29.真夜中のラボラトリー 1
夏の終わりの荒野は、乾いた岩山と色褪せかけたブッシュの連なり。
バイオテクノオジー研究所へと続くフリーウエィの引き込み線から、大型トレーラーが姿を見せた。
コンテナの横腹にはノジマ・モータースと、手書きのへたくそな文字でデカデカと書かれている。
これがゴッシク・シティのアウトサークル名物、ノジマの移動工房である。
何をおいてでもすぐに来い、と破格の値段でゼライドに呼びつけられたのだ。
「いよう、野人の旦那、呼ばれて飛び出てやって来たぜ!」
運転席から降りて来た若い修理工は、汚れた帽子をとって挨拶をした。きびきびした動作の小柄な青年だ。
あれからユーフェミアを研究所に無事送り届けた後、ゼライドは、一旦荒野に引き返して馴染みの修理屋に連絡をした。壊れた車の補修を行うためだ。
本当なら一旦街に戻って、直接アウトサ―クルにある工房に預ける方がいいのだが、事態の緊急性が高く、できなかったのだ。
ユーフェミアが帰るとき、壊れた車では守りきれない。
「うひゃあ! こりゃまた、派手にやっちゃったねぇ。聞いちゃあいたが、最高級の耐ショック仕様のフロントグラスがクモの巣だ……どんなけ至近距離で撃たれたんだよ。いい車だってのに」
「うるせぇ。ごちゃごちゃ言ってねぇで、さっさと直しやがれ!」
不機嫌な野人は、普通の人間なら恐ろしい筈だが、修理工はそれほど恐れた様子もなく首を竦めた。
「へいへいへいっと。あ~、ボディはちょっと凹んだ程度。お、キィのセンサーに被弾してるからこれはちょっと厄介。シャーシも内燃機関もほぼ無傷。ウン、さすが親父の仕事だわ。これなら五時間もありゃ修理できる。けど、帰る頃には夜になっちまうな。あ~あ、夜は危険なんだよなぁ。出張修理は高くつくぜ。旦那」
「言い値の倍を払ってやる。三時間で直してとっとと帰れ」
「さぁっすが。旦那、太っ腹ぁ~」
値段の事を持ち出された途端、きりりとした顔つきになった修理屋は、早速ゼライドの車をコンテナ内の移動工房に運び込むと、助手とともにせっせと働き始めた。
この店とは、彼の父親の代からの付き合いである。
ゼライドは、もうそちらを見ようともしないで、景気良く響き始めた機械音に背を向けた。
この場所はちょうど研究所の真裏にあたり、主に小規模な実験棟が立ち並んでいる。ユーフェミアの今日の仕事場もこの内の一つだった。無論、今は城壁のように高い防護壁に囲まれて、ここからでは見えない。
——余り遅くなるようなら、夜になってから忍び込んでみるか……。
今、ゼライドは彼女の傍を離れる訳にはいかない。と言うより最早、離れられなかった。
ゼライドは憎々しげに白く聳える壁を睨みつけた。施設の構造を把握していないと、何かあった時に対処できない事があるから、いつかは試してみないといけないと思っていたところだ。
ユーフェミアはあんな事があっても、気丈にも仕事を続ける気満々でラボに入って行った。今日は遅くなると言い残して。
——あんな事があったんだから、少しは大人しくしてりゃいいのに。あの女は!
本当なら視界からユーフェミアを外したくはなかった。しかし、野人であるゼライドは、研究所の中に入ることはできない。
万が一に備えて、エリカからゲートのセキュリティ無効にする極秘の暗証番号を教えられてはいる。だが、それで人目に立っては元も子もないから、今は使えない。
焦燥に駆られてはいたが、今は様子見だった。
何かあればユーフェミアから連絡が入るだろうし、所在を確認するGPSもモル単位以下で機能する。
研究所に出入りする所員や業者は、身元の確かなものたちだけだから、内部にいれば安全なのだと、ゼライドは信じたかった。
なのに――。
——畜生! 何でこんなにイラつくんだ!
ゼライドは重い靴で、そこらの岩石を蹴りとばした。
ゲートをフリーパスとする二十桁の暗証番号は完全に覚えている。
しかもそれだけではない。彼は建物内部に深く入り込める個別のIDカードを渡されているのだ。
ユーフェミアの職場であるバイオテクノロジー研究所をはじめ、公的機関の関係者達は通常なら、虹彩や静脈等の生体認証で各ゲートを通過する。
その他にも研究所所長や、もっと上層部から特別に許可された人物ならば、必要な回数や期間だけ使用できる通行証が発行される場合がある。
ゼライドの渡されたカードの有効期限は、彼がユーフェミアの護衛についている間だけだが、市長から手渡された正真正銘本物のIDカードである。
無論訪れた施設やゲートを通過した時間帯、回数などは完全に記録される。全ての責任はエリカに帰するのだ。
自分に任されたプロジェクトを何とか世に出すまでに育てたい、その為には研究所に泊り込む事も厭わないと言う、妹の意向を尊重し、且つ、できるだけ近い場所で守る為にエリカが取った措置であった。
——先見の明があるって言うのか、これでかなり自由に動ける。でないと、ユミを守り切れないかもしれねぇ。
あのバイクの一団は、彼らが街を離れた途端襲ってきたから、ユーフェミアとゼライドの行動は完全に把握されていたことになる。
これはつまり、今回の敵がゼライドだけを標的としたものではなく、ユーフェミアをも狙ってきた言う事だ。寧ろユーフェミアを通して姉のエリカへの攻撃と見た方が、納得できる。
——実の妹が犯罪の犠牲になりでもすれば、治安の維持を政策の柱にしている市長の評価はガタ落ちだからな。
それが彼等の狙いなのだ。
——あのバイクの集団は、間違いなくゾクを装ったゴクソツだった。
単にゾクならば、いくら集団でやって来ても大したことはない。
彼等は金になるなら、誰からでも目的が何であれ請け負う、大都会にありがちな下司どもだからだ。
しかし、ゴクソツとなれば話が違う。
彼等は、普段は概して一般市民としてまともに暮らし、野人に関してのみ、その凶暴性を露わにする。原則として一般人は巻き添えにしない。
一般のゾクと似ているところは、単独行動をする者はいないと言うくらいだ。理由は敵とみなす野人の力が大きすぎるからである。
彼等が野人を狩る場合、数人から、多い時には十数人の集団で行動する。その連携の全容はおそらく警察でも把握してはいないだろう。
ゴシック・シティだけで幾つのグループがあるかも不明だし、中には上流階級の者もいると噂されていた。
——だが、おそらくそれだけでもねぇ。野人の俺だけじゃなくて市長なんて、あいつらにしちゃ狙いがでかすぎる。おそらくゴクソツの連中も、敵の末端の一つにすぎねぇ。
本当の敵は、ゴシック・シティに犯罪を誘発させ、街に混乱を持ちこんで市政を揺るがそうとしている大きな組織なのだ。
もうただ単に野人を忌み嫌い、刈り立てるテロ組織、ゴクソツの守備範囲を超えている。彼等はゾクや、ゴクソツの上に君臨しているのだ。
ゼライドはぎりりと奥歯を噛みしめた。
彼等は市の組織の奥深くにまで、入り込んでいるに違いなかった。
——市長の周辺にスパイがいるんだ。それもかなり上層部に。でなければ、あんなに都合のいいタイミングで敵がやって来るわけがねぇ。
今日の出来事で、ゼライドの危機意識は更に高まっていた。
ゴシック・シティ市庁舎に勤める職員は、調理師や清掃員まで含めると二千人は下らないだろう。しかし、市長の直ぐ傍で仕事をする人間となるとかなり数が限られてくる。
ましてやユーフェミアの定時報告には、プライベートな連絡ルートが使われている。
となると、数はもっと絞られる。市長の分刻みのスケジュールの詳細は側近と、その周辺の僅かな人間しか知らない筈だから。
——まぁ、こんな事くらいは、いくらユミだってもう、推測しているだろう。今頃は市長に報告しているかもしんねぇし。
さっきの連中の言ってた事が本当なら、今日の襲撃は映像でエリカの元に届いている。エリカならそのデータを見るだけで、自分に近い所に裏切り者がいると察しているに違いない。おそらく既に探り初めている事だろう。しかし、直ぐに尻尾を捕まえられるかどうか。
——これからも俺達は常に攻撃を受けるんだろう。ゴクソツにも、ゾクにも、もっと別の組織にも。上等だ。わざわざ探索する手間が省けるってもんだ。その内、何か手掛かりがつかめる可能性だってあるかもしれねぇ。だが……ユミ、ユーフェミアは。
自分の事はいい。しかし、ゼライドはユーフェミアだけは危険に晒したくはなかった。
——あいつは、そこいらの獣か、俺みたいな野人なんかとおんなじに狩られていい女じゃねぇ……小さくてきれいな、育ちのいい上等の女なんだ。なんとか……なんとかしてやらねぇと。
ゼライドは、そろそろ黄昏れる地平線の向こうで輝く街の明かりを睨みつけた。
考え込んでいる間に時間が過ぎていたらしく、荒野にゆっくりと闇の帳が下りてくる。野人の瞳は仄かに輝きを帯び始めていた。
——そうだ。あいつはもっと安全で快適な場所で、政府の優秀な組織に守られているべき女だ。今回の依頼の期間は取りあえず三カ月。後、二カ月だ。その位ならなんとか守り通して見せる。
だが、それ以降は――。
ゼライドはたくましい肩を震わせた。
——ユミを元の世界に戻してやらなくちゃならねぇ。
そう考えた時、野人の胸がぎしりと軋んだ。それはゼライドとの決別を意味していたからだ。それも恒久的な。
——これって俺、生涯独身決定フラグか?
砂を噛むような気持でゼライドは苦く笑った。
野人には結婚と言う、人間の制度は当てはまらないから、この感慨は無駄である。しかし、野人の本能である、つがいと言う概念は、紙きれで承認される婚姻関係などよりも余程深く、重いのだ。
つがいと決めた異性と結ばれなかった野人は、生涯伴侶を定めず、子孫を残さない場合も多い。
「だって、仕方がねぇじゃないか」
ぽつりと漏らした声を荒野の夜風が攫う。
今ならまだ間に合うかもしれない。これ以上進めば、それこそ自分自身がユーフェミアの脅威になるかもしれないのだ。ゼライドは野人としてはまだ若い、己の雄の激しさを自覚している。
夏も盛りを過ぎて、大気にはひやりと冷たいものが混じっていた。最後の陽の名残りがゆっくりと消えてゆく。
少し離れたところに停まっている修理屋のトレーラーが、黒々と大地に蹲っているのが見える。車の修理は後少しで終わるだろう。
——そろそろユミを迎えに行かなくちゃな。
野人はゆっくりと歩き出した。




