を踏ん張り、背筋を伸ばしてユーフェミアは言い放った。