33.オオカミの罠 2
「ああら、ゼル。どうした風の吹き回し? こんなに日を空けないで来るなんて初めてじゃない? もっとも、こないだはシなかったけど」
マヌエルは笑った。
娼婦らしく大きく胸の開いた派手な服を着てはいても、彼女から発散される空気は乾いていて、粘ついていない。
「今日も別にヤりに来たんじゃねぇ。言ったろ? お前の子にバイクを持って来たんだ。裏に置いてある」
ゼライドは憮然と応えた。彼は女に会う時は高級な部屋を使うのが常だ。
ここ数年の彼の馴染みはマヌエルだけだ。普通なら欲を吐く時には、ホテルに呼び出す場合を別にすると、ゼライドは彼女の持ち部屋の中でも一番いい部屋を使う。そうする事で収入に潤いを与えてやるのだが、ソレが目的でないならば、反対に下町のゴミゴミした地区にある、目立たぬ場所を使うのが常だった。
この部屋は一週間ほど前、ゴクソツの襲撃を受けた時に落ち会ったアウトサークルのG地区にある。治安は決してよくはないが、ここにもマヌエルの仕事場の一つがあるのだ。
ゼライドの今日の表向きの用事は、移動手段がないと聞いたマヌエルの息子のために、自分の使わなくなった単車を持って来るという、当たり障りのないものであった。
散々な結果に終わった、ユーフェミアと二人きりで過ごした夜が明けた翌日の昼下がりのことである。
ゼライドは一睡もせずに朝を迎えた。
明け方近くに目覚めたユーフェミアは、少し気まずそうにしてはいたが、このまま仕事を続けると研究室にこもってしまった。そしてゼライドは今はこれ以上、ここにいる必要もないだろうと、雨の降り終わらぬ未明にラボの外に出たのだ。
二人が別れた時、フロアには誰もいなかったが、直ぐにでも職員がやってくる恐れがある。ゼライドは昨晩のルートを通って研究所の外に出、荒野で夜明けを待った。
雨の勢いが弱くなると同時に夜の底辺が白み、曙の光と共に雲は消えてゆく。
この世界の夜明けはいつもこうして訪れる。
昨日の穢れは洗い流され、新しい一日が始まるのだ。
明けて程なく移動修理屋がやって来た。
機材を満載したトラックは、重そうに車体を揺すり、荒野のあちこちに溜まった水たまりを粉砕しながらゼライドの前で停まった。
「おはようございまぁ~す。……おんや? 旦那、いつになく冴えない顔だねぇ。寝てないの?」
「うるせぇ、とっとと直せ」
「へいへいへいっと」
意外に鋭い修理屋は、彼こそろくに寝ていないだろうに、元気よく仕事をはじめた。
そして、昨日のお詫びだと精を出してくれたお陰で、壊れたセンサーは三時間ほどで無事に直った。ボディに残る大きな傷は後日修理をするとして、取りあえず街へ戻ったのだが、どうにもゼライドは家にいる気になれず、ガレージから古いバイクを引っ張り出すと、マヌエルに連絡を取ったと言う訳だ。
彼にしては珍しい事に、一人でいると、昨夜から燻っている情愛の波に飲み込まれそうな気がしていた。マヌエルとはもう会わないつもりだったのだが、他に気の置けぬ相手はいなかったのだ。
「バイクをくれんの?」
「型は古いが、よく走るぜ」
裏口にバイクを置いたゼライドはのっそりと部屋に入った。
「ありがとうね。ショーンも喜ぶよ。車はまだ買えないと言っていたから」
「相変わらず、あいつはお勉強してんのか?」
「してるねぇ。信頼できる友達と共同生活していて、最近あんまり会えないんだけど」
息子のことを話すマヌエルは母の顔である。最近は、自分に対してもよくそんな顔をしている、とゼライドは思った。だが、マヌエルはすぐに話題を変えた。
「……で、今日来た理由はそれだけじゃないでしょ?」
「うん……実はあんたに聞きたい事があるんだ……」
意味ありげな微笑を浮かべたマヌエルに見つめられ、まるでいたずらを見つけられた少年のように、ゼライドは口籠った。
「そうだろうね。指定した場所がここだし、入って来た時からあんたは強く雌の匂いをさせてたから……昨夜だね? 誰とシたの? 新しい馴染み……じゃないね」
マヌエルは興味を惹かれたらしい。ここ何年かゼライドは、他の雌の匂いをさせたことはなかったのだ。
「それにしてもここらの雌はだいたい知ってるんだけど、そんな情報は聞かなかったねぇ。どっかから流れてきたコかい?」
「……」
ゼライドの眉はなぜだか険しい。
「ひょっとして、この間言ってた娘かい? 確か人間だって言ってなかったかい? あんたまさか……」
「ヤってねぇ!」
ゼライドは大声で叫んでいた。
「あいつとはそういう事はしねぇ。……できねぇんだ」
「なーんだ。やっぱりつがいに出会ってたんじゃない。で、どう? 人生変わったでしょう?」
「……!」
「おや、あんたが赤くなるところを初めて見るわね。これは面白い」
「おかしなことをを言うな!」
「ははは! 突っかかるのも珍しいね」
並みの男なら震え上がるゼライドの恫喝にも、マヌエルには通じない。ここらは年季の差というものである。
「……でもさ、何でヤんなかったの? 相手の女はあんたをつがいだと認めちゃくれないの? 人間の娘じゃあねぇ」
「……」
ずけずけと直球を投げる年上の同胞に、ゼライドは辟易したように黙り込んでいた。
しかし、確かに彼がマヌエルに会いに来た理由は、そう言う事を聞きたかったからなので、ここは耐えければならない。いかに野人とは言え、このテの話は雄にとって、常にデリケートな部分なのである。
「傷つけたくない……」
「え、傷つく? なんでさ。その娘に、あんたなんかお呼びでないとか言われたのかい? そんで、腹を立てて自分が何をするかわからないと……」
「馬鹿言うな! あいつになんかする奴がいたら、例えそれが自分でもぶっ殺してやる!」
野人の男はつがいと認めた女を命がけで守る。そして、世界の中心はその女になるのである。
「なんだ。やっぱり、つがいなんじゃないの」
年上の貫録を見せて女は笑った。その余裕を忌々しげに若い野人はにらみつける。
「つがい……つがいってなんなんだ? なんでこんなに苦しい気分になる?」
「苦しいから、つがいなのよ。抱きしめたい、抱きしめられたい。愛したい、愛されたい。そして、命をかけて尽くしたい」
人間の言葉も交えてマヌエルは若者に伝えた。ゼライドにはそのほうがいいと思ったのだ。
「……それって出会った途端、わかるんか?」
「まさか、それじゃ人間の書いたお気楽な恋のお話じゃないの。そんなに都合よくはないわ。だけど、どうにも忘れられないって言うか、急速に惹かれていく。相手の声や匂いに敏感になり、色んな欲が刺激される。気がついた時にはどうにも離れられなくなって、自分のものにしたくて仕方がなくなる……って、死んだあいつは、あたしに会ってからそう思ったんだってさ」
マヌエルは話しの途中でうっとりと瞳を潤ませた。死んだ亭主を思い出しているのだろう。しかし、話の内容は充分すぎるほどゼライドに伝わった。
「あんたはそうはならなかった?」
「……わからねぇ。ただ、守りたい。傷つけたくはない」
「だから、傷つけないために守るんじゃないの。それが何で相反すんのさ」
「俺自身が凶器になりかねない」
ゼライドは冷静に断じた。
「なんでさ?」
「そもそもあいつと俺とでは、大きさがぜんぜん違う。おまけにあいつにゃ、ほとんど経験がなさそうなんだ。女には色々あるんだろう? その……痛いとか怖いとか……」
「ああ……」
そう言う事か。マヌエルは目の前の若い野人を見つめた。そういう事を気にしていたのか。マヌエルはゼライドの動揺が漸く腑に落ちた。
彼が欲を発散するでもなく、物品を調達するでもないのに自分を呼びだしたのは、そう言う話をして欲しかったからなのだ。
「おまけに、あいつは上流階級のお嬢さんで、本来なら俺なんかを相手にしちゃいけねぇ奴だと思うんだ」
「あんたねぇ……あたし達がそんな理由でつがいを諦められるって思ってんのかい? あたし達は野人なんだよ。あんたの今の状態を話してごらんな」
「……」
マヌエルの提案にゼライドは無言で考え込んでいたが、やがて渋々と言う様子で話しだした。
「初めて会った時、あいつはゾクの奴らにレイプされそうになっていて、それを拒んで潔く自分で死のうとしていたんだ。そん時の目がすげぇきれいで、俺は一瞬、他の何も見えなくなっちまった。結局、俺が助けたんだが、それがそもそもの始まりだった。あいつはどういう訳か俺に付きまとって……色々あって身内が護衛として俺を雇った」
「そうこうしてるうちに、つがいだって思えたんだろ?」
「わからねぇ。ただ、あいつを見てると無性に腹が減ってた。そんで隠れて肉に齧りついている所を見られたんだが、あいつは別に気にしないって言うんだ」
「おや、いい話じゃないか。普通、人間のお嬢さんならドン引きだろうに」
「だけど、今は喰うための肉じゃ、もう満足できそうに……ない。あいつの体中から甘い匂いが漂ってくる……俺はだから、いつも息を顰めるか、風上に回り込まなくちゃならねぇ。だけど、それももう限界で。あいつの体中を舐めつくして俺の体液でドロドロにしたいんだ」
「全く正常な野人の雄の性ね。なんてそうしないのよ? なかなかいい嬢のようなのにさ」
「昨日、もう少しでそうなりそうだった。頭に血が昇って、興奮でぼうっとなって……でも、邪魔が入って正気に戻った」
「へえぇっ! よく辛抱で来たわねぇ」
「辛抱しなくちゃダメなんだ。あいつと俺は違いすぎて……俺はあいつを傷つけたくないんだ。あいつの血の匂いを嗅いだだけでおかしくなっちまうのは、もう実証済みだからな」
「ばっかだねぇ……そんな事を心配してたのかい? 女の体ってのは意外に丈夫に出来てるんだよ。痛みにだって男より耐える力はあるんだよ。なんたって子どもを生めるようできてるんだから。その子だって最初は痛いかもしれないけど、直ぐに慣れるもんなのさ。あんたの事が好きならね。そう言ってくれなかったかい?」
「……言ってた」
若い野人は小さく首肯した。この様子を昨日のライダーや、議員が見たら同一人物と思えないだろう。それほどゼライドは混乱しているのだ。マヌエルは辛抱強く笑った。
「ゼライド。あたしの言うことよく聞いて。あんたは幼い頃に両親を亡くして一人で生きて来た。人間達とは深くは関わらなかったかもしれないけど、人間の中で育って来たんだ。だからあんたは無意識に人間のルールや道徳に毒されてる」
「どう言う事だ?」
ゼライドは興味を惹かれたように身を乗り出した。
「私ら野人は、人間より成長がゆっくりなんだよ。見た目は人間の成人とおんなじでも、中身はまだまだ幼い。あんたは生粋の野人なのに、それを教えてくれる人が誰もいなかったんだ」
「俺がまだガキだって言いたいのか?」
「言いたくなくても正真正銘ガキなのよ。すごく飢えた気がするのはそのせい。むしろ今までよく堪えられたわねぇ。多分あんたの中で培われた人間のルールがそうさせたんだろうけど……いいんだか悪いんだか」
「……」
「でも、つがいに出会っちまったもんは仕方がないじゃない。野人の本能のまま、尽くして奪う。それだけ」
「尽くす……」
「そうよ。命をかけてその子を守ってやりなさい。……あたしに会いに来たのは、ホントはそう言う事を聞きたかったんでしょ?」
マヌエルは立ちつくすゼライドの頬を優しく叩いて言った。
「わかった……マヌエル。俺はそうする」
「うん。そうなさい」
マヌエルは慈母のように微笑んだ。
「……俺はもう、ここへは来ない」
ゼライドは今まで彼を支えてくれた同胞の女を見つめて言った。彼女を女として愛してはいなかったが、若い彼の捌け口となり、その制御の仕方や、野人の雄として、どう振る舞えばいいのかを教えてくれた大切な存在だったのだ。
「その方がいいわ。息子にはたまに会ってやって欲しいけど」
「ああ」
「手に入れるのよ。その娘を。野人にとってつがいとは、生命と言い換えてもいいくらいの存在なんだから」
「……わかってる」
「さぁ、最後にキスさせてよ。あんたも私の息子になるんだから」
そう言ってマヌエルは、素直に身を屈めたゼライドの額にそっと触れた。
「元気で。いい男になりなさい」
「ああ……ありがとう」
小さく微笑みを交わす。それが二人の別れだった。
涙も未練もなく、一つの絆に区切りがついた。だが野人として彼らはどこかで繋がっている。
ゼライドの戻るべきところはユーフェミア。彼のつがいの傍らになった。
娼婦マヌエルは慈愛を込めて、去ってゆく若い同胞を見送っていた。
マヌエルが惨殺死体で発見されたのは、その翌日の事だった。




