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甘めの殺意と凶器マニア

作者: 東条 合歓

没作品だったんですけど、書いてみた。

主人公、浮島に関してはまた他にも書きたい。

都内某所。

閑静な住宅街に朝からパトカーが数台停車していた。閑静な、しかし昼間はそれなりに多くの子連れの主婦が集まって井戸端会議をするような、そんな市民憩いの場となっている公園を有するこの住宅街だ。

駅が各停しか止まらないような場所にある為、パトカーが出動を要請されるような騒動などはとても珍しく、よく目立っていた。出勤時間で家を出ていく会社員や、暖かそうなコートを着込んだ学生たちが皆パトカーを見て「なにがあったのだろう?」と首をかしげていた。

そんなたくさんの視線を背中に感じながら、警視庁捜査一課の警部、松本(まつもと)和彦(かずひこ)は深く息を吐く。オールバックにした前髪に指を通しながら階段を昇り、マンション五階の角部屋を隔離するように黄色いテープをくぐった。それから白い手袋を嵌めて靴にビニールを被せ、敬礼する部下達に軽く手を振って、開け放したままの扉から玄関へと足を踏み入れる。短い廊下の先、リビングの扉の前でしゃがんでいた知り合いの鑑識が彼の姿を見つけて立ち上がった。松本はコートのポケットに突っ込んでいた手を抜き、片手をあげる。鑑識の人の良さそうな中肉中背の彼は律儀に足をそろえて頭を下げた。

「松本さん、おはようございます」

「よう。指紋はとれたか?」

松本の問いに彼は首を横に振る。そして少し肩を竦めつつ、振り返るようにしてリビングに視線をやった。そちらにも数名の鑑識がおり、カメラのシャッター音が聞こえている。仕事熱心な彼らと目は合わず、松本の存在にも気が付いていないらしい。それを見たまま会話を交わす。

「全くですよ。被害者の物は多くありますけど、あとは全然」

「そうか……他に、何か特別な事とかは?」

松本が彼を横目で見つつ尋ねると、人の良さそうな顔を少し暗くさせた鑑識官は少し考えてからとある事を口にした。それを聞いた松本は眉間に皺をよせ、顎に手をやって黙る。捜査で外を回ることが多いためにそれなりに日焼けした顔は、一層その眉間の皺を深く見せた。その対比となるように肌の白い鑑識官は困ったように笑う。少しの沈黙をおいて、松本は深いため息を一つ吐く。そしてとても望んでいないように、苦々しくその名前を口にした。

「……浮島に頼むか」

お疲れ様です、とねぎらいの言葉を苦笑と共に向けた鑑識の良心に、松本は一度だけ頷いてこの部屋の他の場所を見ようと踵を返した。


******


「なるほど、それで僕の所にわざわざ来たんですね」

「分かってるなら言うな、俺もこの現実から目をそらすのに必死なんだから」

眉間を指で揉みながら言った松本に、その向かいのソファに座っている艶やかな黒髪の青年は両手でわざとらしく口を塞いだ。

現場を見て回った後松本が訪れたのは、杉並区に存在する住宅街とオフィス街の狭間辺りに位置する一軒の二階建てビルである。その一階は彼が不本意ながら通いなれた事務所であり、そして今現在松本の前に座っている青年が、この事務所……警察と協力関係にある公認探偵事務所のひとつ、「浮島探偵事務所」の所長であり唯一の探偵だ。名前は浮島(うきじま)(かおる)

年齢は二十代後半らしいが、真ん中で分けた黒髪の豊かさや落ち着いた印象の目などから大人びても若くも見えるために、実年齢は見ただけでは分からない。「まだ三十路じゃないです」と自己紹介や職務質問の度に言っているので、二十代である事だけは確認済みである。十人中十人が、とまではいかないが、二人くらいは振り向くかもしれない程度に整った顔立ちをした男である。シャツに白黒の縦縞のベスト、手には黒い革の手袋、黒いスラックスといでたちだ。青年、浮島は手を口元から離し、そして足を組んでソファの背もたれに背をもたれさせた。

「にしても、アポ取らないで来るの、いい加減やめてもらえないですかね。こちらにも都合があるんです。今日は暇だったから良いですが、依頼人が居たら叩き出してますよ」

「いいだろ、どうせ暇だったんだから。それに、もし来客があって入れなかったらお前の助手に伝言を頼むつもりだった」

松本はポケットからくたびれた煙草の箱を取り出して一本抜き、口にくわえてライターで火をつけた。「百均ライターですか」と呟いた浮島にうるさいと言いつつ紫煙を天井へと吐き出す。その独特の匂いを有する煙はすぐ空調に吸い込まれていった。それを見上げながら、奥の部屋からお盆を持った少年が歩いてくると、ふと視線を前に戻して松本の疲れた顔を見て苦笑し、お盆に乗せていたマグカップを二人の間にあるローテーブルに置いた。

「お疲れ様です、松本さん。浮島さんもあんまりちょっかいかけないであげて下さいよ、刑事って大変なんですから」

「ちょっかいなんてかけてないですよ、キョウキ君。私は至って真面目です」

「真面目なところは滅多に見れませんけどね。あと俺の名前はキョウキじゃなくて慶喜です」

少年、比嘉(ひが)慶喜(よしのぶ)は苦笑交じりに答えた。彼は小柄な身長と明るい茶色の髪色、更に童顔であるために高校生にも間違えられることが多いが、れっきとした大学に通う十九歳である。学費を稼ぐためにこの探偵事務所で助手と事務のアルバイトをしながら、朝と夕方に大学で教育学を学んでいる彼は、ここに訪れる松本とも勿論顔見知りで、人とのコミュニケーション能力に難がある浮島に変わり依頼人の心のほぐす好青年だ。因みにこの事務所に通って3年目の今でも浮島からは「キョウキ君」と呼ばれ、「慶喜」と本名で呼ばれることはない。

比嘉は立ち上がり、お盆を台所に置いて戻ってくるとコーヒーを冷ましながら飲んでいる浮島の隣に腰掛けた。そして首をかしげて問いかける。

「それで、今日はどうしたんですか?松本さん。やけに疲れた顔をしていますけど」

「疲れた顔の原因のほとんどはお前の隣にいる奴だけどな。……殺人事件が起きてな、密室だったからトリックを解明してもらおうと思っただけだ」

松本の答えに、浮島と比嘉は同時に「へぇ」と目を丸くした。密室での殺人事件などそうそう起こるものではない。しかも同じ杉並区だ。比嘉は頬を人差し指で掻きながら「珍しいですね」と呟く。

「被害者の名前は板橋(いたはし)陽子(ようこ)。都内のマンションに一人暮らしの二十五歳。大学入学のために上京し、そのままこっちの会社に就職した。実家は栃木県北部のほぼ県境辺りらしい」

「へぇ、女の人ですか。マンションのセキュリティはどうだったんです?」

「オートロックだ。でも今のところ不審な人物が来たという話は聞かない」

「当たり前でしょう、そんなのが居たら事件は未遂で済んでる」

呆れたように言う浮島に松本は「うるさい」と言った。しかしその言葉は本気で怒ったわけではないらしく、すぐに溜息を吐いて紫煙を吐き出す。

「被害者はベッドの上であおむけで横たわっていた。特に衣服の乱れもないが、現金が数万円取られていたな。エアコンはつけたままで、リモコンは床に落ちていた。扉も普通のカギとチェーンロックがかけられていたな。扉のカギについてはポストの中に入っていた」

「仕事はなにを? それと死因は?」

「調理器具メーカーの会社に勤めていた。胸を刺されたことによる失血死。目は閉じていたらしいな。容疑者は手袋をしていたのか指紋の検出もないが、手つかずのコップが二個テーブルに置かれていたから顔見知りである可能性が高い」

松本の答えに、浮島はふむ、と腕を組むと視線を下にやって考える。いちいち絵になる動作だが、すぐに視線をあげると彼はなんでもないように、まるで今日の夕飯のメニューを聞くかのように平然と尋ねた。

「一人暮らしの女性を死に至らしめたその凶器はなんだったんですか? まず先にそれを尋ねるべきでしたね」

その目はとても輝いていた。松本はそれに嫌そうな表情を隠さず、「見つかってない」とだけ答える。途端に目の輝きは消え去り、浮島はつまらなさそうにソファの背もたれに体重をかけた。比嘉が苦笑しながらその肩を叩く。

「浮島さん、自分で凶器を見つけるのも面白いかもしれませんよ?」

「……もしそれで、ありふれて平凡な果物ナイフと包丁とか面白味のない物だったら、私一週間仕事しませんからね。拳銃でも嫌ですよ」

拗ねたような口調に、比嘉は慣れたように「珍しいと良いですね」と答えた。松本はその様子を見ながら「だから来るのが嫌だったんだ」と心の中だけで言う。

探偵を営んでいる浮島薫は、病的なまでの凶器マニアだ。ちなみに比嘉に凶器に関する話を振った事は今までの三年間で何度もあるが、比嘉は笑って「どんな殺され方よりも老衰が一番好きです」とその全てを受け流している。

松本と顔見知りなのはその奇妙な趣味により殺人現場をうろついているところを発見され、容疑者ではないかという疑いをかけられたからである。その場にいた比嘉以外の全員から訝しげな視線と疑いをかけられながら見事な推理で犯人……というよりも凶器とその使い方、の方が正しい……を見つけ出し、事件を解決させたという経緯があったからだ。ちなみに彼の高校時代からの親友もそれはよく知っているらしく、たまに珍しい凶器の登場する本が送られてくる。

「でも、凶器がないってことは持ち去った可能性が大きいんじゃないんですか? 包丁とかだったら、傷痕で分かるような気がしますけど」

比嘉は話を戻すために尋ねた。松本は短くなりつつある煙草を携帯灰皿の縁でとんとんと叩いて灰を落としながら、少し複雑そうに眉間に皺を寄せる。

「刃物ならある程度傷痕から大きさがわかるんだがな、刃物の傷跡じゃないんだよ」

「……刃物以外で刺殺って難しくないですか? 浮島さん、なんか知ってます、刃物以外で刺殺できるような物」

「氷、鰹節、茶葉、カジキマグロ、ウニ、ヤマアラシ、釘、塩」

「うわ、意外とあった」

拗ねた子供のようにソファに横向きで座って顔を合わせようとしない浮島は、しかし流暢にその例を挙げた。少し頬を膨らませて拗ねていますよアピールをしているが、大の大人がやったところで少しも可愛くない。松本は彼のアピールは無視して吸殻を灰皿の中に入れ、ぱちん、と蓋を閉めた。

「カジキマグロはともかく、他の奴は隠蔽が簡単そうだな」

「ヤマアラシの棘もウニの棘も、刺さったら抜けませんよ。体内に残りますし。釘も一突きじゃ無理ですね。こう、釘人形に五寸釘、みたいな感じで叩かないと」

沖縄の離島出身で動物と海が好きな比嘉は笑顔で身振りを交えながら答える。浮島の影響でか、どんどんとその言葉が物騒になっていく気がして松本は少し怖かった。彼が浮島のようになってしまうと、この探偵事務所で話が通じる人間が居なくなってしまう。たまに遊びに来たついでに仕事を手伝っていく浮島の親友も、さすが彼と長年の付き合いと言うべきか、それなりの変人なので松本にとって比嘉は命綱なのだ。なら事務所に来なければいいだけの話だが、なんだかんだ言って頼りになるので仕方がない。

「……じゃあ、やっぱり食品系か? 氷とか塩なら、推理小説にも登場するだろ? なんか、前に見た記憶がある」

「あぁ、塩の弾丸ですね。体内に残っても分解されて吸収されちゃうから弾が見つからないって言いますよ。氷も、まぁ……おんなじ感じでしょうか。エアコンがつけたままだったら、簡単に溶けちゃいそうですし」

比嘉が答え終わったそこで、松本は話を区切った。これ以上口頭で説明するよりも、見た方が遥かに理解が早いだろう。立ち上がり、マグカップの中の少し冷めたコーヒーを飲み干す。

「じゃあ現場行くから支度しろ。車は出してやるから」

「当たり前ですよ、徒歩だったら僕は行きません。こんな寒い冬の日に外出するなんてありえない。狂気の沙汰です」

比嘉から黒いコートを受け取りながらぼやいた浮島に「寒がりめ」と松本が言うが、彼は素知らぬ顔で「どうとでもいいなさい」と言って手帳を取りに階段を上がっていった。比嘉は台所にある、椅子の背に引っかけていた赤色のダウンジャケットを着て、エアコンを停めたり換気扇を止めたりと出かける準備を始めた。てきぱきと片していく様子はとても手馴れていて、一介のアルバイトにはまるで見えない。松本は思わず思ったことを口に出していた。

「……比嘉、お前も大変だな」

「あはは、松本さんこそお疲れ様です。俺は好きでやってるから良いんですよ」

比嘉は人懐っこそうに笑い、階段を降りてきた浮島は二人をちらりと見ると「行きましょう」とだけ言って玄関の方へと歩いて行った。二人もそれを追い、松本の運転する車で事件現場へと向かう。外に放置していたために冷え切った車内が暖かくなるまで、浮島はずっと後部座席で丸くなって冬の悪口を言っていた。


******


雪か雨でも降りそうな鉛色の空の下、事件現場は朝よりも人が少なかった。野次馬の数も少なくなっており、浮島と比嘉はすぐ車から降りる。見慣れぬ二人組の登場に訝しげな視線を送っていた警備中の巡査も、後から降りてきた松本が同伴者だと言えば三人を中に入れてくれた。淡い黄色に塗られた壁に手をつきながら、比嘉はきょろきょろと周囲を見回す。

「それなりに新しいマンションですね。俺の住んでる所より良いです」

「そうだな、被害者も就職してから移り住んだらしい。……ほら、現場は五階の角部屋だ、行くぞ」

松本に連れられ、三人はエレベーターで五階へと上がる。角部屋の少し手前で黄色いテープが張られており、そこにも警察官が居た。しかし同じように松本が紹介するとテープを持ち上げて中に通してくれる。現場を荒らさないでくださいね、と前置きされて手渡されたビニールを靴に被せ、彼らは玄関の扉を開けた。番号の書かれた札が置かれているのを見て、「事件現場なんですね」と比嘉が呟いた。松本はフローリングの廊下に上り、さっさとリビングの方に歩いていく。それを追いかけようとした比嘉を、とんとんと肩をつついて浮島が止めた。

「キョウキ君、ここ見てください」

「え? どうしたんですか、浮島さん」

振り返ると、少し屈んで扉の方に向き合っていた浮島は指を曲げて見るように促す。比嘉がそれを覗きこむように見ると、それはなんの変哲もないチェーンロックのようだった。鎖の先についたつまみを縦型の溝に入れて占めるタイプの物だ。首を傾げた比嘉に、浮島はその一か所を指さす。

「この辺りに水が乾いたような跡があります」

「え?」

言われてよくよく注視してみると、確かに白っぽい不格好な線が出来ている。小さな、真ん中が盛り上がった山のような輪郭だ。比嘉は少しそれを見つめながら考え、それから浮島の顔を見て小さく言う。

「……氷、ですか?」

「正解です」

浮島は目を細めて小さく笑い、そして人差し指を振りつつ饒舌に語りだす。

「氷を溝の上に置いて、その上にチェーンロックのつまみを置いたんでしょうね。エアコンがついたままで氷は解け、チェーンロックがかかる。氷に凹みをつけておけば、扉の外側からでも簡単です。もしかしたら、溝に氷の塊を押し込んだのかもしれませんけど、まぁそれは些細な問題ですから除外しましょう」

「なるほど、じゃあ氷を削ったりしたんでしょうか?」

「まぁ、そのくらいなら何を使っても出来るでしょうからね。密室についてはこの簡単なトリックだと思いますよ」

浮島はそう言って姿勢を正すと踵を返し、リビングへと歩いていく。比嘉もそれに続き、開け放したままの扉をくぐってリビングに入った。中は程よく整理がされているワンルームで、オレンジの雑貨が程よく部屋を明るく見せている。ベッドの布団もほとんどがどす黒い赤色に染まってしまっているが、淡いオレンジの水玉で、その上には紐で人間の形が縁どられていた。この場所で死んだのだと、そう思わせるたった一本の紐。比嘉はそれに向かって手を合わせてから、革の手袋をつけたまま部屋を物色する浮島に声をかける。

「どうです、何か見つかりましたか?」

「いえ、特に目立つものは……松本さん、彼女の趣味とかそういうの、分かりますか?」

浮島は台所の方を見ながら、本棚を見ている松本に問いかけた。ポケットに手を突っ込んだままだった彼は声をかけられて顔をあげ、そして少し考えた後に頷く。

「あぁ、菓子作りが趣味だったと被害者の友人が話してたな。机の上にも手作りらしいクッキーが置かれていた。台所にも鍋が置かれたままだった」

「そうらしいですね。水につけたままのミキサーと、この鍋の中身は……」

浮島は台所に入り、シンクを覗きこんだ。アルミ製のボウルとミキサーが水を張られた状態で置かれていて、まだ全て蒸発してはいなかったが、少し水位は下がっているようだった。特に洗われたわけでもなく、生地が残っている。作業台にも製菓道具が置かれたままで、コンロにも湯せんされている小さな鍋が置かれているままで、中には薄く茶色がかった何かがこびりついている。手袋を外してそれを人差し指でそぎ取ると、ぽろぽろと崩れた。口に含むとすぐに独特の甘みが広がる。

「砂糖、ですかね」

「ん、何か見つけましたか?」

「いえ、ただの料理の痕跡です。鍋の砂糖といい、ミキサーとボウルといい、クッキーを作るのにでも使用したのでしょう」

比嘉は出来る限り家具や物にぶつからないようにやってきて、鍋を覗きこんだ。「砂糖も作るんだ」と感心したように呟く。浮島は台所から出て、洗面所の方を見ている松本に声をかけた。

「一緒にいた人間が誰か、というのは分かっていないんですか?」

「大学時代の友人だな。昨日の昼から遊びに来てたらしいが、急に仕事場から呼ばれて夕方四時前後に外出、夜遅くまで帰ってこられなかったらしい。死亡推定時刻の夕方六時にはタクシーに乗っていたらしい。十一時に帰宅したが鍵が閉まっていて、インターホンを押しても出てこなかったので寝たのかと思い、メールだけ送って家に帰ったらしい。翌朝、忘れ物に気が付いて取りに来たが鍵はまだかかっていて、それで大家に鍵を開けてもらったと」

「それでチェーンがかかっていて入れなくて、彼女はどうしたんですか?」

「朝とはいえどももう昼近かったからな、不審に思って通報して、死亡しているのが見つかったらしい。死亡推定時刻は夕方六時から七時にかけてだ」

浮島の問いにリビングに戻ってきながら松本は頷いた。浮島は鍋の中身をじっと見ている比嘉を一瞥し、すぐに視線を前に戻す。目が合ってから、松本は再び口を開いた。

「因みに、結局ポストに入っていた鍵は被害者が持ち歩いているもので、普段は机の上に置かれているらしい。軽い不眠症で睡眠導入剤を服用してはいたが、本当に眠れないときに服用する程度で、毎日使うわけではないらしい。それはベッドサイドの引き出しの中に入っていた。他に不自然な点はない。包丁もなくなっていない」

「へぇ…」

浮島は口元に手を当てつつぐるりと周囲を見回した。それから少し黙り、比嘉を振り返る。

「キョウキ君」

「はい、なんですか?」

「そのゴミ箱に布がないか探してください。あるいは植物などの繊維が入っていないか」

了解です、と比嘉はにこやかに笑ってゴミ箱の前に膝をついた。そのまま中身を全くの抵抗なく腕を突っ込んで探し始める。松本は慌てて浮島に声をかけた。

「おい、なにか分かったのか?」

「まだ勘の範疇ですけどね」

浮島はそっけなく言い、そして自分も何かを探しに行った。一人置いて行かれる形になった松本は首を傾げ、それから風呂場をもう一度見に行く。そして少し経ち、比嘉のそれなりに大きな声が彼にも聞こえた。

「見つけましたー」

それを聞いて松本がリビングに戻ると、比嘉が何かを両手で持っていた。浮島もそれを見て腕を組む。「よくやりましたね」という珍しい褒め言葉に比嘉も嬉しそうに肩をすくめて笑った。大股でそれに近づきつつ、声をかける。

「何を見つけたんだ?」

「植物の繊維です」

「植物の繊維?」

不思議そうな顔の松本に「そうですよ」と浮島は頷いた。珍しくその目はキラキラと輝いており、嫌な予感がしたが回避には遅すぎた。比嘉のハンカチの上にある小さな植物繊維らしきものを指さし、浮島は興奮気味に話し出す。

「犯人もよく考えたものです。凶器を隠蔽するために捨てるのでも持ち帰るのでもなくその形状を変えて放置するという選択肢はなかなか思いつきません。さすがはお菓子作りが趣味である被害者の友人、と言ったところでしょうか。おおむね、睡眠薬で眠らせてその植物を用いて刺し、抜いて、そしてその凶器を加工し、エアコンをつけて扉の仕掛けなど諸々の事をしてから家を出たんでしょう。失血死は意外と死亡推定時刻がずれますからね。ちゃんと調べてからの犯行かもしれません」

「ちょ、ちょっと待て、浮島。その凶器ってのは何なんだ」

松本は慌てて口を挟む。しかし浮島は興奮冷めやらぬ様子でそれには答えず、代わりに比嘉が苦笑しながら説明した。

「サトウキビです」

「サトウキビぃ?」

「はい、イネ目イネ科サトウキビ属のサトウキビです。甘蔗とも言います。ウージですね」

当然のように比嘉は説明した。松本は至近距離からその布を注視する。しかしこれがサトウキビだという事はよく分からなかった。それを表情から理解したのか、比嘉は笑顔のまま言う。

「サトウキビは名前から分かる通り砂糖の原料です。茎を裂いて皮剥いて折ってミキサーで細かくして布で包んで絞って汁を集めて、少し放置したら分離するので布巾でこして、湯せんで加熱。そうすると砂糖になるんです。大体加熱に三時間から四時間、計五時間くらい、ですかね。これ、凄く固くて簡単に刺さるんですよ。沖縄では交通事故で放り出された人が刺さって死んだりします」

「……物騒だな」

若干引いている松本に比嘉は「なんくるないさー」とだけ答えた。浮島はそれに頷き、そして壁にかかったアナログの時計を指さし、再び口を開く。

「恐らく犯人は湯せんを始めた後は放置したでしょう。となると、砂糖が出来上がる五時間前には確実にこの家にいたという事です」

「……死亡推定時刻の五時間前に居たその友人が怪しい、ってことだな」

「まだ確証はありませんけど、とりあえず可能性としては」

松本が理解して顔をあげると、浮島は気持ち悪いほど幸せそうな笑みで頷いた。せわしなく歩き回る姿は檻の中の熊のようだが、それなりに美形で細身なので熊と言うより豹くらいが似合うだろうか。比嘉の少し生暖かい視線も全く気にせず、浮島は松本に言う。

「とりあえずその友人とやらを取り調べをするべきです。できれば私も同席させてください。このような殺害方法を思いついて実行してここまで警察を欺こうとした人に私も会ってみたいです。是非お願いします。捜査に協力したのでそれくらいは許されますよね?」

「……マジックミラー越しなら許す」

「ありがとうございます」

浮島は頭を下げ、そして鼻歌でも歌いそうな勢いで玄関へと歩いて行った。比嘉はポケットの中に入っていたビニール袋を取り出してその繊維を入れ、松本に差し出す。眉間を指の腹で揉んでいた松本がそれに気づいて受け取ると、彼はにこりと笑った。

「お疲れ様でした、松本さん。探偵の助手の出番は終わりなんで、あとはお願いしますね」

「あぁ……お疲れ。お前先帰るのか?」

「はい。あまり長時間事務所を空けておくのも不安なので。散歩がてら帰りますから、浮島さんはお願いします」

比嘉の言葉に松本は心底嫌そうな顔をした。浮島にずけずけと物を言える比嘉が居ないと扱うのがまた困難になるのだ。しかし比嘉は頭を下げ、悠々と歩いていく。溜息を吐きながら松本も部屋を出ると、既に廊下には浮島しかいなかった。組んだ腕を手すりに乗せて周囲を見ていた彼は松本に気付いて振り返り、姿勢を正す。

「キョウキ君は帰るそうです。早く署に行きましょう。そして取り調べを私に見学させてください」

「……言っておくが、すぐには会えないからな? 今、その被害者の友人は第一発見者だって事で署にいるだろうが、都合がある。下手すると明日とかになるぞ」

「いいです。署で寝泊まりします」

「泊まるな。帰れ」

「帰りません」

二人はなかなか来ないエレベーターの代わりに徒歩で階段を下りながら、そんな会話を交わした。浮島の目は輝いたままで、これでは何を言っても帰らないと判断した松本は深く息を吐く。吐いた息はそのまま白くなり、灰色の空へと上がっていく。少し天気は持ち直し、雲は薄く、少しだけ明るくなっていた。二人を乗せた車は、事件現場を背に冷たい道路を走り去る。


******


「結局、どうだったんですか? 取り調べは」

そんな言葉と共に机にコーヒーが置かれ、パソコンを操作していた浮島は顔を上げた。前に立っていた比嘉は目が合うとにこりと笑う。それに何も返さず、マグカップの取っ手を持って中に息を吹きかけつつ、彼は口を開いた。

「クロでしたよ。彼氏関係の怨恨が犯行の動機でした。実につまらない」

「でも、あの凶器は初めてでしたよね。沖縄県民くらいしか知らないんじゃないですか? サトウキビがあんなに固いだなんて」

比嘉は向かいのソファに座りつつ言う。お盆を置く代わりに机の上の書類を整理している辺り、彼の綺麗好きな一面が窺えた。浮島はそれにも何かを返すことはなく、飲める程度にまで冷ましたコーヒーを飲む。彼好みのブラックはいつもと同じ味だった。ほう、と息を吐いてから、浮島は窓の外に視線をやりながら言う。

「恐らくはそうでしょうね。ネットで偶然見たらしいですよ、サトウキビの固さのことを」

「へぇ、そうだったんですか。向こうでは有名ですよ、交通事故で放り出された人が体に刺さって死ぬとかありましたから」

俺の知り合いは大丈夫ですけどね、と比嘉はあっけらかんと笑う。浮島は「そうですか」とだけ返した。そしてまた少し考え、開いていたパソコンのデータを保存してコーヒーを啜る。

(めぐる)に教えてあげたら、面白いかもしれませんね」

「やめてくださいよ。どうするんです、それで本当に沖縄に行って、サトウキビ畑が全滅したら。食っていけなくなっちゃうんで却下です」

笑顔のまま拒否した比嘉に「そうですか」とまた返しただけで、あとはもう会話はなかった。コチコチと時計の針の音だけが響く。あとはたまに比嘉が整理する書類の擦れる音が聞こえる程度で、とても事務所は静かだ。また少ししてから、浮島はふと顔をあげて言った。

「キョウキ君、そろそろ十時です。事務所を開けましょうか」

比嘉はそれに顔をあげ、そしていつも通りの笑みで立ち上がった。

「はい、浮島さん」

そう返事を返して、彼は扉の鍵を開けて看板を出しに出ていく。その背を見送ることはなく、飲み干したマグカップを机に置いて天井を見上げた。

「……とりあえず、久々に手紙でも書いてみますかね。思えば最後に巡に手紙を出したのは三か月前ですか。そろそろ死にましたかね、あの死にたがりは」

比嘉が扉を開けたのか、玄関に取り付けたドアベルがカランコロンと軽やかな音を鳴らすのを聞きながら、彼は足を組みなおしてパソコンの画面を見た。開いたままの真っ暗な画面に映る自分の姿を見つめ、深く息を吐く。また今日も同じように平凡で平和な一日が始まった。今日もこの事務所に、悩む誰かが訪れるのだろう。

「ま、その悩みを解決させるのが私の仕事ですけどね」

浮島はうんざりしたようにそう言って、戻ってきた比嘉に片手を上げた。

          ■完■


推理って難しいね。

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