31.真夜中のラボラトリー 3
言葉が終わるか終わらないうちに。唇が何かにぶつかった。
いや、ぶつけられたのだ。
これが本当のキス。野人の口づけなのだ。
食べられてしまう、そうユーフェミアは思った。
——ああ、食べられてもいいわ。この美しい男の一部になれるのなら。
激しい口付けはユーフェミアから徐々に思考を奪ってゆく。彼の欲を感じてユーフェミアの鼓動が跳ね上がった。
派手な外見で、遊び慣れた女のように見られることも多いが、ユーフェミアの恋愛経験値は低い。
学生時代に一度だけ、つき合った男とキスした事はあるが、ちっとも気持ちが高まらなかった。
結局、ユーフェミアが冷めてその男とは別れた。
以来、淡白な女だと思っていたのに。男をこんなに身近に感じ、そして欲したのは初めてだった。
「ユミ……ああ、ユミ」
うわ言のように名を呼びながら、ゼライドは大きな掌でユーフェミアの体の縁をなぞり、あちこちに軽く歯を当ててゆく。
お互い床にへたり込んで抱きしめ合いながら、夢中で口づけを交わしている。
ユーフェミアは膝を立てたゼライドの足の間に挟みこまれて、身動きが取れない。全体重を彼に預け、それでもびくともしない強さが泣きたい程嬉しかった。
「む……」
ゼライドは酔っていた。
ユーフェミアの唇にも唾液にも、彼の正気をぶっ飛ばず成分が含まれているようだ。
頭の後ろで編まれた髷に指を突っ込む。少し指を曲げただけで、髪は解けて甘い香りを放ちながら流れ落ちた。ごくりと喉が鳴る。
「うう……もう十分だろ!」
叫ぶように言い捨て、ゼライドは体を離した。
「嫌よ! もっと進んで!」
ユーフェミアも必死で叫ぶ。ここで放り出されたらすごく惨めになるだろう。何より体の熱が暴走している。
「だめだ! 俺は野人だ!」
「野人が何よ! 人間の女が怖いの?」
その答えは、くるりと振り返った野人の光る眼差しだった。
彼は手を伸ばすと、ユーフェミアの着ている色気の欠片もない白衣の合わせに指をかけ、中に来ている服ごと引き裂いた。
布の破ける音と供にボタンが、飛び散る。幾つかは壁際まで跳んで、ケージの中のげっ歯類が驚いてカサコソと騒いだ。
現れた白い肌にゼライドの目は釘づけとなった。ゼライドは人間の女の肌などじっくり見たことがない。
見てくれに惹かれ、誘いかける女は多かったが、野人の彼にとって、人間の女など、風景に過ぎなかった。
抱くなど、考えるだけでも面倒だったのだ。
なのに今のこのあり様は。
「すげぇ……」
柔らかい曲線に頬を擦りつけながらゼライドは囁いた。
熱い吐息に肌を撫でられ、ユーフェミアがびくりと身じろぐ。泣きたくなるような羞恥と、触れて欲しいと言う焦燥がユーフェミアを震わせる。
「ゼル……あ!」
長い指が肌を這う。それは決して強くはなかったが、ユーフェミアには過ぎた感覚だった。
酷くまごついて大きく息を飲む。
ゼライドはどう思っているのだろう。自分の皮膚はふにゃふにゃしていて、彼の指先が沈んでしまっている。それがいいのかどうかわからないが、野人の女性の皮膚はもっと張り詰めて固いのに違いなかった。
「んんっ!」
いつの間にか床に髪がつくほどユーフェミアの背中がしなり、腰を支えてゼライドが圧し掛かっていた。
彼の銀色の髪が、殺菌灯に照らされて青く染まっているのが、ぞくぞくするほど美しい。
——ああ、食べられちゃうんだわ。この銀色の狼に、私は。
「……ユミ?」
自分を見上げる輝く瞳は、何故か大変幼く見えた。
パルミナの仮説が本当なら、このワイルドを絵に描いたような美丈夫の精神年齢は、ティーンエィジャーなのだ。
「ん?」
「すごい音がしてる……ここ」
そう言ってゼルが頬を寄せた場所は、ユーフェミアの心臓だ。
そこは早打ちのドラムのように肋骨の中で鳴り響いている。しかし、ユーフェミアにはどうしようもないのだ。
「うん。ドキドキしてる」
「大丈夫なのか」
唇が肌に貼り付いている為、声がくぐもっている。
ゼライドがこんな時でも自分を気遣ってくれていると知って、ユーフェミアの心は決まった。彼は気づいていないだろうが、元々二人きりになりたくて、この部屋に誘導したのだから、今更後戻りなど考えられない。
例え、一時の欲の対象だっていい。
私は最初から彼が大好きだったんだもの、後悔なんてない。私は、ゼルが最初に抱く人間の女になるのよ。
ゼライドがいくら優しくても、彼は人間を、愛の対象とはみなさないだろう。
彼の過去には辛い事があったらしいとパルミナも言っていた。おそらく人間に酷い目にあわされたのだろうと。
野人の事を何も知らない人間の自分は、彼に愛されなくても仕方がない。
ただ、一緒にいる間くらい、その全てを受け止めたい。ユーフェミアはそう強く願った。
「大丈夫なの。ただ……ちょっと緊張しているだけ。気にしないで。女の子なら誰でもこうなるのよ」
「でも……」
ついさっき荒々しく衣服を引き裂いた激しさと相反する、臆病さ。ユーフェミアは、まるで母になったような気分でゼライドの頭を抱きしめた。
「いいの。ね? 躊躇わないで? 人間の女だって結構丈夫にできているのよ」
「……」
答えず、ゼライドは愛撫を再開した。
隈なく口づけの雨を降らせながら、今度は慎重にユーフェミアの服を剥いでゆく。彼はユーフェミアを抱き上げ、作業台の上に坐らせた。それから自分のジャケットを脱いで机上に敷くと、その上にゆっくりとユーフェミアを押し倒した。
「ユミ……俺は」
「後悔なんてしない。きて」
この後に及んで躊躇いを見せる優しい男に、ユーフェミアは腕を伸ばしてその銀色の頭を抱きしめる。
ゼライドは床にひざまづいた。
それは自分のつがいに対して野人の男が示す、服従と支配の証だった。
カサコソカサコソ
コリコリコリコリ
部屋に満ちるのは、げっ歯類のたてる微かな物音。そして、二人が漏らす荒い吐息。どちらも大切な生命の営みだ。
殺菌灯が二人の皮膚を青白く照らし出している。
──その時!
非常ベルの非情な音が青い部屋を震わせたのだった。




