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25.人と野人 3

 

 


 まだ明るさの残るミドル・サークル内の繁華街を銀色の車が行く。


 ゼライドは滑らかにステアリング・ホイールを操り、サークルロードを疾走する。その横顔は、いつも通りの完璧な輪郭と硬質な美しさを醸していた。

 だが、その内心は実はぐずぐずである。いつもなら自分から明るく話しかけてくるユーフェミアののただならぬ様子に、ゼライドは内心非常に慌てていた。

 助手席では唇を半開きにして金髪の娘が呆けている。

「おい……ユミ」

「……ふひい?」

 ユーフェミアのすっとぼけた反応にゼライドはますます心配になった。

「おいって!」

 堪りかねてゼライドは声を上げた。ぜっぱつまった大声にユーフェミアは、はっと我に返り、うっとりした視線を野人に流す。

「はへ?」

「怒るな! 悪かった」

「へ? 怒る? 誰が? なんで?」

 ようやく目の前の薔薇色の霧が晴れてゆくユーフェミアである。今の今までゼライドから受けた口づけの感触を何回も反芻していたのだ。

 しかし、これほど彼女に感銘を与えた男の唇は今、まるで叱られた子どものようにゆがんでいる。

「……そんなに嫌だったのか? その……え〜っと、キスって奴が。さっき店であの男の膝に乗っかって嫌そうにジタバタしていただろう? だから俺は腹が立って、無性にしなくちゃって思ったんだよ。そのぅ……『友だちのキス』を」

「友だちの……キス?」

「ああ、前にしてくれたろう? 俺にさ」

「……」

「人間なら友だちが嫌がっていたら身をもって助けるんだろう? 違うのか」

 ゼライドは大真面目に言ったが、実際はそんなに悠長な気分ではなかった。

 自分の膝にユーフェミアを引き倒した男の顔に鉄拳を叩きつけなかったのは、ひたすら市長の妹であるユーフェミアの事情を考慮したのと、上品なレストランで悪目立ちするのが拙いと思っただけのことだ。もっとも別の意味では十分目立ってしまったのだが。

「俺がキスしたらあいつは諦めるだろうと思ったんだ」

「……なあんだ。そうか」

 ——せっかくときめいてしまったのに、なに? この喪失感。

「そうだよねぇ……変だと思ったんだ」

 ユーフェミアはがっくり肩を落とした。そんな彼女をゼライドが横眼でちらりと伺う。

「やっぱり怒ってるのか?」

「ちっとも。むしろ嬉しかったよ。だってゼル、自分以外の他人には触れられたくないって言ってたし、この前も私が傷の手当てしようとしたら嫌がってたし。私はゼルが好きだから、あの時はちょっと悲しかった」

 ——だから例え友達のキスでも嬉しい。少しでも自分に近い存在だって思ってもらえたんなら、私は本当に嬉しいの。こんなこと言えないけど。

「それは……お前」

 ユーフェミアの少しだけ寂しそうな微笑みは、密かにゼライドを打ちのめした。しかし今は運転に集中しなければならない。

「俺は別に」

「いいんだって。今日は私の我儘でつき合ってもらったし、キスもしてもらった。文句を言っちゃあバチが当たるわ。……それにしてもゼル、バルハルト室長と話が弾んでたね」

 ユーフェミアはさばさばと話題を変えた。この件について余り詳しく聞いてしまうと、果てしなく落ち込んでしまいそうだったのだ。

「あの人が初対面の人に、あんなに打ち解けるって珍しいよ」

「打ち解けた訳じゃない。どっちかっていう……腹の探り合いだった」

 ゼライドが言葉を探すように呟いた。

「腹? なんで?」

「あいつは俺……野人を嫌っているようだったから。ユミの護衛だと言っても信用しちゃいないんだろう」

「そんなことはないと思うけど……あの人はいつも穏やかで、仕事熱心で、私達には優しくて……」

「人間相手にならな」

「……」

「まぁでも、別にどうでもいいんだ。人間に嫌われようが憎まれようが、俺は慣れているし。けど、お前は仕事が好きなんだろう? あいつが上司ならうまくやって行くのが人なんだろ?」

「うん……やっと少し認められかけたところだし……姉の七光りじゃなく」

「なんか、新しい研究をやるとか言ってたな。それって忙しくなるんじゃないのか?」

「いけなかった? 私が勝手に仕事を増やしちゃったらゼルの仕事も増えてしまうから」

「いんや、それは仕方ないと思ってる。お前にとっちゃいい事なんだろうしな」

「ええ、すっごく。私だってこの世界の為に役に立ちたいんだもの。小さなネズミ達がその鍵になるかもしれないなんて、すごいと思わない?」

「ネズミが世界を巣食うってか?」

「そ! 救うのよ! あはははは」

 珍しいゼライドの冗談にユーフェミアはすっかり嬉しくなった。

「そうだ! 今日の午後、少し時間があったんで内緒の調べ物をしたのよ」

「調べ物? さっきも言っていたな。何を調べた?」

「この間襲ってきた、あの不気味な蛇みたいな獣のことを」

「ああ、あの丸太ん棒みたいな奴。調べてたのか」

 ゼライドの言うのは、この間僅かな隙間から忍び込んで彼に殺された、吸盤をもった小型の獣の事である。

 残念ながら死体はさっさと始末してしまったので、彼の記憶を元にユーフェミアは苦労して探し当てたのだった。

「うん」

「よく分かったな」

「そうだよ! 取っといてって言ったのに、ゼルったら、死骸をディスポーザーに放り込んでしまうんだから!」

「ああ、スマン。……で?」

「固有名詞はチュードって言う、とても希少種の獣でね。写真は数枚見つけたんだけど、データをいくら探っても研究所の獣標本にはなかったの」

「ああ、見た事ねぇ奴だった」

「ウチの標本の数はこの世界随一な筈なんだけどね。どうやら何かあると思ったんだけど、一般の端末からじゃ分からなかったんで、普段使われないRUNを使って、もっとハイレベルのデータバンクにアクセスしたんですよ。足跡は残っちゃうんだけど」

「ああ、それで?」

「そしたら意外な事に、あの獣はずっと前に絶滅してしまった種だと分かったの。大体二百年前の事だったみたい。その頃気候が寒冷化した記録があるから、敏感な生きものは環境の変化についていけなかったのね」

「絶滅? なら、なんであんなもんが……生き残ってたのか?」

 ゼライドは当然の疑問を口にした。

「それがさ。当時の研究者が貴重なチュードの卵子や精子を、低温凍結装置で保管したと記録していてね……何とそれはウチの研究所に保管されていたのよ」

「何⁉︎」

 ぎら、と野人の纏う空気が鋭くなった。

「バイオ研究所にはそんなものがあったのか⁉︎」

「うん、そうなの。それってどう言う事なんだろう? まさか誰かがそれを盗み出して、凍結を解き、受精させた卵を孵化させたのかしら? でもそれだとかなり精密な設備が必要だわ……それに忍び込むのも相当な準備とかが必要だし。ウチの研究所でするなら楽だけど……誰かが密かにチュードを受精させ、卵を孵化させてから盗み出したのかしら?」

 ユーフェミアは考え込みながら言った。

「でもそれだと……外部の人間には無理……だと思う」

「内部の者の犯行だってのか。それが誰だか知る手だてはないのか?」

「あるかもしれないけど、私一人じゃどうしていいか分からない。もしも知ってる人だったらと思うと、怖くて誰にも聞けないし」

「道理だな。で、その精子や卵子ってのはどこに保管されていたんだ?」

「多分、獣を扱う研究棟のどこかにある筈なんだけど、私とは全然畑違いだし。あの研究所って無駄に広いし。こう言う研究所って基本、そのセクションの外の人間にはなかなか閉鎖的だから」

 バイオテクノロジー研究所は巨大な知識と成果の集積だ。広大な敷地には、様々な分野の研究施設の他に研究施設や保管設備、実験農場まである。その全容を知るものはそう多くはない。

「さっきの上役の男はどうなんだ? 信用できるのならの話だが」

「バルハルト室長? さぁ、彼なら動いてくれるかもしれないけど、ちょっと言い出しにくいなぁ。今さっき、私の為に骨折りしてくれるって言ってたばかりだから、これ以上、彼の手を煩わせるのも……」

「じゃあ、お前の姉さんに頼んでみたら……」

「あ、ゼルもそう思う? 私も実はそれは考えた。姉さんなら色々ルートを持っている筈だし。でも、結局私一人じゃ何にもできないんだって思うとねぇ。いっつも誰かを頼ってしまうんだなぁ……私って」

 ——これじゃあ、パルさんの言ったとおりよね……。

 ユーフェミアは盛大に溜息をついた。

「何言ってんだ。使えるものなら何だって利用するのが賢いやり方じゃねぇか。増してや相手はおそらく非道な犯罪者で、お前の命がかかってる。もっと言や、あんな最新鋭の研究施設のなかに裏切り者がいたんじゃ、市民の安全は保障できない。市長だって何をおいても協力する筈さ」

「そうか!」

 ゼライドの身も蓋もなく現実的な意見にユーフェミアの心の重荷が、ぽん、と跳ねた。ステアリングを握る横顔から流し目を喰らって、ユミの背筋が思わず伸びる。

「うん……うんそうだね! わかった。できるだけ早く姉さんに話してみるよ」

「そうしろ」

「ん!」


 ドグァアアアン!


 ユーフェミアがぶんと首を振った瞬間、一つ先のブロックから大きな炎が上がり、衝撃音が響いた。

「な……!」

「顔を出すな!」

 ゼライドが怒鳴った。

 爆発のようだった。一拍置いて熱波が遅ってきたのか、歩道を行く人々がうつ伏せている。走行中の車内にも気味の悪い振動が伝わった。

「きゃあっ!」

 ユーフェミアは助手席のなかで身を縮こめた。

「ベルトにつかまれ!」

 前方の車が次々に自動停止システムで急停車してゆく。それを巧みに避けながらゼライドは車を側道に滑り込ませた。

「何があったのかしら?」

「さぁ、だがかなり大きな事故のようだ。……事故だといいが」

「事故じゃないなら?」

「事件だな」

 ゼライドは厳しく言った。

「気になるんだろうが、ここは我慢だ。シールドを濃くするが、絶対に顔を出すなよ。」

 銀色の車は見通しのいい公園通りを滑るように進む。人の姿は殆ど見ない。フロントガラスに夏の黄昏が広がる様子は、さっきの爆発が何かの間違いかと思わせるようだ。

 しかし、僅か数ブロック先では恐ろしい事態になっているのだ。おそらく死傷者が出た事だろう。ゼライドは周囲に目を配り、安全を確認すると片手で端末を引き出してユーフェミアに押しつける。

「何があったかユミが探ってくれ。俺は辺りを見張らなくちゃならねぇ」

「分かったわ。場所はええと……この辺りね。きっと目撃した人が何か発信してると思う……ちょっと待って」

 ユーフェミアはぱらぱらと指をキィに滑らせた。あっという間にたくさんの画像がヒットした。

「……」

「なんだった?」

「ナイツ……」

「ナイツだと?」

 重い呟きにゼライドは鋭く聞き返した

「ええ。ナイツの常習者が爆発物を抱えて交差点で自爆したみたい。運悪く通り掛かった車が二台巻き込まれて……犯人を含め、少なくとも数人の死者が出た模様……」

「ナイツの常習者だってのはどうしてわかった?」

「交差点に男が飛び出した時、俺にナイツを寄こさない奴らに復讐してやるって叫んでいたそうよ」

 <ナイツ>。

 ゴシック・シテイに密かに流れる麻薬。

 一年に一度開花する美しい夜光花からは、人々を惑わせる恐ろしい闇が潜んでいるのだ。姉のエリカはその撲滅を公約に掲げ、警察も地道に流通ルートを潰していると聞く。

 しかし、密かな需要が悪辣な供給を生み、新たな悲劇の元凶となる。

 遠くからサイレンの音が集まりだしていた。緊急車両が次々に到着しているのだろう。その内、テレビ局もやって来るに違ない。 

 一体どのくらいの被害が出たのだろう? 繁華街にはまだまだ人が溢れていた。子どもやお年寄りは巻き込まれていないだろうか?

 ——許せない……。

 ユーフェミアは唇を噛みしめた。

「私絶対、この研究の成果を上げて見せるわ。ナイツでこれ以上、人が苦しむなんて我慢できない」

 ユーフェミアはきっぱりと宣言した。

「……だが、ナイツで食ってる奴も一杯いるんだ。ユミの研究の首尾が上がって噂にでもなったら、そっちからも狙われるんじゃないのか?」

 ただでさえ市長の妹だと言う事で、姉の政敵から狙われているのに。

「だからゼルがいるんじゃないの」

「俺?」

 車は既に東の地区へ入っている。ユーフェミアとゼライドの居住区である。さすがにここまでは爆発の余波が及んでいないらしく、通りは穏やかに散歩する人たちの姿もある。ほっとユーフェミアは肩の力を抜いた。

「そう。姉さんは三カ月って言ったけど、延長しちゃダメ? お金なら、私頑張って稼ぐから」

「お前……俺の相場がいくらか知ってんのか?」

 一流のハンターを一日貸し切るだけでも、アンダ―サークルの労働者の十日分の日給が必要とされている。ましてや、ゼライドのランクはトリプルSとされる。つまり超一流なのだ。

「知らない。高いの? 友だち割引とかはないの?」

「ねぇな」

 ゼライドの溜息を呑みこんで、車は音もなく空いた門扉の中に滑り込んだ。

 ユーフェミアは困り果てて彼を見ている。彼に見捨てられたらユーフェミアは仕事を諦めて、姉の元に帰るしかない。ゼライドは彼女の顔を見ぬまま、情けなさそうに口の端で笑った。

「でもまぁ守ってやるよ。ここまで関わったんだ。お前が辛ぇ目に会うのは……」

 ——俺の方が耐えられねぇみてぇだから……。

 ゼライドは言葉を濁したがユーフェミアには十分だったらしい。ぱっと顔が明るくなった。

「ほんと? 出世払いでいいの? 姉さんにこれ以上借金作りたくないのよ実は」

「あんた、本気で出世するつもりなのかよ?」

「するわよぅ~」

 呆れたようなゼライドの問いに、ユーフェミアはにっと笑った。

「ああ、そりゃ楽しみだな。俺の老後を頼むわ」

 逞しい肩を聳やかせて車を下りたゼライドは大股でエントランスに向かった、その後を踊るような足取りで追い掛けながら、ユーフェミアもステップを昇ってゆく。

「任せて! ゼル、大好き!」

「うわ! こら、ひっつくな! 体を離せ!」

 小さな翼竜が嬉しそうに上空から舞い降りてきて、二人の上でくるくると旋回している。

「ギャギャギャギャギャ!」

「ティップ! ただいま!」

 その瞬間、命が狙われている事も、たった今起きた悲惨な事件の事も忘れ、ユーフェミアはこの上なく幸せを感じていた。

 二人を迎え入れて扉は静かに閉まる。


 ゴシック・シティはいつもの夕暮れを迎えようとしていた。






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