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ビースト・ブラッド ー野獣のつがいー   作者: 文野さと


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32.オオカミの罠 1

 ヒューン ヒューン ヒューン……

 耳を(つんざ)く警報は直ぐに止んだ。その後に何とも言えない余韻を残しながら。

『ただ今の非常ベルは、Bブロック管理棟からの人為的原因による誤作動です。非常事態ではありません、警報は解除しました。ご安心ください』

 無窮とも思える静寂の後、天上に埋め込まれたスピーカーから女性の音声が流れて来た。無論職員のものではなく、合成音である。

 普段なら安心材料となるその穏やかな声はしかし、取り残された男女に非常な気まずさを齎すものでしかなかった。

「えっと……」

 ユーフェミアが半裸のまま上体を起こすと、ゼライドは転がるように跳び退()いた壁際にへたり込んでいる。

 彼は、ユーフェミアの視線を避けるように項垂れていた。さっきまで壁のように視界を遮っていた大きな体は今、まるで出来るだけ自分を見えなくするかのように、小さく丸まっている。

 それは、自分を拒絶するようにも見えて、ユーフェミアの昂ぶっていた気持ちを(しぼ)ませた。

「ゼル……?」

「……かった」

 耳をそばだててやっと聞こえるほどの声が、青い薄闇の床を這った。

「え?」

「これでいいんだ。このままいってたら、お前を傷つけてたかもしれねぇから。……こうなってよかったって言ってんだ」

「それって……」

「ユミ」

 ゼライドは座り込んだまま、のろのろと背を向ける。

「すまんがちょっと向こうを向いててくれねぇか」

「でも……」

「ユミ、頼むよ……」

 そう言って再び項垂れたゼライドの大きくて頑丈な背中が、とても悲しそうに見えた。そして全身で拒絶を表していた。まるで叱られて拗ねる子どものように。

 ユーフェミアは、これ以上どうする事も出来ない事を悟った。

 黙って、破れた服を拾い集め、奥にある仮眠スペースへ向かう。備品の研究着を衣服を探しながら、ユーフェミアも悲しくて仕方がなかった。どうして滅多に鳴らない非常ベルが、こんな時に限って誤作動したのだろう。

 夜も遅い。管理棟にいた誰かが、間違えてボタンを押してしまったのだろうか? だとすれば、何と言うタイミングの悪さか。

 折角ゼライドが自分に触れてくれたと言うのに、これでは彼を益々遠ざけてしまったも同じではないか。

 誰とも知らぬ粗忽者を心の底から罵倒しながら、ユーフェミアは身支度を整えた。シャツはゼライドによってボタンが飛んでしまっていたので、上から、予備の白衣を着こむ。これで一応表面上は、普段通りになった。

 ロッカー備え付けの小さな鏡を覗きこむと、今にも泣きそうな白い顔が映る。髪も乱れて酷い有様だ。

 しかし、普段なら嫌いな自分の派手めの顔が、悲しみに打ち萎れている様子は自分では珍しく、少し大人っぽくさえ見えて、ユーフェミアは少しの間じっと見つめてしまった。やがて無理に笑顔を作ると、備え付けの長椅子に身を横たえた。

 ゼライドは暫くそっとしておいた方がいい、それに今気がついたが自分もかなり疲れている。

 ——なんという運の悪さかしら。

 大変な一日だった。

 市庁舎でエリカと別れた後で狩人に襲われ、ゼライドが人を撃った(恐らく死んでしまったのだろう)。それをエリカの政敵に見られ、またしても姉に迷惑を掛ける事になった。

 極めつけに、苦心惨憺して二人きりの状況を作ってゼライドを精一杯誘惑したにもかかわらず、振られた。結局彼は本当の意味ではユーフェミアを抱かなかったのだ。

 ユーフェミアは強く瞼を閉じた。

 ——初めての誘惑だったのに。

 しかし、一つだけ嬉しいことがあった。

 ゼライドが初めて自分を女として意識してくれたのだ。人間である自分を。それは誘惑に負けただけかもしれないし、単なる好奇心だったかもしれない。それでも、二人の未来が平行線だけではないと言う事を示してくれてもいた。

 ——暫く、後ほんの暫く待てばいい。そうすればいつものように雨が降り、全ては洗い流してくれるわ。酷い一日だって必ず終わる。雨が降り、朝が来て、いつものように仕事が始まる。

 またそこから始めればいいのだ。

 ——機会はこれからだってある。私が諦めさえしなければ……。

 ユーフェミアはそこまで考えて眠りに落ちた。


「……っ!」

 ——畜生! とっとと鎮まれこの怪物!

 萎えそうにない熱を握り、野人は太い息をついた。

 ——だが、これでよかったのさ。俺がこんな醜いもんでユミを傷つけて、あいつが苦しむ姿なんぞ見たくもねぇ。そうだとも! これでいいのさ。これで……。

 一向に収まらない欲を揺すり上げて、ゼライドは喘いだ。

 ユーフェミアと会うまでは殆どした事のなかった行為だが、今は没頭せざるを得ない。それほど彼は、切羽詰まった自分の熱をもてあましていた。

 ああ、ユミ……ユーフェミア! 俺の、俺だけのつがいの女……!

「はぁうっ!」

 鋭い顎から汗が滴り落ちた。

 実験室で彼女と二人きりになってから、襲いかかりたくて、自分を押しこめたくて仕方がなかった。小動物達が見つめるこの部屋に入ってからは特にそうで、下半身が苦痛で、呻きたくなるのを堪えるのに必死だった。

 なのに――。

 彼女は自分を抱けと言う。

 野人の自分を、人間の女――それも市長の妹と言う、上流階級に生まれた女が欲してくれている。そしてそれが彼がつがいと認めた女だった。

 非常ベルが鳴らなければ、ゼライドは自分を押さえられずに、彼女を汚してしまったかもしれない。

 ユーフェミアの濡れた唇と潤んだ瞳は、確かに自分を求めていたのだから。

 ——ああっ、く……そっ! ユミ……ッ!

 またしても、激しくしぶく雄。

 ゼライドはその瞬間、空想のユーフェミアの胎内なかにいた。実際の彼女は彼の言葉に傷ついて、カーテンで仕切られた小部屋で息を顰めているのに。

 ——ごめん、ごめんな。俺なんかのつがいにされちまって本当にごめん。思い違いだったらいいんだが……

 ゼライドはその辺にあったロール紙を掴み、白濁まみれの陽根と掌を拭う。

 柔かい紙から染み出したもので手が濡れた。どうやら収まってきたようだ。

 ゼライドは額の汗を拭うと、まだ物欲しそうにしているそれを無視して、レザーのボトムに突っ込み、封をするようにベルトできつく抑えた。

 見るとあちこちに飛び散ってる。痕跡を残さぬようにペーパータオルで丁寧に拭いていく。

 ——畜生! これじゃ俺は内も外もただのケダモンじゃねぇか。こんなのを相手にしねぇで、ホントに良かったんだぜ、ユミ。お前の初めてが俺だなんで勿体なさすぎらぁ。

 しかし、本能はユーフェミアこそが自分のつがいだと、叫び続けている。

 この間は同僚の優男がユーフェミアにふざけかかっただけで、ふつふつと怒りが込み上げたのだ。もし彼女の肌に触れようものなら、自分はその男を殺してしまったかもしれなかった。

 それだけではない、このままこれからも、二人で一つ屋根の下で夜を過ごすのなら、後何日、この暴れまわる獣を抑えておけるだろうか?

 ぐっしょり濡れて重くなった紙を丸めて隅の屑かごに突っ込み、ゼライドは耳を澄ませた。」

 カーテンの向こうに静かな息遣いが聞こえる。

 ユーフェミアは眠っているようだった。暫く考えて、そっと近づいてみる。長椅子の上でユーフェミアが丸くなって眠っていた。薄い毛布がずり落ち掛けている。

「ユミ……」

 愛しい名前を呟いても、娘はぴくりとも動かない。寝入りばなで眠りが深いのだろう。今日は善良な女にとって、大変な一日だったのだから。

 そっと毛布を治してやる。甘い吐息に満たされた狭い空間に長居は無用だった。折角収まった怪物が再び頭をもたげるに違いないからだ。

 ——お前が大切だ。ユミ――手が出せねぇ程……な。

 ゼライドはそっと指を滑らかな頬に滑らすと、毛布を整え仮眠室を出た。

 正面にあるケージの中のネズミ達と目が合う。彼等はきょとんとした顔で物珍しそうに野人を眺めていた。

「どうすりゃいいのかな……」

 ——俺の女なのに。俺のもんにしちゃいけねぇ……。

 ネズミ達がひくひくと匂いを嗅いでいる。空気が湿りだしたようだ。雨が近いのだろう。

 ゼライドはネズミ達に顰め面をして見せると諦めて、床に腰を下ろした。

 夜が明けるまではここにいよう。そして、人間達が仕事を始める前に出ていくのだ。

 ゼライドはそう決めて、ユーフェミアの眠りを守るように壁に背中を預けた。


 くすくすくす。

 狭い部屋に男の忍び笑いが響いた。部屋中に置かれた様々な器具から漏れる低いノイズと、白や黄の計器の光がその空間を無機質に演出している。

 男は白衣を身に着け、この薄暗いのにどういう訳か濃いグラスをかけていた。

「監視モニターを明後日の方へ向けて、音声を切ったからそれで安心って訳かい? 甘いなぁ、お嬢ちゃん。君の立ち入りそうな場所には、(あらかじ)め、ちゃんと高感度のマイクが仕掛けてあるんだよ。もっとも映像がないのはとても残念だけど」

 男の指が再生ボタンを押す。

『すごい音がしてる……ここ』

『うん。ドキドキしてる』

『大丈夫なのか』

『大丈夫なの。ただ……その初めてだもんだから、ちょっと緊張しているだけ。女の子ならだれでもこうなるのよ』

『でも……』

『いいの。ね? 躊躇わないで? 人間の女だって結構丈夫にできているのよ』

『ああ、ユミ……俺は』

 くっくっくっ……。

 再び堪えきれないように忍び笑いが聞こえて来た。白衣を纏った肩もぶるぶると揺れている。

「やれやれ。まったく、胸糞が悪くなるような三文芝居じゃないか。これはさぞあの方もお喜びだろうよ……それにしてもいい所でお邪魔しちゃって悪いね」

 若い二人がの体と気持ちが最高潮に昂った瞬間、空間をこじ開けるような非常ベルの音が響いて、彼等の愛の営みはそこで中断されてしまったのだ。彼らが慌てふためく様が目に見えるようである。

「ごめんねぇ。後少しだったのにねぇ。だってさすがに、こんな美味しい場面を二人だけで楽しませるのはもったいなくてね。それに、あんたの貞操はあの方がきっと喜ばれるだろうから、もう少し取っておいて欲しかったんだよ。ま、ヴァージンじゃないにしても、ほとんど同じようなもんだろう? 見てれば分かるよ。まったく話かりやすい女だからねぇ、君は」

 彼の手は再び再生ボタンに触れる。若い二人の息づかいはマイクを通してさえ、その熱さが伝わるようだ。

「いいねぇ。若いよねぇ。まぁ、僕だってこれで結構若いんだけどね。それにしてもいいサンプルを残してくれたもんだ。想定外の収穫だよ。ありがとう、野人君。後で有難く採取させていただくからね」

 男はそう呟いて、引き出しから数本の沈殿管(スピッツ)を取り出した。

「本当にあの娘を前によく我慢できたもんだね。さすがにプロと言うところかな? 偉いよ。だが、依頼主に手を出したとなれば、今後の仕事にも関わるか。それにしたって憎からず思っている女が、同じ屋根の下に暮らしていながら手も出せないとなれば、普通の男だったら間違いなく欲求不満に陥る。増してや、彼は若い野人なのだから、その精力たるや……ふふふふ。今夜はその(たが)がやっと外れようとしたところに邪魔が入った。となれば……男なら」

 男は端末を引き出し、長い指先で記憶させているナンバーを指定した。

 レシーバーは高性能で、囁くような声でもちゃんと拾ってくれる。程なく透明な画面に男の影が映った。

「もしもし? 私です。今夜のテレビ討論会見ましたよ。面白かったです……ええ、偉く派手なカーチェイスでしたね。いいカメラワークだった。映画を見ているようでかっこよかったですよ。こんな犯罪を許していいのか! ……って視聴者が突っ込んでいましたね、いい演出だったなぁ。ええ……そうです……いえ、今夜はもうすっかり大人しくなっています。面白い展開になりましてね。ええ……痩せ我慢を強いられた猫の様です」

 男の声は楽しそうである。

「それは……勿論。だけど素敵なデータを得る事ができましたよ。音声のみで残念ですが、明日にでもそちらへ届けます……きっとあなたの御趣味に合う事でしょうよ。……はい、わかっていますよ、気をつけます。それからいい事を思いついたんですよ……ええ、とても。今後の野人(ゼライド)の動向を詳しく知らせてもらえませんか? 屋外では概ね監視の元に置かれている筈ですよね。はい、筋書きならもうできています。はい……はい……それではまた」

 切れた端末を押しやると、窓の外に眼を向ける。中庭を隔てて向かいの実験棟の殆どの窓は暗いままだった。しばらく見ている間にぽつぽつと窓ガラスに当たるものがある。

 大粒の雨だ。この世界ではいつも夜の一番暗い時に降り始める。それはこの世界の神聖な儀式。

「ああ、降りはじめたな。後少しで夜が明ける。そうしたら……」

 雨はどんどん激しくなった。


 ざんざんざん ざんざんざん


 一刻の間、世界は濡れる。ぬばたまの闇が明ける時、「今日」は何を連れてやって来るのだろうか?

 男はひっそりと笑っていた。




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