18.穢れた血 2
「お前……!」
——畜生! なんで気がつかなかった。眠っているとばっかり思っていたのに!
ゼライドは愕然と握っていた血まみれの肉の塊を捨てた。落としたと言った方が正しいかもしれない。
それほどまでに自分は飢えていたのか。必死で口中にある物を呑みこんでから、足元の箱を蹴って蓋をする。血まみれの口を拭ってゆっくり振り返ると、入口にユーフェミアの小さな影があった。寝間着を着ているようだ。彼女はそれ以上は入って来ようとはせず、こちらを窺っている。今ならまだごまかせるかもしれない。
「ちょっと用をしていただけだ。汚れているから入って来るな」
低く答える。明らかな拒絶を含めて。
「いいえ……今からそっちに行く」
「来るな!」
短く威嚇する。が、しかし影はゆっくりと近づいてきた。
「ゼル……」
「来るなと言ってんだ!」
ゼライドは怒鳴った。
小さな影はその剣幕に身を竦めたようだ。カランと金属の音がして影が傾ぐ。野人なら見透かせるこの程度の闇でも人間は無力なのだ。
「きゃっ!」
ガレージの隅で何かを踏んでしまったユーフェミアはよろけて仰向けに倒れてしまった。
「お、おい!」
あっという間に頑丈な腕に支えられる。ユーフェミアの体の下の剥き出しの腕は太くて硬い。その腕がいささか乱暴に彼女を立たせた。
「わっ!」
「来るなと言った筈だ! さっさと出て行け!」
ゼライドは顔を背けながらユーフェミアを押しのけた。娘はそうはさせじと必死で腕に縋る。
「ごめんなさい、ごめんなさい。でも知りたいの、知りたかったの!」
「何をだよ!」
——さっさと行けよ、行ってくれ……お願いだ……。
よろけた体を受け止めた時、匂い立つ甘い香りが鼻孔を満たし、湿った髪に肌を撫でられてゼライドの方がへたり込みそうだった。なのに小娘は両腕で彼の腕を抱きこんで放そうとしない。柔かく丸いものが腕に当たって血が逆流する。
無言の攻防が暫らく続いたが、観念した男の背中がどさりと壁に打ち付けられ、終止符が打たれた。
——頼むからその甘ったるい匂いだけでも止めてくれ!
ゼライドは唸って力を抜いた。ユーフェミアは彼の様子の変化を感じたのか、しがみついていた腕を緩め探るように彼を見上げる。闇の中で輝くはずの瞳は今は伏せられているようだった。
「知りたいのよ。あなたの事、もっといっぱい」
「……俺の事なんか知ったってロクなもんはねぇ」
ゼライドは精一杯腕を伸ばし、娘の肩を引き剥がす。最後の抵抗。だがユーフェミアは挫けなかった。
「ゼライド……」
「そんな目で見るな……見てくれるな」
低い声は弱い。
「触らねぇ方がいい、俺は汚ねぇんだよ。ほんとに汚ねぇんだ!」
ついにゼライドはユーフェミアから逃れるようにもう一方の手で顔を覆ってしまった。こんなに弱っている彼を初めて見た。大きくて強い男が見捨てられた子どものように打ち萎れている。少し落ち着いてきたユーフェミアは、辺りに立ち込める血の匂いに気がついた。よく見えないが足元には大きな箱が置かれているようだ。その中から独特の臭気——血の匂いが立ち昇って来る。
ユーフェミアは理解した。これが彼が隠したがっていた事なのだ。
「なんで? ご飯を食べていたのでしょう? 普通の事だわ」
「……お前には分からねぇ……お前みたいな上等の娘にはよ……俺は血に穢れた野人なんだよ」
「ゼル……」
ユーフェミアはこの暗がりで唯一確かな逞しい腕に掌を添える。ゼライドはびくりと身を震わせた。
「頼むから触らねぇでくれ……俺は汚れているから」
彼の言葉を無視して骨ばった手の甲を撫でてやる。それは猫を撫でるようにゆっくりとした仕草で。最初ゼライドは警戒するように喉の奥で唸りながら拳を握りこんでいたが、やがてゆっくりと力を抜いた。指が解れてゆく。
「……ゼル?」
囁くように名を呼ぶ。
「私なら平気よ? ほら」
ユーフェミアの手がそろそろと上がってゆく。ゼライドは顔を手で覆ったまま、壁に縫いつけられたように背中を預けていた。
「大丈夫……あなたは汚くなんてない」
「……」
「……私あなたが好きよ? だって強くて優しいんだもの」
ゼライドは動かない。ユーフェミアは両手で彼の手首を握った。手首と言っても指が回らないほど太いのだ。
「私にこうされるの嫌?」
手首から緩い振動が伝わった。彼は小さく首を振ったようだ。
「そお? じゃどうして顔を背けるの?」
「だって、そりゃあ……お前ぇ……俺が気持ち悪くないのかよ? 俺は血だらけの生肉を喰らってたんだぞ」
「知ってるわよ」
「知ってるって……お前みたいな上流のお嬢さんがよ……普通は嫌だろ?」
「ちっとも。触れられたって全然嫌じゃないわ。ってか、あなたとは今までにも触れ合ってきたじゃない」
「……それは致し方ない場合だったから」
ゼライドの手はおそるおそる自分の手首を掴んでいるユーフェミアの手に重ねられた。その大きさと暖かさにユーフェミアの胸は急速に高なる。だが、ゼライドはそっとユーフェミアの手を自分の手首からから離してしまった。
「ね? どってことはないでしょ? それに私、別にお嬢さんじゃない、ただの下っ端研究者だし。こんなこと普通よ。誰だってしてるわ」
本当は小さな心臓が、耳の良いゼライドに聞こえてそうなくらいドキドキしていたがユーフェミアは何とか普通の声で開き直った。
「市長の妹がお嬢さんでなくて何なんだよ」
「姉さんは関係ない」
「その姉さんに俺はあんたの護衛を頼まれてるんだぜ?」
「あ、そうか。ははは……」
相変わらず考えの浅い自分だ。だが今の問題はそこではない。
「……つまり……私が言いたかったのはね。あなたが野人だろうと、そうでなかろうと関係ないって事。私も私としてあなたが好き……と~……友だちとして」
取りあえずはそっからだと、ユーフェミアは腹を括って言ってみた。上の方で銀色の星が二つ瞬く。ようやく彼が目を開けたのだ。
——きれい……やっぱりきれいだ……この人。
「何で俺がここにいるってわかった?」
ゼライドは唐突に話題を変えた。
「うん……じつはあれからよく考えてみたの、あなたがさっぱりご飯を食べない理由について。私が来てからあなたが食事をしているのを見たことがない。昼間どっかで食べてるのかなって思ったけど、それにしたってなんか妙だし。夜は私がいるから出歩けないし。きっと何かあるんだって思ったの。一緒に食べられない訳が……これでも一応学者のはしくれだから、研究所のデータバンクに潜り込んで、文献を漁って色々調べて見たのよ。野人の栄養摂取についての資料はとても少なかったから苦労したんだけど、推理することはできた。あなたの体格や筋肉量から必要な栄養素やカロリーを計算したりして……食事をしているところを見られたくないんだったら、母屋とは別の所で私が寝てしまってから食べているんだろうなって思った。そして見られたくないのは、私たちとは違うものを食べているんだろうなって考えたの」
「そうか……で、データバンクには何て載ってたんだ」
「それが、食生活について記したものは殆ど無くてね。ご飯なんて重要視されなかったのかもだけど、野人が先住民の遺伝子を引き継いだ存在なのだったら、こんな場合もあるかもしれないって推測しただけなんだけど……でも食事なんて個人差が大きいだろうし」
「俺は難しい事はわかんねぇ。けど、時々無性にその……ああいうのが食べたくなるんだ……汚らしいのはわかってんだが……。さっきは済まねぇ……ずっと食っていなかったから、怪我したお前の血を見た瞬間に飢えが襲ってきた……んだ。普段あんな事はねぇんだ。怖かったろ? ごめんな」
ゼライドは囁くように呟いた。こんな声も出せるのだ。
「だから平気だってば」
「へいきってお前、俺はお前の血を啜ったんだぜ? 恐ろしくねぇわけないだろう?」
余程気にしているのだろう、ゼライドはまるで十代の少女が容姿の欠点を気にするように、自分の嗜好を酷く恥じている。きっと今までそれで苦しい思いをしてきたに違いない。ユーフェミアはなんとか彼の気を解そうと明るい声で言った。
「あのねぇ、人間だってお肉くらい食べるわよ。私だってお肉好きだし。そして食べる為には屠畜しなくてはいけないし、解体もしなくちゃいけない。動物をかわいそうだと思っていたらお肉は食べられないわ。それに好き好きはあるけど、私の父の民族の食文化の中には、新鮮なお魚やお肉は薄くスライスしてソイソースとワサビっていう辛いハーブと一緒に食べる習慣があるっていうもの。少し違うだけでやってる事はあなたと同じだわ。ただまぁ、お行儀がいい食べ方ではないわね。立ったままだし、手づかみだし」
「ちげぇねぇ」
ゼライドは低く笑った。
「だから、食べたい時には一緒に食べよう? 私がきれいに盛りつけてあげる。平気よ」
「俺にテーブルマナーを教えようってか?」
「いけない?」
「面白いな、お前は」
ユーフェミアは胸を逸らして見せる。ゼライドは又笑った。短い笑いだが、気持ちのいい声。暗くて顔がよく見えないのが残念だ。だから、もう少しを望んでしまう。この声で、もう一度……。
「もう! さっきからお前だの、アンタだの! いい加減に名前で呼んでよ !さっきは呼んでくれたじゃない」
「え!? 俺がか? いつ?」
ゼライドは本当に驚いたようだった。
「さっき、怪我した時。キッチンに飛び込んできてくれたでしょ?」
「あれはお前が誰かに襲われたんじゃないかと思って……」
「そん時呼んでくれたわ。ユーフェミアって」
「……」
「呼んでよ」
ユーフェミアは躊躇うゼライドに食い下がった。今夜はどう言う訳か、自分の方が彼より強いと思っている。
「……ユー……」
「そうそう」
ユーフェミアは嬉しげに促した。
「……止めた」
「なんでよ!」
「お前の名前、すげぇ呼びにくい。俺は学がねぇからな、お上品な発音はできねんだ」
「だったらミアでいいわ。そう呼ぶ人の方が多いもの」
「それも嫌だ」
暗くてよくわからないが彼は顔を顰めているらしかった。
「なんで!?」
「あいつらもそう呼んでたじゃねぇか」
「あいつら?」
「お前の同僚だ。金髪のねーちゃんとか、気障ったらしいにーちゃんとか」
「だって、それは……歳が近いし」
彼らがそう呼ぶのだから仕方がないではないか。
「ユミ」
「え?」
「だからユミだよ」
「ユミ?」
「こっちの方が呼びやすい。ユーフェミアだからユミちゃんだ。だれもそう呼ばねぇだろう」
「……」
——ああ、この声が私の名前呼んでくれてる。彼だけの呼び名で……
それだけでユーフェミアはどういう訳か泣きたくなった。無論泣きはしないけれど。
「呼ばないわ。でも確か……それって父の民族によくある女性名だと思う」
ユーフェミアの父の出身民族はかなり独特の文化を持つらしく、その血を色濃く受け継ぐ姉に近づきたいのもあって、かなり多くの文献を読んだからそれなりの知識を得ている。
「へぇ〜」
「うん、気に入った。あなたは私のことユミと呼んで。それから……」
「あ……?」
「これは……儀式のようなものだから……」
「……?」
「どうか受けてほしいの。私があなたのこと、嫌じゃないって信じて欲しいから……その……あなたの方こそ嫌じゃなければいいんだけど……」
ユーフェミアは闇の中で真っ赤に頬を染めていた、耳たぶまで熱を持っているのがわかる。感覚の鋭いゼライドに全部見えているのだろうか? それならば相当恥ずかしいが、言ってしまったのだから、もう後には引けない。
「ゼル……」
ユーフェミアが手探りで腕を伸ばす。直ぐにすべすべした皮膚に触れた。おそらく頬なのだろう。触れた瞬間、それは少し強張ったようだった。だが、さっきのように振り払おうとはせずに黙って彼女のするがままにさせている。それに気をよくしたユーフェミアは、もう少し腕を伸ばしてゼライドの髪に指を潜り込ませた。明るい所では濃い銀色のそれは見かけよりも柔かで、指通りがいい。少し力を入れると、それは彼女の導くままにゆっくりと下がって来た。唇の辺りから濃い血の匂い。暗くてわからないが、おそらく口の周りは真っ赤に汚れているのだろう。しかし、ちっとも気にならなかった。
「好きよ? ゼル」
鋭く息を引く気配。だが躊躇わずに唇をつける。大体この辺りだろうと見当をつけたのだが、少し間違えて唇の端にキスしてしまった。男の体がほんの僅かだけたじろいだ。ユーフェミアは唇を浮かせて今度はちゃんと口づける。ほんの一瞬の触れ合いだったが、これで充分だった。
「これが私の好きという意味のキス。私の事も少しは好きになってね」
「……柔らけぇ……」
ユーフェミアの掌の下でゼライドの頬の筋肉が動いた。笑ったのかもしれない。でもやっぱりちっとも見えないのがユーフェミアにはとても残念だった。