19.穢れた血 3
夜明けの直前の闇が一番深い。この世界では、夜の終わりと朝の始まりの狭間に雨が降るから、雲が月も星も隠してしまうのだ。
だが、真夜中よりも暗い闇の中にうごめくものは確かにいる。
ゼライドはベッドの上で仰向けになっていた。ベッドと言っても固いマットレスが剥き出しになっただけの代物だ。寝台そのものは以前の持ち主のもので無駄に大きく、彼が身を横たえてもなお充分なゆとりがある。しかし、そこには枕一つ置かれていない。いつも彼はここで、靴と上着を脱いだだけで数刻だけの短い眠りを貪るのが常だった。野人の常で眠りは浅いが、横になれば直ぐに寝入る事が出来る。しかし、この夜、眠りはなかなか彼を訪れなかった。
——ここに触れたのだったか……。
唇に指先を当てる。自分の硬い指先では、甘く柔かいユーフェミアの感触の再現はとてもできない。しかし、ゼライドはその感覚を再現しようと試みた。触れたのはほんの一瞬だったが、その感覚はまざまざと記憶している。そして血が熱くなるのだ。
——何で俺はこんなことばっかり考えてるんだろう……女だからか? 女なら昨日マヌエルに世話になったばかりじゃねぇか。後一月くらいは欲を抑えられるはずだ。
自分で自分の置かれた状況がよくわからない。情欲は満たされ、先ほどたらふく喰ったので腹の飢えも満たされている筈だ。なのに何かが足りないのだ。それも酷く。常に自分の状態を正確に把握しておきたいゼライドにとって、これは非常に不愉快な状態だった。
——そう言えば……。
ゼライドはマヌエルと交わした短い会話を思い起こした。
娼婦マヌエルも生粋の野人である。だが、ゼライドの知る限り血の匂いをさせていた事はない。野人である以上、血肉を喰らうのは必定ではないか? その事を不思議に思って彼女に尋ねると、彼女はあっさりと答えてくれたのだ。
『以前はそうだった。でもこの仕事をしてから、あんまり肉を食いたい欲求はないの。あっても少量で事足りる。後は通常の食事でいい。たっぷりと男の精を頂いているからかしら? それとも私ももう歳で、そんなに強い欲求が無くなったのかしらね?』
確かにマヌエルはゼライドよりかなり年上らしいが、退化するにはまだ早いだろう。退化と言うのは人間で言えば、老化と似たような意味で、長命種である野人の場合、七十歳を過ぎた頃から始まる。しかし、彼女の言う事が本当ならば、退化でなくとも異性と頻繁に交わる事で欲が減退するのだろうか?
『ふふふ。あんたはまだ若くて、あんまりたくさんの女を知らないんだものね。でも、満たされた女や子どもを持った女は、若い頃のようにたらふく肉を喰らわなくても生きていけるのよ。特にあんたと交わった後は精が濃ゆいのか、暫く何も食べなくてもいいくらいだもの。……でもまぁ、男と女の欲は違うものだから、女のあたしにはよくわかんないけどねぇ。だけど、男だって満たされれば欲求は減って来るものよ』
マヌエルはそう言っていた。
——もしそれが本当なら女に触れ続けていれば、あんなあさましい姿を晒さずに済むのか……? あいつは気にしないと言ってくれたけども……。
あまり塾考することに慣れていないゼライドはごろりと寝返りをうった。
——じゃあ肉を喰らわないために、俺は欲しくもねぇ女と交わり続けないといけねぇのか。そんなのは嫌だ。それなら、血肉を喰らうのとかわらねぇ所業だ。
ゼライドは闇の中で考え続ける。その双眼は闇の中で燃えるような銀色に輝いていた。
醜い欲望を断ち切る術は何処かに無いものか――。
答えなど何処からも得られる筈もない。同族のヴォルカンがからかうように、女に執着するタイプではない。人間の女は勿論、必要に迫られない限り野人の娼婦ですら相手にしないのだ。自分の母親の死に様を思い出す度、女と交わることに罪悪感を感じている。そしてそれと同じくらい、血肉を喰らう野人の性癖を厭わしく思っていた。
——つまりは八方塞がりじゃねぇか。
肉を喰わぬ為には女と睦まねばならず、女が嫌なら肉を喰うしかない。それが野人の定めなのだろうか? 彼は自分の種の事を殆ど何も知らないのだった。
「忌々しい血だ……けど待てよ?」
ふとゼライドは、ある考えに行きあたって身を起こした。
——じゃあひょっとして、気に入った女と同意の上ならばいいんじゃないか?
気に入った女、それは……。
——誰だ?
闇を透かすように扉を見つめる。
厄介な女なら直ぐ近くで眠っている。さっき自分に唇を押しつけてきた変な女が。あれから一時間ほどは寝付けない様子で幾度も寝返りをうっていたようだが、真夜中過ぎにはもうどんな物音もしなくなった。
——あいつに頼んでみたらどうだろうか? さっき、俺の事好きだとか言ってなかったか? いや確かに言ってた。あいつならきちんと頼めば、もしかして……? いやいや、そんな都合よすぎることが許されるか?
人間の女に対して何を馬鹿なと理性が反対する。しかし、彼はその思いつきに魅せられていた。そろそろと寝台から降りて部屋を出る。
——別に変なことする訳じゃねぇ……様子を見るだけだ。さっきは随分動揺させちまっただろうから、よく眠れているかどうか……。
廊下の突き当たりの左。そこがユーフェミアの部屋だ。扉の外に建って気配を探っても規則正しい深い寝息が聞こえるだけだった。もし鍵が掛けられていたらすぐさま引き返す誓いを立てる。しかし、試しにそっと押してみると、呆気なく細い隙間が空いた。
——鍵も掛けてねぇのかよ! この女やっぱり危機管理意識皆無だ。大問題だ!
夜分、婦女子の部屋に押し入っておいて何を今更と思う。しかしよく考えれば、自分がもし本気になれば、こんな扉など粉砕できてしまう。鍵など無意味なのだ。
——けど、アレだ……なんつった? ワー……ワンクッションってもんがあるだろ! あっさり入れちまったじゃねーか……うわっ!
扉を開けた途端、鼻孔に押し寄せる甘ったるい匂いに息が詰まりそうになった。ばかりか、さっきは何とか収めた彼の欲望が性懲りもなく又暴れ出そうとしている。腰が引けそうになるのを何とか堪えて、じわじわと寝台ににじり寄った。天蓋付きの立派なベッドが難攻不落の要塞のように見えてくる。
大丈夫だ。俺はまだぶっとんじゃあいねぇ。寝込みを襲うほどケダモンでもねぇ。ほんの少しだけこいつの様子を見るだけだ。ちょっと確かめるだけ、それだけだから……
——だけど……
ベッドに片膝を突いて覗き込んだユーフェミアは、小さいながらも気持ちよさそうに体を伸ばしてぐっすりと眠っていた。真夏の事とて、肩ひもがついただけの短い寝間着に薄いシーツを巻き付けただけの姿で。
——よく知らねぇ男の家で気持ちよさそうに眠りやがって……馬鹿な女!
髪が乱れて敷布に広がっている。彼女の寝顔を見るのは二回目だ。
最初見た時にはまさかこんな風になるとは夢にも思ってはいなかったが、恐怖に震えてはいても誇りを失わなかった娘が、すやすやと眠る様を見ているのは妙な気分だった。そして今も、同じように安らかな寝顔で眠り込んでいる。少し緩んだ口元から漏れる吐息は濃くて甘い。そして無垢だった。ゼライドは首を振った。
——やっぱりできねぇやな。手前の理屈でこいつに協力してもらおうなんざ、ムシがよすぎる話だ。こんなきれいな上流のお嬢様、俺には勿体無さすぎらぁ。俺みたいな下司は今まで通り、肉を喰らってそこらの女を抱いてりゃいい話だ。だから……。
——少しだけ。少しだけ触れたら部屋に戻ろう。
ゼライドはそっと指の背で柔かな頬を撫でた。
——ごめんな。こんで諦めるから許してくれな。
渦巻く髪をそっとどけて顔の両側に肘を突くと、ゼライドはそっと身を屈めた。自分の唇をユーフェミアにそっと擦りつけると、乾いた自分の皮膚がしっとりと蜜を含んだような唇に引っ張られるように吸いついた。啄ばむように感触を楽しんでから、舌でぺろりと肉厚の花弁のようなそれを舐めた。
——ああ――甘い。これは――
ゼライドが恍惚となったその時、ユーフェミアがぱちりと目を開けた。窓外の常夜灯の光を拾って一瞬だけ翠色に閃いた瞳はゼライドを見とめた瞬間、うっとりと微笑んで彼の首に両腕を巻き付ける。
「ん~、ゼル……?」
好きよ……? そう囁いてぱたりと腕を落とすと、娘は再びくかくかと寝入ってしまった。
「は?」
——おいこら……待てよ、あんまりだろ。これまさか確信犯じゃないよな。寝惚けてんだよな! 寝惚け……って……ほんとに眠っちまった……
安心しきった顔、白い喉、すんなりと伸びた手足。健やかな眠りを邪魔するものなどいないと信じて眠る娘。
「うわ!」
その瞬間、体に強い衝撃が走った。体の奥からわいて脳髄に突き抜けたそれの名は、原始の脳からの指令、本能である。
「……そんな……馬鹿な。こんな、こんなこと……」
しかし、ゼライドはこの瞬間、気づいてしまったのだ。
「ありえねぇ……あっちゃあならねぇ」
闇の中にぎらぎらと銀光が輝いた。
——違う。こいつは人間だ。そもそも種が違うじゃねぇか!
ぎりぎりと大きな拳を握りしめる。疼痛は体中を走り抜け、やがて体の中心に集まった。
——くそ! こんな感覚は一つしかない。そんなもんが自分に巡り会う事なんかないと思っていたのに……畜生、間違いじゃねぇ、この感覚は……。
しかし、ゼライドの思考は突然中断された。
ギャギャギャギャ!
ディプシーの威嚇音だ。驚いた事に直ぐ近くだった。脊髄反射で戦闘態勢に入り、ベッドに跳び上がると、ゼライドはユーフェミアを自分の下に庇った。
——敵襲か!?
キーンと神経を研ぎ澄ませる。
しかし、人間の気配も匂いもしない。隣の部屋で小さな物音がしてティプシーの威嚇の鳴声と羽音がとぎれとぎれに聞こえる。敵なのは間違いない。
——だが、どうやって……?
この家は元々ゴシック・シティの有力者の持ち物だった。孤独で敵の多い人物だったらしく、家の規模の割に優秀なセキュリティシステムが備わっており、その人物が死んで法外な値段で売りに出されていたのをゼライドが買い取ったのだ。そしてシステムを洗い直し、一年ほどかかって自分に都合がいいように作り変えて来た。人間は無論、遠隔操作の機械でも、自分とシステムに気づかれないように侵入するのは不可能に近い。体の下で娘が身じろいだ。窮屈だったのだろう。
「ん、ん~? なんか重い……わ! ゼル!? 何事!?」
「黙ってろ!」
ゼライドは目を覚まして仰天するユーフェミアを抱き上げると、取りあえず寝台の下へ押し込んだ。寝台は頑丈に出来ているから、物理攻撃をしかける敵ならば暫くはもつ筈だ。しかし、そんな様子は今のところ何処にもない。ティプシーの騒ぐ音だけがまだ続いている。
「いいか。俺がいいというまで出てくんなよ!」
そう言い捨てて背中のホルダーから短剣を抜き放つと、ゼライドは向うの壁の扉へ向かった。隣は浴室とパウダールームである。ゼライドはナイフを逆手に構えた。浴室の床の上で小さなものが暴れる気配。ティプシーともう一匹いるようだ。匂いには覚えがない。そっと硝子の扉を開ける。すると床のタイルの上で二匹の小型の獣がもつれ合いながら転がり回っているのが見えた。
「ティップ!」
ゼライドがドアを蹴って踏み込むと、ティプシーがぱっと天井まで舞い上がった。嘴に小さな肉片を咥えているのが見える。そして浴室には血の匂いが立ちこめていた。
「なんだ……?」
床の上で何かが蠢いている。ワインボトルを二つ繋いだような生き物だ。ゼライドは身を屈めてのた打ち回る獣を掴み上げた。蛇のような体に吸盤のような手足がついている。このため物音がしなかったのだ。その上、この獣には鳴き声を出す器官がないようだ。
「なんだこいつ」
何処から忍び込めたのか、ふと窓を見ると指二本分くらいの隙間が空いていた。この獣は外壁を伝って這い上がり、窓から忍び込んだのだ。ゼライドが掴んだ首の根元から血が噴き出している。ティプシーにやられたのだろう。だが、獣は鋭い刃の並んだ口を一杯に開けてゼライドの手首に噛みつこうと激しく首を振っていた。致命傷を負っていてもここまで凶暴なのである。まさしく原始の生命力だ。
——何処のどいつがこんなモノを放ちやがったのか?
ゼライドは獣を床に投げ捨てると、重いブーツで踏みつぶした。嫌な音がして血飛沫が勢いよく飛び散る。浴室の天井近くで待機いていたティプシーがバサバサと羽音を立てながら彼の肩に舞い降りた。彼は夜の館の上空を警戒していて、壁から這い上がる脅威にいち早く気がついたのだ。
「よくやったぞ、テイップ。怪我はないか?」
キュウ!
ゼライドが調べると翼の被膜が少しだけ破れている。窓をくぐり抜けた時に負ったか、この蛇のような獣の牙で裂かれたのだろう。後で手当てしてやらなくてはならない。だが、先ずはユーフェミアだ。ゼライドは大急ぎで寝室に戻った。
「大丈夫か!」
「うん……もう出てもいい?」
比較的落ち着いた声が床の方から聞こえてくる。大人しく言いつけに従っていたらしい。
「ああ、もう妙な気配はしない。よく我慢したな」
ユーフェミアがベッドの下から這い出ると、ゼライドがティプシーを肩に立っていた。まだ周囲を警戒しているようだ。
「何があったの?」
「この館を狙った奴がいる。明かりはつけない方がいい」
「……」
ユーフェミアは黙って寝台に腰かけた。ゼライドの答は短すぎるが、騒いでも何の益にもならない。先ずは状況を分析しなければ。
「お前、風呂場の窓を開けたままだったな」
「あ……換気の為に……閉めるの忘れてた。でもほんの少しだったし、外には丈夫な鉄の桟があったから……大丈夫だと思って……ごめんなさい。何かが入って来たの?」
「小型の獣が壁を伝って忍び込んでた。見たことねぇやつだ。ティプシーがいなかったらやばかったかもしんねぇ」
「そんな……」
「俺も気がつかなかった。常夜灯が仇になったな。窓が開いている事を敵に気づかれて、それで獣を……ちっ、こんな獣がいたなんて……俺の失態だ」
ゼライドは悔しそうに言った。高性能の暗視スコープで見張られていたらしい。高級住宅地だと思っていたが、何処かに敵か、敵の仲間がいるのかもしれない。今までそんな事がなかったから油断していた。
「獣が入って来たの? どんな?」
「短い蛇みたいな奴だ。ああ……もう殺しちまったから心配はいらねぇ。だが、暫く風呂場に入るんじゃないぞ。死体は俺が始末しておくから。何、跡形も残しゃしねぇよ」
「うん……わかった……でもそれは……それって、私は常に監視されているってこと?」
「お前か、もしかすると俺かもしれねぇ……俺をつけ狙っている奴もいるから」
「ゼルが? 何で?」
「俺が野人のハンターだからさ。俺達を恨んでいる奴は一杯いる」
特に<ゴクソツ>と呼ばれる結社がそうで、ゼライドは彼らの襲撃から逃れる為にこの家を買ったのだ。だが、ユーフェミアには今その事を説明しなかった。これ以上無駄に怯えさせても意味がない。
「だが、取りあえず今夜はもういいだろう。これからはもう窓は開けるなよ。いくら防弾ガラスだって開けてちゃ意味がねぇ。近くに頃合いの場所が無いんで、狙撃の心配は低いが、今みたいに珍しい獣や、ガスが使われるかもしれないからな。夜に風呂に入る時でも明かりはつけるな。部屋にいる時はカーテンを引いて絶対に窓際に立つなよ。影が映るからな」
「そんな事言ったって……」
大げさすぎる警戒ではないか? 獣だって敵に放たれたものだという確信はないではないか。ユーフェミアがそう言うとゼライドは鼻を鳴らして馬鹿にした。
「これだから、お日様育ちは困るんだ。いいから俺の言うとおりにしな」
「うん……」
この男がそう言うからにはそうした方がいいのだろう、ユーフェミアは初めて自分の置かれた状況が少し怖くなった。ゼライドは捨てると言うが、生物学者として死んだ獣を調べなくてはいけないと思う。何かの手がかりになるかもしれないからだ。かなりぞっとする仕事だが。
「……ち」
ゼライドは身震いしたユーフェミアを黙って見ていたが、やがて隣に腰を下ろすと肩を引き寄せた。
「怖がるのは無理もねぇがな……だからこその用心なんだぜ、お嬢ちゃん」
がしがしと頭を撫でてやる。まるで子ども扱いだが、それくらいの方がいいのだった。でないと、自分を統率できない。
「ユミ……でしょ?」
ユーフェミアは言い返した。口調は不平がましいが、広い胸にもたれさせてもらえてユーフェミアは大変満足だった。さっき感じた恐怖が徐々に薄らいでゆく。又しても助けられた。この男の傍にいれば大丈夫なのだ。
「ああ、そうだったな。……ユミ」
ゼライドの声にはいつもの強さがない。
彼はもう悟ってしまったのだった。
ぱたぱたぱた
雨の粒が落ちてきた。この夜の穢れも怖れもすべて洗いながしてしまう浄化の刻。夜明けはもうすぐそこだった。
ユミ ―― ユーフェミア。
それが彼のつがいの名だった。