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17.穢れた血 1

 


 

 ——血だ!


 空気に混じる僅かな鉄の匂いにゼライドは打ちのめされる。

 別の人間の匂いはしない。元より自分に知られずに、この家に侵入できる敵はいない。だが、一体これは——

 ――何だ?

 ゼライドは飛び起きるや否や、鬼神の勢いで部屋を飛び出した。裸足のまま廊下を五歩で駆け抜け、吹き抜けのホールを臨む手すりを飛び越えて階段を下りる手間を省く。キッチンからはまだ微かな音がしていた。銃器の音ではない、もっと柔らかな小さな音が。

「ユーフェミア!」

「うわあ!」

 重い木製の扉を壊さんばかりに叩きつけ、キッチンに飛び込んできた大男に驚いて、ユーフェミアは腰を抜かしそうになった。ナイフを台に置いていなかったら、取り落として足を傷つけたかもしれない。ただでさえ間抜けな怪我をしたばっかりだと言うのに。

 だが、そんな事態のただ中でも、ユーフェミアは一つの驚くべき・・・・事が起きた事を頭の隅で意識していた。

 ——イマノハ、モシカシテ?

「無事か!?」

 僅か一歩でゼライドはユーフェミアの傍に立った。

「なななな何!?」

 ——ヨンダノハ、ワタシノナマエヨネ?

「今血の匂いがした! 何があった!?」

「は? 血? えと、えっと……ひょっとしてこれの事?」

 詰め寄るゼライドに驚きながらも、ユーフェミアは左手の人差し指を立てて見せた。その指の先から血が一筋流れ出て指の側面をゆっくり伝って流れる。それを見たゼライドの瞳が急に光を増した。

 ——何?

 その瞬間、ユーフェミアの思考は飛んだ。

 背中がシンクに押しつけられて折れそうだ。きつく握られた手首も。そして左手の人差し指は――

 指は。

 無心に血を舐め取る男の口の中だった。

 このキッチンにいるとこんな事がしょっちゅうあるのだろうか?

 まるで赤子が母の乳を吸うように、子猫が皿のミルクを舐めるように、ゼライドは目を閉じてユーフェミアの指をくわえている。指の傷は小さくとも結構血が出るものだ。

 芋の芽を取ろうとして使い慣れない細身のナイフの切っ先を突き刺してしまったから、小さい割に傷は深い。思わずあっと叫んでしまったくらいなのだ。慣れない所で慣れない事をするものではない。そう、ユーフェミアが思った時に、血相を変えたゼライドが飛び込んできたという訳だ。

「……」

 男の舌は意外なほど柔かい。そして熱かった。ユーフェミアの細い手首を両手で握りしめ、祈るような仕草で何度も丁寧に滲み出る血をぬぐっていく。赤い舌が生き物のようだ。意外に長い睫毛をしっかり閉じた彫りの深い顔はとてもセクシーだった。

 ——こ、これって……

 それはある意味、性行為にも通じる行いだった。確か先日、自分もパクリとこの男の指をくわえた事があったが、その時はただふざけて見せただけでここまではしなかったし、直ぐに離した。ゼライドのほうだって何も感じてはいなかった筈である。

 ——だけど、するのとされるのとではこんなに違うの? あの時ゼルが平気だったのは、私に何も感じていなかったからよね? 何で今こんな事するの?

 ——もう何が何だか……

 混乱の極みのユーフェミアは膝が崩れ落ちそうになるのを、爪先を床に押しつけて何とか支えている。だが、もう限界だった。濡れた舌先が指を上下する度にぞくりとする何かが体を走り抜ける。与えられる刺激はそれほど強くもないのに、体中の血が熱くなった。彼の触れている所から熱が全身にひろがってゆく。

 ——ああ……だめ、もう……

「やぁ……」

 口から洩れた言葉は小さくて、殆ど無意識だったかもしれない。しかし、男ははっと目を開けると、弾かれたように後ろに跳び退いた。

「お、俺は何を……」

 白い指から滴る血を見てからの記憶が飛んでいる。

 ——俺は今何をした?

 ゼライドは吐き気を堪えるように両手で口を抑えた。見事な銀髪が吹き出した汗で額に貼りつき、浅黒い皮膚の色も白茶けている。

「お……俺は、俺は……」

 彼はじわじわと後退し、とうとう背中を壁にぶつけると、がくりと腰を折ってしまった。今までゼロだった二人の距離が大きく開いている。それは見た目の幅ではない、もっと遠い空間だと言う事を示すような男の態度だった。

 ユーフェミアは何が起きたのか、まだよく理解していなかったが、ゼライドが混乱の極みにある事だけは分かった。恐慌状態と言ってもいいだろう。痛々しく顔を覆い、吐く息が乱れている。

 —— 一体どうしたのかしら?

 自分の血を舐めたことが原因なのだろう。だが、確かにものすごく驚いたが、別に暴力を揮ったりした訳ではなく、ユーフェミアの指の怪我を舐めただけの事なのに。

「す……まねぇ……すまねぇっ!」

「……ゼル……?」

「俺……俺は、そんなつもりはっ……! すまねぇ……」

「え……っと」

 ゼライドが苦悩する様子にどうしていいのかわからず、ユーフェミアは途方に暮れていたが、すぐさま言語能力を回復させた。

「あのね。私、別に怒ったわけじゃないよ」

 それは、思いがけず失敗して泣いてしまった幼子に、母親がかける言葉と同じものである。

「混乱しなくていいのよ?」

 その言葉にゼライドは僅かに身を起こした。

「……違うんだ。これは違うんだ。俺はお前に……その、いやらしい事をしようとした訳じゃなくて……」

 血を見た瞬間意識がぶっ飛び、貪るように血をすすっていた。そして、ユーフェミアは気がついていないが、彼の雄はレザーのボトムの中で猛りきっているのである。今この瞬間も。

「だから怒ってないってば」

 まるで叱られるのを恐れる子どもがするように身を丸め、おろおろと視線を泳がす男を宥めようと、ユーフェミアはしゃんと立って近づいて行った。これは何とかしないといけない。そう心に決めて。

「来るな! 俺は……」

 だが、ゼライドは身をよじってユーフェミアの視線を避けた。

「私は大丈夫。ナイフでちょっと切って血が出たの。あなたが舐めてくれたからもう止まったわ。まったく慣れないお料理なんかするもんじゃないわね」

 すっと腕を伸ばして髪に触れようとした刹那、ゼライドは又怯えたように一歩退いた。こんなに立派な男が、自身の容積の半分も無いユーフェミアに怯えて目を逸らしている。微かに震えてさえいるようだ。

「ゼル?」

「済まねぇ……。だが、俺を見ないでくれ、頼む。直ぐに良くなるから」

 そして彼は思い切り顔を歪めると、来た時と同じくらいの勢いで身を翻し、部屋を飛び出していった。

「え!? ちょっとゼル!?」

 取り残されたユーフェミアは、慌てて彼を追い掛けたが、既にゼライドはホールにも階段にもいなかった。二階に上がって彼の部屋の前に立つ。いきなり入ってはいけないだろうと、ちょっと覗いて気配を探り、思い切って声を掛けて入ってみたが、そこにも彼の姿は無かった。そして同時に、殆ど何も無い伽藍堂のような部屋に唖然とする。

「何これ」

 広い部屋の中央に巨大なベッドがぽつんと置いてあるだけの部屋。唯一の家具のそのベッドだけは確かに立派で天蓋までついているが、本体は硬いマットレスが敷いてあるだけで、枕も布団もシーツすら無い。悪いと思ったが思い切って傍に寄り、マットレスを両手で押してみると、何やらいびつな感触がある。苦労してマットレスをずらしてみると、ベッドとの隙間から大きなサバイバルナイフが二つも出てきた。鞘には入っておらず、青光りする刀身にユーフェミアの顔がうっすらと映る。刃には鋸歯きょし状のギザギザが刻んであり、殺傷能力が著しく高そうだった。持ってみるとずっしりと重い。それは明らかに戦闘用の武器であった。

「あわわわ」

 こんなもの凄いナイフを見たのは初めてだった。彼の仕事の本質を垣間見た様で、ユーフェミアの額にうっすらと汗が滲む。

 ——眠る時でさえ、危険なこともあったのね。

 見てはいけないものを見てしまった気がして、ユーフェミアは刀身を慎重に鞘に戻す。そしてナイフとマットを元の位置に直した。おそらくまだこの部屋にも、家の中にも他に様々な武器が隠してあるのだろう。彼女が気づかないだけで。

 ユーフェミアは立ち上がって何もない室内を眺めた。ここまで来たら、もう同じだろう。開き直り、自分勝手な理屈をつけてもう少し部屋を見せて貰う事にした。

 クロゼットを開けると黒い服が幾つか吊ってあった。レザーの上着とボトムが数本。その下に着るのだろうアンダ―シャツやコットンシャツもある。全て黒だ。上着やボトムには金属の飾りが入っているのもあるが、何れも新品か、クリーニングしたてのようである。床には頑丈で重そうな長靴ちょうかが二つ。壁には拳銃やナイフを身に付ける時のホルスターが数種類吊るしてあった。そして奥の壁には大型の銃器が幾台か専用の棚に収められていた。おそらく弾も装填済みなのだろう。それらにはさすがに怖くて触れられない。ユーフェミアはそっとクロゼットを閉めた。改めて部屋中を見渡す。

 この部屋には安らぎや寛ぎを与えるものは何一つ見当たらない。横のバスルームにも入ってみたが、やはりそこにも殆ど何も無く、棚に新品の石鹸と白いタオルだけが積んであった。

「一体彼はどんな生活を送っているのかしら?」

 ユーフェミアは彼の事を何にも知らない。名前の他は。年齢でさえも。聞けば教えてくれるのだろうか?

 ——今はそれもダメね。

 ユーフェミアは肩を落として部屋を出た。相変わらずゼライドの姿も気配もない。探しても無駄だろう。彼が自分から出てきてくれるのを待つしかない。仕方なくキッチンに戻って作りかけの料理を見ると、忘れていた空腹感が戻ってきた。

 ——やっぱり何か作って待っていよう。もしかしたら彼が戻ってきた時にお腹が空いているかもしれないから。

 ユーフェミアは今度は慎重にナイフを使い始めた。極めていい加減に切った肉と野菜を鍋に入れて火にかける。気になって何度かホールに出てみたがゼライドの姿は見えなかった。この家から出て行ってしまったのだろうか?

 どうしてゼルはあんなに悲しそうな顔をしたのだろう? 自分の血を舐めたことが動揺させたのだろうか? ユーフェミアは少し驚いただけで、別に彼を責めた訳でもないのに。

 ——きっと何かあるんだ。

 考えても無駄だとは思うが、考えずにいられない。

 彼は自分を責めていた。それは間違いない。だが何一つ話してはくれない。野人のゼライドには人に言えない秘密が幾つあるのだろう。一つ言えるのは他人を信用していないのと、人間が余り好きではないと言う事か。ユーフェミアに対して少しだけ優しいそぶりを見せたかと思えば、直ぐに元のように素っ気なくする。おそらくそれは彼女に対してだけでなく、殆どの人間に対してそうなのだろう。

 ——パルさんには、パルさんに対してはどうなのだろう?

 それは彼の口から聞いた唯一の他人の名だ。それも幾度となく。聞いた限りでは何度もこの家に出入りしているようだ。おそらく主がいない時に来るのだろうが、ユーフェミアは一度も会ったことが無い。だが時には仕事の打ち合わせなどをこの家でする事もあるのかもしれない。今は自分がいるから姿を見せないだけで。

 —— 一体どんな人で、ゼルとはどこまで親しい間柄なのだろう。そもそもどういう人なのだろうか。

 その事についても何も聞けていなかった。彼女が有能である事はこの家の管理の様子や、何よりゼルの話し方を見ていればわかる。おそらく一番信頼しているのだろう。そうでなければ彼がこの家に出入りさせる訳はない。いつか会える時が来るだろうか?

「……」

 しかし、その考えはユーフェミアを愉快にしなかった。パルの事は何も知らないが、会えばゼライドの事を何か聞けるかもしれないのに。

 ぼんやりしている内に鍋の中身が煮え始め、ユーフェミアは気を取り直すことにした。今他に何ができると言うのだ。取りあえず料理に集中する。スープのアクを取り除いてから半練り状のルーを入れた。これはカリ―ペーストと言って、非常に優秀な調味料で、姉のエリカの曰く、誰が作っても失敗する事のない料理だそうである。父や姉の民族の祖先が発明したものらしい。以前姉が作って見せてくれた時のパッケージを覚えていたのでユーフェミアも作ってみたのだ。

 やがて雑に作ったにしては美味しそうな香りが漂いはじめる。この匂いを嗅いでゼライドも帰ってきてくれないだろうかと思いながら、ユーフェミアはパンとカリーで簡単に夕食を済ませた。

 ——もっとよく知らなければ。

 ゼライドの事も、そして野人の事も。

 ——知らないと近づけない。

 だがそれでも、一つだけぞくぞくするような事が起きたのだ。

 さっきゼライドが部屋に飛び込んできた時、「ユーフェミア」と、彼女の名を初めて呼んだ。今まで「お前」だとか、「あんた」としか言った事がなかったのに。慌てていて無意識だったのかもしれないが、それは間違いなく確かなことだった。

 ——それだけでも少し前進よね?

 ユーフェミアは少し笑った。


 バサバサバサ

 ティプシーが薄い皮膜の羽を広げ、不器用に屋根に着地する。飛ぶのは得意でも着地は苦手なのだ。ゼライドが腕を差し出してやると、いそいそと肩までよじ登る。彼等の頭上は無窮むきゅうの藍である。夏の終わりの夜空に星は余り見えないが、月明かりがそれを補っていた。

「いいよな、お前は自由でさ」

 大屋根の上に座り込んだ男は、擦り寄ってきたティプシーの首を掻いてやる。獣は甘えてキュウと喉を鳴らした。

「いいんだぜ、ティップ。気を使って暮れなくったって。まぁ、今は少々くたばっちゃあいるが、普通の人間に比べたらよっぽど自由な方だからな」

 ギャア?

 ティプシーは首を傾げた。

「いいってよ! 俺にかまわずに飛んできな。夜はまだまだ長いぜ」

 くちばしで髪を引っ張り始めたティプシーをひと撫でしてやると、ゼライドは腕を大きく振った。ふわりと獣が舞い上がる。風も無いのにうまいもんだとゼライドは思った。

 ——もう眠っちまったかな?

 さっきまではキッチンで音がしていて、娘は何やらぐつぐつ煮込んでいたようだが、あれから二時間余り、屋内は静まり返っていた。よっと立ち上がると、ゼライドは軽く屈伸し、裏庭に向かって跳躍する。ユーフェミアが来てからは全てのセンサーをオンにしているので、地面を歩くより飛び降りる方が手っとり早い。彼は音も無くガレージの前に着地するとセンサーを一旦切り、手動で扉を開けた。灯りは付けないでおく。

 ガレージは広く、車が二台と大型のバイクが入ってもまだ余裕がある。ゼライドは奥に進むと、工具箱の間に置いてある青いボックスの蓋を開けた。ビニールに包まれていても肉と血の匂いが鼻を突く。彼は袋に手を突っ込んで、一掴みの肉を取りだすと、鋭い犬歯で噛み切った。にちゃにちゃと湿り気のある音が妙に生々しく聞こえた。

 ——見ろ。汚らわしい。

 ぐちゃりと肉を噛みしだく。

 ——そうとも。これが俺だ。

 血まみれの肉を咀嚼する。味など関係ない。これが彼――野人の食事なのだ。天上の闇のもとでも、屋内の小さな闇の中でもその瞳は青銀に光る。紛れも無く「人」ではない、おぞましい化け物。

 嚥下するごとに腹と心の飢えが満たされてゆく。余程かつえていたようだった。ゼライドは夢中になって食べ続けた。

「……ゼル?」

 微かな声にぎくりと手が止まる。瞳だけがきろり動いて後ろを見た。見なくてもわかる。なぜ気づかなかったのか。あの小さな影に、気配に。

「いるのね?」

 その声はひどく優しくゼライドの耳に響いた。






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