30.真夜中のラボラトリー 2
「ユミ」
ゼライドが指示されたラボに入って来た時、ユーフェミアはこちらに背を向け、実験台と言うのだろうか――色々な器具が置いてある広い机に向き合い、熱心に作業に取り組んでいた。
皮膚にぴったり張りつく手袋をした指先で、小さな生き物を摘まみ上げては金属製の皿に乗せ、計器を覗きこんでデータを打ち込んでいく。他の研究員は誰もいない。
研究所は眠らない施設だから、どこかに人は残っているのだろうが、さすがに深夜ともなると人は少なくなる。だからこそ、ゼライドも人目につかないように入って来れたのだが。
「あ、ゼル。無事入って来れたのね」
ユーフェミアはちょこまか動く妙な生き物を慎重にケージに戻している。
「ああ、ところで何してんだ」
「スクナネズミの体重を量ってるのよ。最近かなり数が増えちゃったから大変。あと少しで終わりなの……あら?」
振り返ったユーフェミアはちょっと笑った。ゼライドが窮屈そうに白衣を纏っていたからである。おまけに付属の白帽まで被って見事な銀髪を隠している。
「なぁに? それ」
「いや、いくら人気がねぇからと言って監視モニターぐらいはあるんだろうし、俺のナリじゃあ不審に思われるだろうから、その辺にあったものを拝借したんだ。遠目にゃわかりづれぇだろうと思って……」
ユーフェミアに指摘されて、ゼライドはもごもごと言い訳をしながら白衣を脱いでいる。うっすらと耳たぶが染まっている。
その姿が何だか可笑しくてユーフェミアは小さく笑った。ゼライドの精神年齢がもしもパルミラの指摘通り、ティーンエイジャー程度なのだとしたら、その様子はとても似つかわしい。
「折角似あっていたのに……」
野性的な美青年が禁欲的な白衣を着ているのも、それはそれでサマになっている。あのソニアならば、何と言って騒ぎだすか、とユーフェミアは思った。
「白衣なんか似合う訳ねぇじゃねぇか。俺は教養も何もねぇ野人だぜ」
むっつりとゼライドは言い返す。
「教養なんて関係ないわよ……教養なんて」
そう呟いて、ユーフェミアはまた背中を向けて仕事に戻ってしまった。普段元気で前向きな彼女だが、今夜はなぜか頼りなげである。ゼライドは思わず一歩、小さな背中に近づいた。
「……今日はすまねぇ事になったな。どこか痛めてねぇか?」
「大丈夫よ。どこも痛くない。私より車はどうなったの?」
ユーフェミアは振り返って笑って見せた。
「明日の朝までは動けねぇ。まったくあの修理屋の野郎!」
荒野の外れで佇むゼライドの端末に、トレーラーに籠った修理屋から連絡が入ったのは、日没後すぐの事だった。
優秀な腕前のお陰で、バイクの集団からあれほどの被害を受けたにもかかわらず、車の殆どの部分は修繕されたのだが、センサーの基盤がどうも持ってきた型と違うようなのだ。
死角を持ったまま、ユーフェミアを伴って荒野を疾走する訳にもいかない。無言で視線の圧力を掛けるゼライドに、修理屋はひたすら謝罪しながら一旦街に戻ると言った。そして凶暴な獣が潜む深更に、荒野に出るのは危険だから、部品を持って戻るのは明日の朝と言う事になった。
ゼライドは仕方なく、車にその辺の灌木を乗せて岩場に隠し、今夜はその中で夜を明かすつもりでいたところにユーフェミアから連絡が入ったと言う訳だ。
画面の向こうのユーフェミアはかなり元気がない様子だったが、ゼライドの事情を聞くと却ってほっとした様子で、今夜はこの施設に泊まる事にするから、ゼライドも指定するラボに来てほしいと頼んだのだった。
エリカに貰った暗証番号でセキュリティは無事に通過できるが、ゼライドの外見は目立つ。最も人が少なくなる時刻を見計らって、ゼライドはユーフェミアに教えられた人の往来が少ない経路を通り、個人認証を次々にクリアして彼女の待つ研究室へと向かった(白衣はその途中で拝借した)。
広大な敷地に並び立つ、清潔そうな白い建物は同じように見えて複雑な構造をしている。危険な生物や病原体を扱う特殊なセクションはさすがに離れて建っているが、ユーフェミアのいる一般セクションを探し出すのは、夜目の利くゼライドにとっては容易だった。
彼女がいるのは比較的小さな平屋の棟の端の部屋。これがユーフェミアのプロジェクトチームに与えられた専用の実験室兼、飼育室である。
「あの修理屋はお払い箱にしてやる」
入口近くに突っ立ったままゼライドは文句を言った。
「でも長い付き合いなんでしょ?」
「まぁかれこれ二十年以上になるか。でも、親父の方が腕が良かったかもしれん」
「……に、二十年」
どう見たって二十代にしか見えないゼライドの言葉に、ユーフェミアは密かに驚きを感じて言葉を失った。
それは、人間よりゆっくり歳を取る野人ならではの感慨だったからだ。だが、ゼライドはユーフェミアの沈黙を違う意味に取ったようだ。
「不安そうだな……俺が原因か?」
「ううん、違う。ゼルは関係ない。それに不安と言うよりは、メゲてる……って感じかな? でも、今日はあんな事があって帰りづらいなって思ってたから……我儘だとは思うんだけど、ちょうど良かった……姉さんには心配かけて申し訳なかったけど」
ユーフェミアは最後のネズミを簡易用のケージに戻しながら言った。この後ケージはちゃんとした飼育用のケージに戻さなくてはいかない。だが、ユーフェミアはゼライドに背を向けたまま、なかなか振り返ろうとはしなかった。
「もしかして市長に何か言われたのか?」
「ううん……。さっき連絡を取ったけど、姉さんはひたすら私を心配していた。怪我はないかとか、気持ちをしっかりとか……だって、今回の事件の標的は多分私なんだから……」
さすが能天気な彼女もその程度は察しがついていたと知って、ゼライドは項垂れるユーフェミアの細い項を見つめた。髪は結い上げたままだが、伊達眼鏡は取っている。いつもは腹立たしいくらい無防備なのだが、こんな風にしょげられると、却ってどうしていいのかわからない。
「しょげたって何にもいい事はねぇぞ。元気出せよ」
「うん、わかってる。でも、さっきニュースを見たの。姉さんとミスター・インガルスとハイドンの討論番組。ほら、今夜の生番組だってあの人たちも言っていたでしょ? ゼルは見た?」
「見てない」
ゼライドにテレビを見る趣味はない。
「姉さん、二人からすっごく攻撃されてた。特にハイドンの方が厳しくて。任期も終わりかけているのに、公約としていた治安回復の方面では、犯罪も麻薬も未だになくなってないじゃないかって。それをあのモリナーって人がおもしろおかしく司会して。姉さんも頑張って抗弁してた。でも、犯罪件数がこの頃になって急激に増えているのは事実だから。オーディエンスからも避難する人がいた」
それはかなり厳しい評価だった。
エリカ・サイオンジはゴシック・シティの歴史の中で、初めて犯罪や麻薬撲滅に正面から立ち向かった市長だ。
その政策は地道ではあるが、つい最近までは確実に成果を上げつつあったのだ。十年前は、半年に一度くらいの頻度で起きていた大型の連射型銃器を使った犯罪はエリカの任期中には一件も起きていないし、殺傷能力の高い銃器の殆どは許可制になった。
無論、法の網の目をかい潜る輩は絶えないが、犯罪組織自体もその数を減らしつつあったのだ。<ナイツ>に対しては、警察による取り締まりだけでなく、この研究所に多大な予算をつぎ込み、原料となる夜光花の品種改良に取り組んだりと、様々な方面からその禍を撲滅しようと飽くなき努力を積み重ねている。
但し、ここ最近に限っては二人の政敵たちの攻撃対象になったように、規模は小さいながらも、凶悪な犯罪がぽつぽつと染みが広がるように増えてきているのは事実だった。その裏には勿論<ナイツ>が絡んでいるものも多い。
討論番組でハイドンとインガルスは、その事実を数値と供にエリカに突き付けていたのだ。公開討論は、完全試合ではなかったものの、エリカの判定負けで終わったようなものだった。
「……だから、なんとなく街に帰りづらかったのか」
「うん。……なんだか最近犯罪が起き始めたのって、もしかしたら私が最初に襲われてからかもって思えてきたりして……私があんな軽率な事をしでかしてしまったから……」
「……」
それはユーフェミアがゼライドと出会うきっかけになった、ひと月前の事件である。
確かにその事をきっかけに、何かが密かに動き始めている事をゼライドは今では確信に近い気持ちで考えている。だが、彼は自分の直感をユーフェミアに伝える事を是とはしなかった。
「あんまり考え過ぎんのはよくねぇ。判断を鈍らせちまうからな。それに間違っちゃいけねぇぞ。あんたは被害者なんだ。あんな事件がなくったって、犯罪を起こす奴は起こすし、麻薬をやる奴はやる」
「……でも」
「もうわかっているだろうが、ユミを狙っている奴は確かにいる。そして、そいつらは俺を憎んでいる奴とも被っている。だから俺がそいつらを蹴散らしたら、ユミと俺、二人の敵が一気に片づく……つまり、合理的って奴だ」
「本当に……そう思う? 思える?」
振り上げた白い顔。実験室の明るすぎる室内光を受けて大きな瞳が揺らいだ。
「思う。俺はユミを守る。守りきってみせる」
その後に別れが待っていようとも。
唇を強く引き結んでゼライドは断言した。
「……っ!」
その言葉を額面通りに受け止めたユーフェミアの顔がくしゃりと歪む。
「お! ……おい」
たまらなくなったユーフェミアがゼライドの胸に飛び込み、彼を非常に慌てさせた。野人の彼をしても、ユーフェミアの言動は読めないのである。
「ゼル……ゼル、ごめんね? 私のことなんかに巻き込んじゃって……ゼルだけならあんな奴ら、どうにでもできるのに、私がお荷物になるから……」
「……お荷物じゃねぇよ」
野人の男なら、番いを守る為に命をかけるのは当然だ。だからこれは最早、自分の問題なのだ。しかし、ゼライドは自分に縋る女を抱きしめようと、持ち上がりかける腕を必死で押さえた。
「でも、実際私は何の役にも立たなくて……さっきだって車のシートで縮こまって震えているだけで……」
「それでいいんだって。シロウトに迂闊に手出しされる方が、気が散っていけねぇや。……そら、そのネズミさ、どっかに片すんだろ?」
ゼライドはしがみついているユーフェミアの肩を掴んで優しく自分から離すと、彼の眼には虫のように見える、小さなネズミがうごめいている箱を見て顔をしかめた。
「そのネズミがどうかした?」
「気味が悪ぃ」
ゼライドは嫌そうに、ちょろちょろ動き回るげっ歯類から目を背けている。
「これがスクナネズミって奴か? 随分小っせぇんだな。小せえ癖になんだか不気味だ……お?」
その時、実験室の電源が落ち、非常灯だけになった。
「なんだ!」
「停電じゃないわよ。自動でこうなるの」
節電の為、部屋ごとにシステムを解除していない場合は、一定の時間が来ると照明が落ちる。グラスをかけていないゼライドの瞳が一気に銀色に輝いた。
見慣れてきたとはいえ、矢張り美しい。思わず見つめてしまいそうになる。ユーフェミアは、ゼライドが背を向けたケージに視線を戻した。
「ゼルはネズミが嫌いなの?」
「ネズミと言うか……檻の中で小さいもんがうじゃうじゃしているのが何だか……」
どうやら冗談ではないらしい。確かにそう言われてみれば、仲間の背によじ登っては落ちたり、ひくひくと鼻をうごめかせたりしているネズミを見ると、人によっては気持ちが悪いと言うかもしれない。
しかし、ゼライドのような立派すぎる男が、まるでクモを見た少女のように身を竦めているのは、めったに見られぬ光景で、ユーフェミアは少し驚いてしまった。これはこれでなかなか楽しい情景である。
「スクナネズミはげっ歯類の中でも一番小さい種なの。でもこれで、一日に自分の体重の三倍くらいの夜光花の種を食べるのよ。おまけに水も飲まないし。荒れ地に向いた生物なの」
自慢そうに説明するユーフェミアを、疑わしそうにゼライドは横目で見ている。
「こんなので<ナイツ>を一掃しようってか?」
「そうなの。まだ、五十匹をやっと超えたくらいだけど、これからも交配を進めて数を増やして……ほらネズミ算って言うじゃない? 数千匹単位に増えたら、実用化に向けたプロジェクトが発動できるわ。たった三人だけどチームも発足したし。人間的にはどうかと思うけど、ソニアもロナウドも腕はいいの。特にロナウドは遺伝子の分野では賞を貰った論文を書いているのよ。態度はあんなだけどね」
「俺はあいつとは生理的にあわねぇ」
ゼライドはユーフェミアに馴れ馴れしかった男を思い起こし、すっきりした鼻梁に皺を寄せた。
「私もだけどね」
「でもそれじゃ、ナイツはなくなるかもしれんが、今度はネズミが増えて困るって事にはならねぇのか?」
ゼライドは無数の小さなネズミが自分が齧る様子を想像して、嫌な顔をして言った。
大きな敵や強い敵なら立ち向かう事に慣れているが、掌で数匹も握り潰せるくらいの生き物に一斉に集られたら非常にやりにくい。元は夜行性のスクナネズミは今、非常に活発に動き回っている。
「それは大丈夫……野に放つのは雄だけにするとか、遺伝子操作をして不妊にするとか、ネズミの方は大した害にならない……と思うんだ」
「そうなのか、ユミはすげぇな。やっぱり偉いんだ」
「偉くなんかないわよ。馬鹿ばっかりやってるってゼルだって思っているんでしょ?」
「そりゃ、時に無鉄砲すぎるとは思うけど……おいそれ、どこまで運ぶんだ?」
ユーフェミアは簡易ケージをカートに乗せている。
「その扉の奥の大きな飼育ケージに戻すの……待ってね、キーを開けるわ。ここのキーは生体認証の他に暗証番号が要るの。研究所が管理している生物の中には、危険なのや希少な動物もいるから、流出しないように厳重にしている訳ね」
「……だったら、この前の蛇のような獣はどうやって持ち出された?」
ゼライドは考え込みながら言った。
「……その問題もあるわね……そっちは姉さんの信頼できるルートから探っているって言ってたけど……」
ユーフェミアは、実験室の奥の飼育室に滑り込んだ。室内は殺菌用のブルーのライトのお陰で、真っ暗とは言わないまでもかなり暗い。夜行性の動物が多いのだろう。
ここはげっ歯類類が中心の飼育室で、ずらりと壁に埋め込まれた観察用のケージには様々なウサギやネズミの類が飼われている。換気がいいのだろう。生きものの気配はしても特有の臭気は漂ってこない。
室内は広くて清潔だった。奥には所員の為の休憩設備のようなものまであるようだ。時には二十四時間体制で観察に当たらなくてはいけないからだろう。ユーフェミアは飼育用のケージに設けられた小さな窓と、ゼライドの持つ運搬用のケージをチューブで連結させて、小さなネズミを落としこんだ。そこにはまだまだ沢山のスクナネズミのケージがあった。二十匹ずつに分けられているらしい。
「ゼルったら、そんなに怖い?」
なんとなく及び腰の野人にユーフェミアがおかしそうに尋ねた。
「ああ……なんだかこんなのを見てると、体中が痒くなるような気分になる」
「あは。ゼルにも苦手なものがあったんだねぇ。その方がいいわ。少し近くなったみたいで。でも、ケージにはブラインドを下ろしておく事になってるから安心して。……あ、よかったらこっちで休んでね。仮眠設備があるの。今日は色々あったし……」
ユーフェミアは部屋の隅を示した。遮光カーテンが開けられているが、そこに簡素な寝台が置かれている。泊まり込みの実験や、観察をする時に使われるのだろう。が、ゼライドはちらりと見ただけでユーフェミアに視線を戻した。
「お前今日はここで泊るつもりか?」
「うん……届けは出してあるし。今夜はここで過ごそうと思う。ちゃんとした宿泊施設は外にあるけど、人の出入りが多いし。ここは仮眠くらいしかできないけど、朝まで誰も来ないしね。大したものはないけど食べ物もあるわよ。ほら」
開けられた扉にはレトルト食品がぎっしり詰まっている。湯は常に沸いているし、数種類の飲み物もあった。
「至れり尽くせりだな。俺は喰わなくても大丈夫だ。ユミが空腹なら食べるがいい」
「私も今は要らない……ねぇ、立っていられると落ちつかないから……こっち来て?」
ユーフェミアは慣れた調子で中央の大きな台の上に座っている。台上は小さな実験用具が置かれていて、あまり片付いているとは言えなかった。
「あ……ああ」
ゼライドは、なるべくネズミを意識しないようにして、ユーフェミアの傍まで歩いて来た。しかし、隣には腰を下ろさずに、少し離れた床の上に直に胡坐をかいた。
「床に座るの?」
「ああ、俺にはその方がいい」
ユーフェミアは自分の隣が嫌なのだろうかと悲しくなったが、ゼライドにはゼライドの屈託があった。
少し自信をなくしているユーフェミアがさっきから彼の庇護欲、そしてもっと強い情欲を掻きたてている。そんな彼女の真横に座ってしまったら、自分が何をしでかすか自信がないのだ。
「モニターはどこだ? 俺が映ると拙いんじゃないか?」
「大丈夫。あそこにあるのがそうなんだけど、実は昼間にちょっと細工してケージだけが映るように角度を変えたの。ここは飼育室なんだから、誰も怪しまない。音声は切ってあるし」
「……それはなんのために?」
「あなたと過ごすために」
ユーフェミアは早口で言った。
「毎日一緒にいるじゃねぇか」
「でも、ゼルは必要がない限り私に近寄ってこないじゃない。緊急時は別として」
「当たり前だ。俺は紳士じゃねぇけど、淑女にみだりに接触したりはしないぜ」
「つまらないわ」
「おいおい、立場考えろよ。市長の妹さん!」
唇を尖らす娘にゼライドはわざと陽気に言った。
「考えてるわよ。だから憂鬱なんじゃない。こんな馬鹿な妹が姉さんの足を引っ張っちゃって」
ユーフェミアは少し微妙になった雰囲気を誤魔化す為に、せかせかと台の上を片付けている。
「俺は外に出る」
「あっそ! じゃあね!」
ユーフェミアはさばさばと振り返った。
「私なんかに付き合わなくてもいいよ。ここならたぶん安全だし、明日ゲートに迎えに来てくれたら大丈夫!」
——ああ、その眼だ。その眼がいけねぇ。強気を装っちゃいるが、内心不安でいっぱいなんだ。心がぶるぶる震えていやがる。当然だ。たった数時間前、酷い目にあって、人殺しを見ちまったんだからな。
ゼライドはぐっと拳を握りこむ。
「畜生! 分かったよ! たぶん安全ってのは、ちっとも安全じゃないってのとそんなに変わらねぇ。この施設に敵がいるかもしれないのに。お前がどうしても泊まるってんなら仕方ねぇ。俺もここで過ごす! 仕事だからな!」
ゼライドは諦めてそっぽを向いた。
「ほんとう?」
素直にユーフェミアは喜んだ。ゼライドは仕事といったが、それでも一晩顔を付き合わせて過ごせる。成り行き上とはいえ、ゼライドがよく自分と一つの部屋で夜を過ごす事になってくれたものだ。よくて隣の部屋で寝ずの番をするとか言い出すと思っていたのに。
基本的に彼は人間である自分と深く関わろうとはしないのだ。
「嬉しい。ありがとうゼライド。二人きりだけど我慢してね」
いつも一つ屋根の下で寝起きしていても、ゼライドは無断でユーフェミアの部屋に入ってくる事はない。優美な見かけとは裏腹なセキュリティSSクラスの屋敷にいるかぎり、直接顔を突き合わせて守られる必要はないのだ。ユーフェミアの不注意で窓を開けっ放しにして獣に侵入されたあの事件を覗いては。
「それにしても、この棟には誰もいねぇんだな。少し不用心すぎやしないか?」
我慢するなとは無理な話だと考えながらゼライドは言った。
「まぁね。無害な動物を扱うところだから他のセクションに比べると、人は少ないかな。食糧開発のセクションや、細菌を扱うセクションはすごいんだけど。それにしても、いつもはもう少し人がいるんだけど、こんな日もあるのね。私は今まで殆ど宿直しないから知らなかったけど」
「これからは多くなるのか?」
「いつまでも姉の御威光で特別扱いは嫌なの。それに私は元々は植物専門なんだけど、夜光花の研究を哺乳動物を通して行っているちょっと変わった位置にいるから、これから双方の掛け橋になればいいと思う。言わばパイオニアね」
ユーフェミアは少し誇らしげに説明した。ゼライドは床に座ったまま大人しく聞いている。薄闇の中で青銀色に輝く瞳。それは殺菌灯の光より余程澄んでいて、次第にユーフェミアは落ちつかない気分になった。
「あの……あのね、話は変わるんだけどもね、ゼル。前から聞きたかったんだけど……」
「うん?」
「あの……パルさんは……ゼルにとってどんな人なの?」
「パル?」
何でこんな所でパルミラの話が出るのか彼には理解できなかったが、ユーフェミアの体から発する甘い香りから意識を他に飛ばせるなら何でもよかった。さっきから視線すら合わせられないのだ。
「どんなって……長い付き合いのエージェントで……まぁ、他のエージェントは俺は知らないから、まぁ重要な仕事相手だ」
「重要……層、とっても信頼してるのね」層→そう?
「信頼ってな人間の心理なんだろう? 俺にはよくわからねぇが、こいつになら任せられるっていうのが信頼だって言うんなら、それだ」
「どんな風に知りあったの?」
「さぁ……よく覚えちゃいないが、俺がまだ子どもだった頃、どっかの野人を介して知り合ったんだと思う。パルにとっちゃ俺は稼げる野人の一人だからな」
「……」
——それは違うと思う。
とは、ユーフェミアは口には出さなかった。パルミラは間違いなく、ゼライドに特別な感情を抱いている。
「好きじゃないの?」
「え?」
唐突な質問にゼライドは面喰って、思わず顔を上げた。そこには思いがけず真剣な顔つきの白い顔がある。青い殺菌灯の光に横顔を照らされて、娘はとても不安そうに見えた。
「……だって、ゼルはあんまり人間と仲良くならないでしょ? それが長い付き合いだって事は、好きだからって事では……」
「パルミラは、重要な仕事仲間だ。……それだけだ」
「じゃあ、私の事は?」
「え?」
「私の事も仕事だから守るの?」
「……そんな事今聞いてどうする? さぁ、俺はここにいるから、お前はあそこで少し眠れ」
ゼライドは仮眠スペースを顎で指した。ユーフェミアの方を見ないように必死だった。
「私が嫌い?」
「嫌いとかじゃない」
「好き?」
ユーフェミアは食い下がった。
「おい、いい加減にしろ!」
どんどん尻の座りが悪くくなって来たゼライドはわざと声をあげた。
怒鳴って誤魔化そうとしたのだが、ユーフェミアには引く気配がない。ゼライドが盗み見た彼女の翠の瞳は、暗闇の中で何かを秘めて大きく見開かれていた。
——だめだ……ユミ、それ以上俺を煽るんじゃない……頼むから。
しかし、言葉にならない野人の願いは聞き届けられなかった。ユーフェミアは台の上から滑り降り、ゼライドの前に腰を落としたのだ。
怯む野人を目眩が襲う。
「しないわ。だって私はゼルの事が好きなんだもの。もし……もしもね、ゼルがちょっとだけでも私を好きなら……キスをして?」