朝稽古
「はっ」と短く息を吐くと大きく踏み出し、太刀を突き出す。腕が伸び切ったところ、切先を返し、斜め下に薙ぎ払う。切先が下がり切ったところで再び刃を返し、大きく切り上げる。
切り上げから、さらに払い下ろし、太刀を引き戻し、青眼の構えに戻す。ふうぅ、浅く長く深呼吸して、僅かに乱れた呼吸を整える。
早朝の空気は冷たく、吐く息が白い。季節は晩秋から、もう冬になっていた。
ミサキは呼吸を整えると、もう一度先程の形を繰り返す。ゆっくりとなぞるように、一つ一つの形を丁寧に確かめるように繰り返す。それを何度も何度も繰り返す。
早朝のアキバは静かだった。夜更かしていた人々もこの時間になると居なくなり、普通の人々もまだ起き出しては来ない。この誰もいない街角で独り形稽古をするのが、ミサキの日課だった。鎧は着けずに、動き易い袴姿に愛刀の太刀だけで、無心に形を繰り返す。
三十分も経つとじんわりと身体が火照って、自然と呼吸が早くなって来る。ミサキは意識的にゆっくりと静かに息を吐き、吐き出し切ったところで息を止める。心臓の鼓動が耳朶の奥に聞こえて来る。数秒息を止め、今度は浅く息を吸う。
息を吐く、息を止める、息を吸う。それを静かに繰り返す。そうすると、心臓の鼓動が落ち着いて来る。
ミサキは鼓動が落ち着くと、今度は全く別の、憶えたばかりの形を試す。上段に構え、大きく袈裟懸けに斬り下げる。相手が避け、逆に攻撃して来るのを切先で払う。
そのまま踏み込もうとしたところで、唐突に別のイメージが割り込んで来る。ミサキは戸惑い、そのまま動きを止めてしまう。
目を閉じ、軽く頭を振り、そのイメージを消す。そして、呼吸を整え、もう一度繰り返す。
上段に構え、大きく袈裟懸けに斬り、相手の突きを、切先で軽くいなすように払う。そのまま踏み込む。
と同時に、また先程と同じイメージが襲って来る。
ミサキは大きく溜め息を付く。集中できていない。今朝は体調が悪いのかもしれない。病と無縁の<冒険者>といえども、体調の波はある。しかし、こんなことは初めてだった。
ミサキは気持ちを落ち着け、もう一度だけ繰り返す。が、やはり同じイメージが襲って来る。どうしても振り払うことができない。先日に見た路上での決闘していた<狐尾族>の剣闘士が襲って来るイメージが、浮かんで来てしまう。
ミサキは長く深呼吸する。そして今度はイメージを無理に打ち消そうとはせず、そのイメージに形を合わせる。
太刀を突く。<狐尾族>の剣闘士がその突きを軽く避け、太刀を引くのに合わせて、飛び込んで来る。
その速さに対応できない。
そのまま懐に入り込まれ、細剣を撃ち込まれる。
致命傷を受ける。
ずきりと、ミサキは僅かに胸に痛みを覚える。イメージでしかない。しかし、自分が刺し貫かれる様が余りに明確に思い描けるために、本当に痛みを感じるかのような錯覚をしてしまう。何よりも、速さに対応できない自分が口惜しかった。
もう一度同じことを繰り返す。
だが、やはり速さに対応できない。来ると分かっているのに、避けられない。
呼吸を整え、再び繰り返す。だが、結果は同じ。どうしても避けられず、防げない。
何が悪いのか分からない。しかし、自分のスピードが圧倒的に足りないのは明らかだった。もどかしいまでに、太刀が動いてくれない。
愛刀の太刀が重い。これまで重さなど感じたことはなかったのに、今はそれが持ち上げるのにも力を込めないといけないほどに重い気がする。錯覚に過ぎないのは頭では分かっていたが、自分が求める早さで太刀を振るえない。
ミサキは何度もそのイメージの攻撃を避けようとするが、どうしてもそれが出来なかった。
速さが足りない。圧倒的に足りない。基礎的な筋力が不足しているのだ。
今までそんなことを感じたことは一度もなかった。モンスター相手であれば、レベル90の<冒険者>である今のミサキでも不足はない。だけど、それでは足りないのだ。今より上を目指すのなら、ひ弱な今の自分の筋力では全然足りないのを痛感する。
いったいどれくらいそうやっていただろうか。いつの間にか、いつもの稽古時間を大幅に過ぎていた。
完全に息が上がっていた。太刀を鞘に収め、大きく肩で息をする。冷たい乾燥した空気が、一気に胸に入り、肺が痛くなる。その痛みと、自分の不甲斐無さ、無力感で瞼が滲む。涙が出そうだった。
その時、すぐ背後に人の気配を感じ、びくりと振り返る。
「おはよう、精が出るわね」
高山三佐だった。早朝にも関わらず、短く切り揃えた黒髪に映える黒い軍服基調の服を着ており、一部の隙もない。
「おはようございます、三佐」
何気無い風を装い、挨拶を返すが、ミサキは自分の頬がかぁと紅潮するのを感じた。見られた。何時から見られていたのか。どこまで見られていたのか。恥ずかしさで紅潮し、その羞恥を抑えられないことに、さらに恥ずかしさを感じてしまい、一層頬が赤くなる。
「後で私の執務室に来てくれるかしら?」
高山三佐はミサキの内心の狼狽に気が付かない風で、事務的に告げる。そして、そのまま背を向け、立ち去る。
ミサキはその後ろ姿を見送ると、そっと息を吐き出し、空を見上げる。朝靄はすっかり消え、陽が差し始めていた。今日も良い天気になりそうだった。
高山三佐の執務室はミサキが住んでいるビルの一階にあった。ミサキが住んでいるのはギルド支部の一つで、<D.D.D>はメンバーが1500人もいるので、アキバに二十以上の支部がある。小さな物を含めれば五十を超えるかもしれないが、ミサキ自身、正確な数はよく知らなかった。
そして、ミサキが暮らしている支部は比較的大きな支部で、三階以上は女子寮になっており、約五十人ほどのメンバーがそこで生活していた。その中で高山女子は寮長的な立場にあった。一、二階がギルドホール兼共有スペースになっており、そこに高山三佐の執務室もあった。
「ミサキです。入ります」
軽くノックして、部屋に入る。高山三佐は執務机に座って、書類に目を通していた。部屋には必要最小限の調度品が置かれているだけだったで、整然としていたが、幅広の机一杯に書類が広げられていた。
まさかこんな早朝から仕事をしているのかと、ミサキは驚く。部屋の壁時計を横目で確かめるが、まだ午前六時を少し回ったばかりだった。
書類から目を上げ、高山三佐はミサキに執務机の前にあるソファーに座るように促す。
ソファーに腰掛けながら、この人はいつ寝ているのだろうかとミサキはふと疑問に思う。ミサキと同じようにこの建物の一室に住んでいるはずだが、ほとんど顔を合わせることがない。彼女がこの建屋にいる時は大抵がこの執務室に居る。私室に居る時を一度も見たことがないし、他の女子のように部屋着でいるところを見掛けたこともない。もしかしたら、寝る時もこの格好なのだろうか。冗談抜きで彼女であればそれもあり得そうだった。
「それで、ご用件はなんでしょうか?」
思わず口調が硬くなってしまう。それほど年の差はないはずなのだが、どうしても身構えてしまう。彼女からすれば自分など下っ端の一人に過ぎないし、色々な点で実力の差があり過ぎた。
高山三佐がミサキの緊張を解すように、柔らかく微笑む。よく見ると、サイドデスクの隅に花が一輪活けてあった。小さな薄紫のコスモスだった。はっと一瞬、目が奪われる。美しく、清冽な印象を与える。
そして、小さなコスモスを、たった一輪だけ挿して飾る高山三佐の美的感覚に圧倒される。自分には到底真似できない。大胆でありながら、繊細。まるで高山三佐を性格をそのまま表しているようだった。
「遠征が正式に決まったのはあなたも知っているわね」
高山三佐の言葉に、ミサキは頷く。
「今回の遠征では、あなたにはグループリーダーから外れて貰います」
ミサキは言葉の意味を飲み込むの時間が掛かる。高山三佐は自分に今度の遠征には参加しなくて良いと言っているのだ。
「それは私がグループリーダーには不適格だからですか?」
思わずソファーから腰を浮かせて、反問する。感情が抑えられず、声が高くなってしまう。
「違うわ。あなたには今回は別の役割をこなして欲しいの」
「グループリーダーより大切な事ですか?」
どうしても問い詰める口調になってしまう。
「今回の遠征は、目標の攻略自体は容易です。むしろ、失敗のしようながないと言ってもいいわ」
高山三佐は柔らかく微笑んだままの表情を崩さずに、目だけで落ち着くように促す。
「攻略自体が主な目的ではなく、それ以外に目的があると?」
ミサキはソファーに座り直し、感情を鎮める。
「そう。今回の遠征の本当の目的は、アキバにある中小ギルドの評価と選別」
「…選別ですか」
「そう、選別よ」
高山三佐は冷厳に言う。ミサキは頭の芯に冷水を浴びたように、感情の昂ぶり一気に醒めるのを感じる。高山三佐はアキバにある数多くのギルドを篩に掛けると言っているのだ。<円卓会議>の役立つギルドと、そうではない有象無象のギルドと選り分ける、そう言っているのだ。
「あなたにはその為に一役買って欲しいの」
「具体的には何をすればいいんですか?」
「有望そうなギルドにオブザーバーとして参加して欲しいの。謂わばお目付役ね」
「お目付役ですか。そのギルドはもう決まっているのですか?」
「いえ、まだ決まっていないわ。選定はこれからよ。アキバ全体に対する正式な布告はこれからだし。でも、あなたにはその心算でいて欲しいの」
「分かりました」
ミサキは軽く頷き、了承する。
「一つ訊いて良いですか?」
「何?」
「どうして私なんですか?」
ミサキは真っ直ぐ高山三佐を見詰めて訊く。
「適任だと思ったから」
高山三佐はミサキの視線を正面から受け止め、見詰め返しながら簡潔に答える。ミサキは次の言葉を待ったが、高山三佐はそれ以上は何も言わなかった。ミサキは軽く失望する。どうして自分がその任務に適任だと高山三佐が考えたかを知りたかったのだが、高山三佐は無表情な柔らかい微笑みを浮かべ、見詰め返すだけだった。自分で考えろと言うことだった。
ミサキはソファーから立ち上がり、一礼して退出する。
「自分を客観的に見ることも大切だけど、偶には他人を客観的に見ることで得られるものをあるんじゃないかしら?」
独り言のように高山三佐の言葉に、ミサキはびくり歩みを止め振り返る。しかし、高山三佐は書類に目を落としたまま顔を上げず、その表情を伺うことができなかった。
扉を静かに閉めると、そのままミサキは廊下の壁に背中を凭れ掛け、唇を噛み締める。悔しかった。彼女に何一つ及ばない自分が情けなかった。年下だからではない。自分が彼女の年齢になっても、今の彼女には及びもしないだろう。ミサキには明確にそれが分かった。だから、どうしようもなく悔しかった。
次回は2/9頃の予定です。