23.人と野人 1
その日ゼライドが家に帰りついたのは薄暮になってからだった。
下町での襲撃の後、直ぐ警察が駆けつけたようだが、そこでおっとり待っているような彼ではない。
早々にその場から引き上げると、マヌエルに連絡を取りさっさと姿を消してしまう。この辺りは慣れたものである。だが、金属加工の店が並ぶ地区を抜けても、アウトサークルの町には余り活気が見られなかった。
しばらく様子を見ながら歩いてマヌエルの指示したねぐらの一つに転がりこむ。程なく彼女がやってきて、血と硝煙の匂いがこびりついた体を清め、新しい服を手渡された。
「はい、これ服。遅くなって悪いわね、あんたのサイズはそうそう無いから手間取ったの」
「礼を言う。これは代金だ」
ゼライドはいつものように数えもしない札を一つかみテーブルに投げ出した。
「いつもたくさん貰っちゃって悪いわね。……時間があるならやってく?」
娼婦はくい、と腰をくねらせて言った。
「今日はいい」
「あら?」
マヌエルは黒いシャツの上から、やはり黒いレザージャケットを羽織るゼライドに、好奇心にあふれた視線を送った。
ここに来た時に着ていたゼライドの服の袖は大きく裂けていて、血の匂いがしていたが、留守中に洗い落したのか、今はさほどでもない。
どうせいつものように危険な仕事をしているのだろうが、それにはマヌエルには興味がなかった。傷の事も心配などしない。野人の常で血が止まるのは早く、明日には傷自体も塞がり始めるだろう。
しかし、マヌエルの鋭い嗅覚は他の違和感を感知していたのだ。睫毛の濃い金色の目がすっと細められた。
「なんだよ?」
「本当だ。あんた……今、雄の匂いをさせてないわね」
「……わかるのか?」
「野人の雌なら誰でもわかるわよ」
「……」
「もしかしてあんた、つがいを見つけたの?」
「……さぁ」
「じゃあもう、私が慰めてあげなくてもいいのね」
「……わからねぇ。けど、今まで世話になった」
「いいのよ。それが仕事だもの……正直ちょっと寂しい気もするけど。あんた、これからどんどんいい男になるから」
「俺のことより、お前の子どもは元気なのか?」
マヌエルには十歳になる男の子がいる。野人の女は生涯にたった一人しか子どもを産まないから、マヌエルにとって、その子どもは唯一無二の宝である。
「ああ、元気さ。死んだあいつに益々似てくるの。いい男だったぁ」
マヌエルは歌うように言った。あいつとはマヌエルのつがいだった男の事だ。
やはりハンターだったが、人間のゴクソツの罠に掛かって命を落とした。野人はそのつがいとなった異性に忠実な種族である。マヌエルも余程の事がないい限り、生涯つがいを持たないだろう。
「子どもはやっぱりハンターにするのか?」
「いいえ? あの子は誰に似たんだか、割合大人しくてねぇ。私にはさっぱりわかんない難しい本を読んだりね。人間の子ども達のように学校には行けないけれど、オベンキョは好きみたいよ。父親みたいに勇敢なハンターになってくれたら嬉しいけど、その代わりいつ命を落とすか知れたもんじゃないから、自分お好きな道を進めばいいと思ってる。こんな稼業をしてるからわかるンだけど最近特に物騒だし」
「<ナイツ>か?」
「<ナイツ>だわね。最近安価になって、若い子でも簡単に手に入るってね。それにじわじわと上流階級にまで広がってるって噂」
「客からの情報か?」
「ま、そんなとこ。なんだっていいのよ。あの子にさえ関わりなけりゃ、人間なんてどうなったって。あたしはあの子の為に稼ぐだけさ」
マヌエルはさばさばと言った。
「そうか……なら、これで本でも買ってやりな」
ゼライドはそう言うと更にポケットから札を掴みだして、机の上に置いた。
「こんなに? 悪いわね、じゃ遠慮なく」
「じゃあな……」
「……ゼル」
「なんだ」
「でもね……もし必要になったら……いつでも来たらいいのよ。あんた、その相手とは……まだうまくいってないんでしょ?」
「……なんでそんなことがわかる?」
ゼライドは鋭く言い返した。
「だから野人の雌だからって言ってるじゃない……わかるのよ。あんたの匂いが寂しそうだからね」
マヌエルは優しく微笑んだ。それは女としてのそれではなく、まるで母親のような微笑みであった。
「わかるのよ……」
「そうか」
不意にゼライドは自分が二度とこの女を抱かないだろう事を悟った。この女だけではない。ただ一人を除いて全ての女を、最早……抱けないだろう。
——これが……つがいの意味するところなのか?
ゼライドの瞳孔が細くなる。心の底がざわつき始めていた。
「ゼル? あんたまさか……」
頬を強張らせたゼライドを見てマヌエルが問いかけた。
「いや、勘違いすんな。そんなもんじゃない。俺はまだつがいなんか、得ちゃいねぇぜ。面倒な仕事を引き受けちまって少々めげてるだけだ……じゃあな。マヌエル」
ゼライドはわざと陽気に手を振って見せた。
扉が閉じられ、重い靴音が遠ざかってゆく。
マヌエルは男が去った方をしばらく見つめていた。
「お帰りなさい……ずいぶん遅かったね」
ユーフェミアは台所に立ち寄ったゼライドを見て顔を上げた。今まで料理をしていたらしい。赤いシチューが鍋で煮立っている。昼過ぎから煮込んでいたため、中身はトロトロになっている。
「ああ済まん、ちょっと手間取って……何かあったのか?」
「何かあったと言うか、何もないと言うか」
「どっちなんだ?」
「うん……実はセルの留守中に、パルミナさんが来たの」
「パルが? 何で?」
ゼライドは鼻をクンクン言わせたが、パルミナの香水の残り香は既にない。換気がが効いているし、キッチンに立ちこめる濃いスープの匂いで飛んでしまったようだ。野人と言っても、人間より五感が鋭いだけで動物の嗅覚には遠く及ばないのだ。
「消耗品の補充と確認だって言ってたけど」
「ああ、そう言えば、今日はお前がいるって言ってなかったんだった。いつもは誰もいねぇ時にやってくるんだが」
「うん、そう言ってた。でもさ、それじゃあどうやって仕事の話をするの? パルさんはゼルのエージェントなんでしょ? そりゃ端末を使えばいつでも話はできるけど、顔を見て話して微妙な状況を知ることも必要でしょ?」
「そん時は俺がオフィスに出向く。この家にはあんまり誰も入れたくないんだ」
「私が厄介者なのね。ごめんなさい……」
ゼライドの言葉にユーフェミアの眉が下がった。
「いや……そういうつもりで言ったんじゃないんだ。お前は……その何て言うか……まぁ、特別扱いだ」
「特別……?」
「ああ、だって市長の依頼だし……」
——なぁんだ、そう言う”特別”なのね?
ぱあっと膨らんだ胸が、同じくらい速やかに萎む。
——パルミナさんの事をどう思ってるか聞いても、多分教えちゃもらえないよね。
ユーフェミアはできるだけ平然と装いながらも、胸がずきりと痛むのを感じた。パルミラも自分はゼライドにとって特別だと言っていた。この特別は同じ意味なのだろうか? それとも……。
「なんたって、しっかり守らなくちゃならねぇからな」
「うん……頼りにしてる……でもゼル?」
「なんだ」
「なんかあったの? 朝と服が違う」
「あ? ああ、ちょっと面倒な事があって……汚れたから着替えた」
ゼライドは何事もなかったように上着をぬいだが、ユーフェミアは直ぐに左手の二の腕に傷を見つけた。
「わ! 怪我をしてるじゃない! もしかして襲撃に合ったの?」
「襲撃? 大げさな言葉を使うもんだな。違う、ただの小競り合いだ。これだって全然大したこっちゃねぇし」
駆け寄るユーフェミアの目に恐怖が宿ったのを見て、ゼライドは慌てて言った。
「でも、けっこう大きな怪我だわ。ナイフ?……ちがうわね、なんだかもっと小さくて尖鋭な刃物……」
「掠り傷だ。ちょっとドジった。もう血は止まってるし、直きに直る。けど、さすが科学者だな。見ただけで武器の種類がわかるのか?」
「解剖する時もあるから刃物は得意なの。……前に私を襲ってきた奴らの仲間なの?」
ユーフェミアは前に見た事のある戸棚を開けて包帯を探しながら尋ねた。包帯は直ぐに見つかった。全て新品で、しかも大量に放り込んである。一番幅の広い物を一つ取り上げる。薬が塗りつけてあるものだ。
「多分違うな。来たのは、野人ならだれでも構わず襲いかかる”ゴクソツ”っていう、組織の連中だ。ユミとは無関係だろ」
「本当に?」
「ああ。だが、まぁ当分は動けねぇようにしてやったたし、別にそれはどうでもいい。あ、手当なんかいらねぇ。余分なものを身に付けたくはないんだ。それより腹が減ったな、それ、もう食えんのか?」
手当てをしようとしたユーフェミアを遮ってゼライドは、ぐつぐつ言っている鍋を指差す。
「……うん。でも包帯くらい巻いておいた方がよくない? 服が擦れると痛いでしょ?」
「痛くねぇ」
ゼライドはそう言うと、ユーフェミアに触れられるのを避けるように、テーブルの向こう側へ回った。
「……」
ユーフェミアは手当てを諦めて皿を取る。山盛りにシチューをよそいながら、ゼライドの態度に違和感を感じていた。
——おかしい。なんだかピリピリしてるみたい……。
多分自分で言ってるより酷い襲われ方をしたのだと見当をつける。襲ったゴクソツは人間なのだろう。ゴクソツの事は良く知らないが、野人に恨みを抱いて襲い掛かる集団だと聞いたことがある。野人を野蛮人、非人間だと思っているのだ。
だがそれが、彼にとってそんなに珍しい事ではないのだとしたら、パルミラが言うように、ゼライドが人間を憎んでいると言うのも嘘ではないのかもしれない。
——それに……野人の実年齢と精神年齢には、大きな開きがあるって……。
パルミラの話ではゼライドの実年齢は四十近くであるが、見た目は若々しい青年。それなのに精神はもしかしたら、ティーンエイジャーかもしれないと言うのだ。
しかし、弱くなった日差しを真横に受けているゼライドの様子は、どう見ても立派に成人した男性そのもので。美しい銀髪が鋭い輪郭を縁取っている。
「ステキ……」
「あ?」
どうやら思っている事が口から漏れてしまったらしい。ユーフェミアが赤くなったが、ゼライドも心なしか照れたように視線を逸らせた。
「早くくんねぇか、それ」
「あ、ごめん。ぱ……パンも食べる?」
「うん」
ユーフェミアは皿を置くと、パンを切るナイフを取った。
「危なっかしいな、気をつけろよ。俺が切るか?」
スープに浸せるように、大きなパンの塊を薄く切ろうとしているユーフェミアを見てゼライドが気遣う。
「大丈夫だって……刃物には慣れてるって言ったでしょ?」
「前に指を切ってたじゃねぇか。それに解剖と一緒にすんなよ」
「してないわよぅ」
——ほら、口調は雑でもやっぱり優しい。それは私だから? 人間を憎んでいるとしても、私だけは特別? それともやっぱり仕事の対象だから?
そう言えば帰って来てからユーフェミアの方をろくに見ない。傷の手当てをしようと触れようとしたら拒まれた。やっぱり自分は厄介者なのかもしれない。もしそうだとしたら……。
とっても悲しいなぁ……
「ユミ?」
「え? うわ!」
もの思いから我に返ったユーフェミアは、いつの間にか大量のパンを切っている事に気がついた。不思議な事にどれも見事に均一な幅になっている。
「うっかり、こんなに切っちゃった。食べられる?」
「ああ」
ユーフェミアはパンを差し出すと慌ててキッチンにナイフを戻した。
——やだ。おかしいのは自分の方だわ。
「あ、あの、それからね……嫌なら断ってくれたらいいんだけど、前に会ったことがある同僚の子たちがね、ゼルとどうしても食事をしたいって、うるさいんだけど……あ、ごめんなさい」
それは本当で、ゼライドを見かけて以来、皆が、特に女の同僚が急に親しげに声をかけてくるのだ。
しかし、さすがにこのタイミングは拙いだろう。ユーフェミアは焦った。空気を読めないにも程がある。彼は人間に傷を負わされたばかりなのだ。
——馬鹿! 私ったら! ゼルは人間嫌いだって言うのに!
「いやっ、そのっ! 嫌だよね。嫌に決まってるよね、ゼルにとってこれは仕事なんだし。都合を聞け聞けって、あんまりしつこいから言ってみただけで、これで約束は果たしたんだから、嫌と言ってたって断ってくる」
「別にいいぜ」
「へ?」
一瞬何を言われたのかわからなくて、ユーフェミアはぽかんと目を見張った。
「一度だけ飯に付き合えばいいんだな? それでお前の顔が立つんだろ。いい。行ってやる」
「え? いいの? 本当に?」
「ああ。だが、場所は見通しのいい通りに面した、そんなに大きくない店にしろよ。そんで、日時と場所は直前まで秘密にしておけ。いつだって油断はできねぇ」
「わかった!」
思いがけないゼライドの言葉にユーフェミアは有頂天になった。
きっとこんな我儘は一度だけだろうし、迷惑だとは思うが素直に嬉しい。このところ閉じこもりきりだったのだ。いくら社交家ではないユーフェミアでも、一応若い女だから、家と職場だけの往復ばかりではつまらない。
これっきりなんだから。私の事、仕事だと思ってるゼルと少しでもいい思い出つくるんだ。――終わってしまう前に。
ユーフェミアは鼻歌を歌いながら踊りだしたいのを誤魔化す為に、不必要なキッチンの片付け始めた。
そんな彼女の背中をゼライドの瞳がじっと見ている事も気づかずに。