路上の決闘
03
淡く虹色に輝く海がひろがっていた。
さらさらと波が、足元の砂を洗い流して行く。その砂粒一つ一つが記憶の断片であることに気が付く。だが、その膨大な量の記憶に何の執着も湧かなかった。全てが霞が掛かっているようなくすんだ灰色の砂ばかりだった。
夕暮の黄昏の中、七色に柔らかく光る海の渚を、記憶の砂粒を踏み締めながら歩く。不思議と気持ちは穏やかだった。不安は微塵もない。
時間の感覚がなかった。波が繰り返し打ち寄せていたが、それでもこの渚には刻の流れがなかった。
静止した世界。時間が止まっており、未来のない世界。ただ永遠の今と、全ての過去と限りのない今がだけがある静止した世界だった。
果てし無く広がる砂浜をゆっくりと歩いて行く。ここには自分の記憶だけでなく、全ての人の記憶が含まれていることに気が付く。
人間には記憶に寄って成っていると言う。ならば、全ての記憶を捧げてしまえば、自分は生まれ変われるのだろうか。
ぼんやりと波が足を洗うのを見詰めて、思う。
自分の記憶を含めて、ここには膨大な記憶がある。〈魂の記録〉だった。しかし、その全てに何の関心も持てなかった。自分にとってはここにある全てが無価値だった。ここには無限に等しい記憶があったが、全ては過去だけであり、ここに未来はなかった。
果てし無く広がる渚をひたすら歩いて行く。刻の止まった世界で、ただ穏やかな気持ちで歩き続ける。
永遠で、一瞬の時間が経った時、足元の灰色の砂浜の中に、眩しいばかりに輝く小さな砂粒を見付ける。
それは本当に小さな記憶の粒だった。
しかし、それは愛おしく、切ない輝きを放っていた。それを拾い上げ、手にそっと包み込む。それは暖かく、何故か雨の匂いがした。
そして、周りにある灰色がかったくすんだ茫漠な記憶の総てよりも、この一粒の方が価値があることに気が付く。
自然と涙が出た。切ないまでに愛おしい一粒の記憶。
あのくすんだ灰色の世界で過ごした中で出会った大切な思い出。それを胸に抱き、涙を流す。自分の胸にぽっかりと空いた穴を、その一粒の暖かい光が満ちて行く。
+++
十一月になり、季節は秋から冬に入ろうとしていた。
アキバの街は〈天秤祭〉の余韻を引き摺って、熱気が冷め切っていなかった。特に生産系ギルドに、拍車が掛かっている。新しく開店した店が幾つもあり、露店も増えている。〈天秤祭〉以前よりも格段に商品の数が増えている。何よりも商品の質が圧倒的に上がっていた。
食べ物に関して言えば、ほぼ地球の日本に遜色無い。ラーメンもあるし、カレー屋もある。望めばお寿司さえ食べることができる。材料はどんな物が使われているか、恐ろして想像できなかったが。
そして、装飾関連も同じように充実していた。デニム生地まで売っている。
アクセサリー系も充実していた。逆に現実世界よりも宝石が手に入りやすいこともあって、アクセサリーに関してはアキバの方がグレードが高い物が揃っている。現実世界では到底買うことができないような代物が、〈エルダー・テイル〉では〈冒険者〉であれば比較的簡単に手に入れることができる。
年頃の女の子であるミサキには目的もなく、ぶらぶらと色んな店を見て歩くのは楽しい。
だが、ミサキの気分は晴れなかった。自分が所属するギルド〈D.D.D〉のメンバーとの齟齬感。それが今、ミサキを苦しめていた。それは日を追うごとにはっきりと感じられ、今はもう無視できない程になっていた。もう自分は限界に近い。今までの〈エルダー・テイル〉がオンラインゲームだった時の知識と経験で乗り越えて来たが、それももう貯金が尽きかけていた。
この世界は変わりつつある。まだ多くの〈冒険者〉はそれに気が付いていなかったが、ミサキにはその変化を日に日に感じ取っていた。そして、近い将来、自分がギルドに付いて行けなくなる。それがはっきりとした予感として分かっていた。
まだしばらくは気力でカバーできるが、近い内に能力的に限界を迎えてしまうのが、ミサキには分かってしまっていた。昔からそうだった。どこか醒めた目で、自分の能力を、立ち位置を客観的に見ることができた。自分の限界が分かってしまうのだ。子供の頃から、そうだった。自分の能力であればここまではできる。でも、それ以上はどう足掻いても越えることができない。ミサキには、そういうことが分かってーー見えてしまうのだ。
小さい頃から何度か繰り返し、それを学んだ。努力で覆そうとしたけど、一時的に限界を超えられても、それを長く続けることができなかった。いつしか諦めてしまう癖が付いていた。辛いだけだなのた。「ああ、やっぱり無理だったんだ」と痛感させられる。そして、深い後悔の念に捉われる。こんなことなら、最初から無理なんかしなければ良かった。何度も何度も経験し、学んだことだ。
諦めたくないこともあった。でも、自分が見た限界以上を越えることはできなかった。もしかしたら、今回は違うかもしれないと、希望にすがる。が、結果は常に一緒だった。
だから、ゲームの世界に逃げたのに。
ミサキは鬱屈した気持ちを抱えたまま、アキバの街をふらふらする。
通りに人集りができていた。
喧嘩?
ミサキはその人集りを見て思った。
だが、暴力沙汰のなれば、自動的に〈衛士〉が飛んで来る。だが、その様子はなかった。ミサキはその騒ぎが、歓声ーー嬌声だと気付く。人垣の輪の中で、二人の男が戦っていた。〈武闘家〉と〈盗剣士〉が争っていた。
〈決闘〉だった。
路上での〈決闘〉だ。当然、正式な大会などではなく、不定期に開かれる所謂「お遊び」的な催しだった。路上の一角で人垣をリング代わりにして、一対一の戦闘を行うのだ。双方に同意の元に、システムが擬似的に戦闘状態を作り出すだけなので、〈衛士〉が飛んで来ることはない。
人垣が揺らぎ、一際大きな歓声が上がる。〈武闘家〉が片手剣の〈盗剣士〉に倒されたところだった。
「お嬢さんも一口どうですか?」
〈大地人〉の仕切り屋が目敏く聞いて来る。次の試合が始まろうとしていた。
〈決闘〉は刺激の少ないアキバでは貴重な娯楽の一つになっており、頻繁に行われている。戦闘を忌避してアキバに籠もっている〈冒険者〉は思いの外に多い。ゲームではない本物の戦闘は、精神的な負担が大きく、それを避けて街から外に一切出ない人たちも多い。そう言った人たちにとって、今のアキバは退屈過ぎる場所になっていた。積極的に行動しなくても溢れる程の娯楽に満ちていた元の世界に比べて、今のアキバにはテレビもラジオもインターネットもない。新聞や出版物は少しずつではあるが増えて来ているが、それもまだまだ数が少なく、質の面からしてもとてもではないが充分とは言えなかった。
何よりもアキバが〈ヤマト〉で最大の街だと言っても、現実世界に比べたら限りなく小さい。街の外に出ない人たちにとって、それがストレスになっていた。娯楽が少なければ、自分たちで娯楽を作り上げて行けばいい。そう主張して、実際に行動に移している人も沢山いる。だが、多くの人にとって、娯楽とはただ提供されるものを受動的に消費することでしかなかった。それを突然、積極的に自分たちで作り出せと言われても、それを行動に移せる人は限られている。
〈天秤祭〉も言ってしまえば文化祭の延長でしかない。だが、それでも〈天秤祭〉に積極的に参加してみんなで何かを一緒に作り上げる喜びを知った人は、今のアキバをより良くしようと努力を始めている。〈天秤祭〉はその良い切っ掛けになった。〈円卓会議〉はそれを意図して〈天秤祭〉を催した側面もあり、その目論見は明らかに成功しつつある。祭りの熱気の余韻を色濃くまだ残しているアキバ全体の雰囲気がそれを示している。
しかし、全員が全員、そうなった訳ではない。取り残される人たちもいる。祭りは愉しんだ。ただそれは受動的に消費者として楽しんだだけで、祭りが終わってしまえばまた元の退屈な日々が戻って来るだけだった。そういった人たちにとって、突発的に催される路上での〈決闘〉は、繁華街での喧嘩にも似た格好の娯楽だった。そして、当然のように賭け事の対象になっている。
「オッズは?」
「二対九」
仕切り屋が答える。どちらが二でどちらが九なのか聞くまでもなかった。
〈武闘家〉を倒した片手剣の〈盗剣士〉は年も若く、またどこか幼さが残っている少年だった。一方、それに対峙する相手の狐尾族の〈盗剣士〉は、定期的に催されている大会で何度も優勝している、ミサキでも知っている有名人だった。
片手剣の〈盗剣士〉はまだレベルが六十にも達していない中級レベルの〈冒険者〉であったが、〈エルダー・テイル〉の決闘には自動的にレベルを調整するシステムが組み込まれており、レベルの高低が勝負に影響を与えることがないようになっている。極端な話、レベル一でもレベル九十の〈冒険者〉に勝つことが可能になっている。だが、レベルが高いということは、それだけ経験が豊富ということであり、そのまま強さに結び付くことが多い。何よりも、片方は著名な決闘士だ。
〈エルダー・テイル〉では決闘は飽くまでも冒険の合間にするお遊び的な位置付けでしかない。だが、サブクラスで決闘士というものが設定されているし、数こそは少ないが真剣に取り組んでいるプレイヤーもいた。狐尾族の決闘士はその代表格だった。恐らく、実力からすれば、ヤマトサーバで最高峰の決闘士だろう。それを鑑みれば、二対九のオッズでも全然足りないくらいだった。
狐尾族の決闘士は、 とんとんと軽くステップを踏み、ウォーミングアップしながら、試合を終えたばかりの片手剣の〈盗剣士〉が準備を終えるのを待つ。
狐尾族の決闘士は、片手の細剣使いだった。
審判に促され、両者が人垣の中央に進み出て、互いの剣先を軽く合わせる。それが試合開始の合図だった。
開始直後から、狐尾族の細剣使いが、鮮やかな刺突の連打を繰り出す。軽やかなステップで前後左右から多彩な角度から刺突が繰り出される。その攻撃はお手本のように形に嵌ったもので美しくさえあった。
だが、片手剣の〈盗剣士〉はその場から一歩も動かず、初撃を無造作に片手剣で払うと、盾を押し出し、細剣の攻撃を弾いて行く。
狐尾族の細剣使いは時折フェイントを混じえながら、片手剣の攻撃範囲外から攻撃を続ける。片手剣の〈盗剣士〉はその攻撃を、やはりその場から少しも動かずにことごとく盾で弾き返す。
別に片手剣の〈盗剣士〉の防御が秀でているわけではなかった。狐尾族の細剣使いの攻撃がダメージを狙ったものではなく、謂わばジャブにも似た牽制的な攻撃なだけだった。その証に狐尾族の細剣使いは、一定の間合い以上は近付いて来ない。
誘っているのだ。いや、挑発しているといった方が正確だった。ミサキは片手剣の〈盗剣士〉が徐々に不機嫌になって行くのを見てとった。そして、片手剣の〈盗剣士〉の盾の使い方が乱雑になって、まるでハエを追い払うかのようになる。
若いな。ミサキはその様を見て思う。感情に流されたら負けだ。気持ちを昂らせながらも、頭の芯は醒めきったままにする。戦闘の心境はその一点に尽きる。だが、片手剣の〈盗剣士〉は、狐尾族の細剣使いの挑発に気持ちを苛立たせていた。
仕掛けたのは、やはり片手剣の〈盗剣士〉の方だった。繰り出された細剣に、盾をぶつけるように突き出す。打撃力に欠ける細剣は、盾に弾かれる度に大きくしなり、今にも折れそうになる。狐尾族の細剣使いは咄嗟に剣を引き戻すが、片手剣の〈盗剣士〉はそのままベタ足で盾を押し出したまま強引に間合いを詰める。
一見荒っぽいように見えるが、理に適った行為でもあった。細剣は、盾持ちの対して不利になることが多い。細剣の打撃力では、盾の防御力を抜くことができず、そのまま劣勢に追い込まれてしまう。細剣はその敏捷性を活かして、一撃離脱を繰り返すのが常だったが、片手剣の〈盗剣士〉は細剣の攻撃をことごとく盾で防ぎ、それを許さない。そして、相手に隙を与えず、人垣に追い込み、そのまま内側に入り片手剣の攻撃を繰り出す。
狐尾族の細剣使いは巧みなステップで左右にその攻撃を避けるが、劣勢に立たされているのは明らかだった。やはり装備の相性が悪すぎた。それに加えて、片手剣の〈盗剣士〉は、細剣の特性を熟知しているようで、その利点を完全に殺す戦い方をしていた。常に盾を持っている側を前にして、盾で細剣の攻撃の軸線を的確に阻んでいる。
しかし、大きな大会で何度も優勝している実力の持ち主だけあり、狐尾族の細剣使いもなかなか崩れない。追い込まれながらも、間一髪のところで攻撃を避け、有効打を与えない。しかも、狐尾族の細剣は劣勢に追い込まれながらも、余裕綽々の笑みを保ち続けていた。虚勢に過ぎないかもしれなかったが、相手を苛立たせるには十分だった。
痺れを切らした片手剣の〈盗剣士〉が、強引な形で大きく踏み込み、絶対に避けようがない間合いから痛撃を浴びせる。
ミサキはその瞬間、狐尾族の細剣使いが、にやりと僅かに口許を歪めたのを見た。片手剣の強力な打撃を細剣が正面から受け止める。激しい火花が飛び散り、悲鳴にも似た金属の擦過音が響く。細剣が限界を超えてしなる。
ミサキは細剣が間違いなく折れたと思った。が、細剣は予想以上の粘りを見せて、そのまま折れることなくしなり続ける。細剣に受け流され、片手剣の軌道が僅かに逸らされる。その逸らされた軌道で生じた隙をついて、狐尾族の細剣使いが脇を潜り抜ける。
切っ先の数ミリだけ残して、片手剣の〈盗剣士〉の刃は相手の身体に届かない。狐尾族の細剣使いは流れるように動き身体を入れ替える。そして、今度は逆に相手の無防備の脇腹に細剣を突き立てる。
片手剣の〈盗剣士〉は勢いで前に流れる身体を踏みとどまらせ、振り返ろうとする。が、間に合わない。
細剣が突き刺さった。ミサキにはそう見えた。だが、刺さったと思った時に、甲高いキーンという異音が響き渡る。
細剣の剣先が、片手剣の柄尻に当たって、止まっていた。
偶然なのか、狙って防いだのか。咄嗟のことで、ミサキには判断がつかなかった。だが、片手剣の〈盗剣士〉は振り向くのが間に合わないと判断した後、柄を逆手に持ち替え、柄尻を相手の剣先に合わせに行った。受け損なえば、利き手の指を全て削ぎ落とされていたかもしれない危険すぎる行為だった。
狐尾族の細剣使いも、その無謀すぎる行為に驚いたのか、剣を引き、いったん距離を取る。そして、呆れながらも満面の笑みを浮かべる。それは子供が面白い玩具を手に入れた時に浮かべる笑みだった。子供というより、鼠を捕まえた猫のようだった。その笑みは圧倒的な強者が獲物を弄ぶ時に浮かべる残忍な笑みそのものだった。
狐尾族の細剣 使いは、一番最初と同じように相手の体勢が整うを、軽くステップを踏みながら待つ。
片手剣の〈盗剣士〉は、気持ちを落ち着けるように軽く息を吐く。そして、呼吸を整えると、その場でとんとんとステップを踏み始める。足元を確かめるように、ステップを踏み続ける。
十秒程度、奇妙の間が空く。とんとん、とんとん。二人ともその場で足踏みを続ける。
ミサキは違和感を覚える。何か変だった。音が、リズムがおかしい。
いつの間にか、二人が同じリズムでステップを踏んでいた。偶々(たまたま)なのか。それともどちらかが意図的に相手のリズムに合わせたのか。ミサキには判断が付かなかった。
今度も先に動いたのは片手剣の〈盗剣士〉の方だった。狐尾族の細剣使いのような軽やかなステップで前に出る。先程までの乱雑な足捌きとは全く違っていた。まるで翼が生えているかのようだった。
そのままスピードのある突きを放つ。
細剣使いは、その突きをフェイントを混じえて、横に躱す。
しかし、その細剣使いの動きに、片手剣の〈盗剣士〉は、寸分の差もなく、ぴったりと動きを合わせて来る。
細剣使いが、驚きの表情を浮かべる。そして、もう一度、フェイントを混じえた動きで、片手剣の〈盗剣士〉を突き放しにかかる。
だが、その動きでにも片手剣の〈盗剣士〉は、完全に合わせて来る。
信じられない動きだった。先に動いたはずの細剣使いの足が地面に着くのと同時に、片手剣の〈盗剣士〉もその正面に着いていた。ミサキの目には、その動きに差を見出すことはできなかった。
まるで鏡に映したように、寸分の差もなく、動きを合わせて来る。信じられなかった。ミサキは自分には絶対にできないことだった。相手の動きを読んで、動いているなどというレベルではない。明らかに、同じタイミングで同じ動きをしていた。ミサキ自身、一流の戦士という自負があったが、そのミサキからして同じ人間技だと思えなかった。
片手剣の〈盗剣士〉は、ぴったりと細剣使いの動きに追随する。そして、相手が大きな動きをして着地した瞬間を狙って、渾身の攻撃を繰り出す。
この攻撃は避けらない。ミサキの目にはそう見えた。細剣使いは痛撃を受け、HPを大きく減らす……はずだった。
だが、次の瞬間、片手剣の〈盗剣士〉が、弾かれるように飛び退る。
片手剣の〈盗剣士〉が驚きと共に、苦痛の色を浮かべていた。HPも大きく減っている。
何かの攻撃を受けたらしいことは分かる。だが、ミサキには狐尾族の細剣使いの左手が相手の身体に触れるように伸びたのだけは視えた。だが、それ以上は何が起こったのか分からなかった。
地面に血溜まりが出来ていた。片手剣の〈盗剣士〉の右脇下が赤く染まり、そこから革鎧を伝って血が滴っていた。
狐尾族の〈盗剣士〉は余裕の笑みを浮かべ、挑発するように細剣の剣先を大きく揺らす。いや、完全に挑発している。
一方、片手剣の〈盗剣士〉は利き腕側にダメージを受けた影響を確かめるように、何度か片手剣を振る。その度に血が飛び散る。
だが、片手剣の〈盗剣士〉は血には注意を払わず、利き腕の動きに異常がないのを確かると、片手剣を構え直す。
そして、そのまま無造作に間合いを詰める。
前の攻撃と寸分違わないタイミング、角度で、斬り込んで行く。
全く同じ攻撃だった。
ミサキはその技量に驚嘆する。どんな熟達者でも同じ形で剣を振るっても、微妙にタイミングはズレる。しかし、ミサキの目には寸分の誤差も見えなかった。
誘っているのではない。追い込んでいるのだ。
同じ方法で反撃しなければ、狐尾族の細剣使いは確実に大きなダメージを受ける。それを避けるには、先程と同じ手段で避けるしかない。
双方の身体が交差する瞬間、先程同じように狐尾族の細剣使いの左手が伸びる。
次の瞬間、骨と骨がぶつかる鈍い音が響く。
見ると、片手剣の〈盗剣士〉が剣を持っていた右肘で、狐尾族の細剣使いの左手を突き上げていた。
アイスピック?
ミサキは最初はそう思った。
狐尾族の細剣使いの左手にはアイスピックのような武器が握られていた。
洋式の鎧通し。鎧通しというより、まるで千枚通しだった。
隠し武器。さっきはその武器で鎧の隙間を刺し、大きなダメージを与えたのだ。
変則的な二刀流だった。もともと二刀流も変則的であるが、細剣と鎧通し(エストック)の二刀流などミサキは聞いたことも、まして見たこともなかった。余りに奇抜過ぎる戦法だった。
そして、正体が露呈してしまえば、それまでだ。リーチの短い鎧通しでは、距離さえ取って戦えば恐れることはない。
ミサキの予想通り、反撃に転じた片手剣の〈盗剣士〉は距離を取って、左手の鎧通しを使わせない。巧みに盾で細剣の攻撃を受け流し、片手剣で鎧通しの攻撃を牽制しつつ、着実にダメージを与えて行く。
徐々に狐尾族の〈盗剣士〉のHPが減って行き、ついには半分を割る。完全に片手剣の〈盗剣士〉の方が優勢だった。
番狂わせの展開に歓声が上がる。
しかし、狐尾族の〈盗剣士〉がまだまだ余裕があるのを、ミサキは見てとっていた。口許に薄っすらと笑みを浮かべたまま、細剣で全ての攻撃を受け切る。しかし、攻撃を受ける度に、細剣から激しく火花が散り、甲高い金属音が鳴り響く。並みの使い手であれば、とうに剣が折れているだろう。
堪らず、狐尾族の〈盗剣士〉は大きく飛び退き、距離を取る。
「凄い、凄い。まさかこんな場所で本気にさせられるとは思ってなかった」
両手に武器を持ったまま、軽く拍手してみせる。
そう言いながら、狐尾族の〈盗剣士〉は左右の武器を持ち替える。左手に細剣、右手の鎧通しを持つ。そして、構えも入れ替える。
今まで左半身を前に半身に構えていたが、今度は逆に右半身を前に半身に構える。半身に斜めに構えるというより、完全に右肩を前に身体を横向きにしている。
見たことある構えだった。だが、それは〈エルダー・テイル〉の世界ではない。現実世界のテレビで見たことがあった。
フェンシングの構え。
確かに、〈冒険者〉には細剣使いがたくさんいる。その細剣使いの中にはフェンシングに似た形で戦う者もいる。だが、それは飽くまで真似ているだけで、真似事に過ぎないものばかりだった。
そもそも、硬い甲羅や鱗、鎧を纏った敵と戦うことを想定している〈冒険者〉には、細剣は扱い辛い武器で人気はない。同じ刺突系の武器なら、断然槍の方が扱い易いし、与えられるダメージも大きい。細剣はマニアックな武器の一つに過ぎない。
しかし、一対一の対人戦においては話は別だった。細剣は対人戦においては強力な武器となる。だが、それは使い手の技量に寄る。見た目の格好良さに惹かれた者の大半はその扱いにくさに挫折し、他の武器に転向するのが常だった。それ程までに人を選ぶ武器だった。
そして、狐尾族の〈盗剣士〉は見様見真似の紛い物ではない。正規の訓練を積んだ形だった。
「さぁ、今度はこちらの番だ」
狐尾族の〈盗剣士〉は言い終わると同時に、跳ぶ。
神速。
一瞬にして距離が詰まる。目を見張る速さ。声を上げる時間もない。
スピードも技の切れも先程までとは段違いだった。
初撃を何とか受けた片手剣の〈盗剣士〉だが、その後は防戦一方になる。
その強さは圧倒的だった。
正規の訓練を積んだ者が、〈冒険者〉の超人的な身体能力を最大限に活かせばどうなるか。それをまざまざと見せ付けられる。
次元が違う。
まさに神技だった。
何気無い突きが、余りにスピードが速いために、反応しきれない。
片手剣の〈盗剣士〉の技量が低いわけではない。むしろ、技量は高い。レベルを別にして、技量だけで言えば、アキバでもトップグループに入るはずだ。
その彼ですら、子供のように翻弄される。本当に大人と子供の戦いだった。はなから勝負にならない。
小さなフェイントが入るだけで、躱し切れなくなる。そして、少しずつ少しずつダメージを重ねて行く。
いつの間にか、HPも逆転していた。
ついに、片手剣の〈盗剣士〉は攻撃に耐え切れずに、人垣の中に逃げ込むように飛びす去り、無理やり距離を開ける。
その行為にブーイングが出る。
明確な線が定められているわけではないが、路上の剣闘では人垣の内側でのみ戦うという暗黙のルールがある。人垣の外に逃れるのは、リング外に逃げたのと同じで、顰蹙を買ってもしかたがない行為だった。場合によってはルール違反で負けになることもあり得る。だが、今回はその辺のルールが曖昧であったようで、負けにはならない。だが、褒められた行為ではなかった。
しかし、片手剣の〈盗剣士〉はブーイングを完全に無視する。僅かに呼吸を整えた後、左腕に盾を固定していたベルトを剣で切り、小型盾をその場に落とす。そして、腰に吊るしていた予備の剣を引き抜き、二刀になる。
一方、狐尾族の〈盗剣士〉は、とんとんと軽くステップを踏みながら、相手の準備が終わるのを悠然と待ち構える。その姿は王者の風格さえあった。
準備の終えた片手剣の〈盗剣士〉は、助走を付けて一気に間合いを詰める。そして、矢継ぎ早に二刀での攻撃を仕掛ける。
速い。
ミサキは思った。が、狐尾族の〈盗剣士〉は、その二刀の攻撃をほとんどその場から動かず、細剣の剣先だけでいなす。
そのまま攻撃に転じ、フェイントを混じえた突きを繰り出す。
剣が消える。
ミサキには一瞬、剣が消えたように見えた。それほどの速さだった。
先程よりも明らかに速さが増しているように見える。神速に近い突きを繰り出して行く。
勝負は決していた。明らかに技量に差がある。枷を外した〈狐尾族〉の細剣使いには、片手剣の〈盗剣士〉は相手ではなかった。技量¥云々(うんぬん)に話ではない。次元がそのものが違っていた。
このまま続けても、奇跡でも起きない限り逆転はできない。いや、奇跡が起きても同じだった。それほど細剣使いは圧倒的に強かった。
だが、片手剣の〈盗剣士〉は必死に二刀で攻撃を捌き続ける。狐尾族の〈盗剣士〉は細剣だけでその二刀の防御をやすやすと突き崩して行く。
もう完全に勝負は着いている。ミサキの目にもそれは明らかだった。
片手剣の〈盗剣士〉は、不必要に勝負を長引かせているだけだ。
周囲の観客からもブーイングが出始める。
それでも、片手剣の〈盗剣士〉は執拗に食い下がる。防戦一方になりながらも、しつこく粘り続ける。その様は正直、見苦しかった。普通の決闘であれば、降伏するべき状態だった。
次第に観客のブーイングも大きくなり、野次も増え始める。
それでも、片手剣の〈盗剣士〉は歯を喰い縛り、懸命に二刀を振るう。
ミサキには分からなかった。何故そこまでに懸命になるのか。もう結果は分かっている。覆しようのない結果が明らかになっているのに、どうしてそこまで必死になるのか。無駄な足掻きに過ぎない。不必要に自分を傷めているに過ぎない。そうして足掻きに続けていても、奇跡など起きるわけはない。
それなのに、片手剣の〈盗剣士〉は、諦めない。必死に剣を振るう。しかし、細剣は的確に片手剣の〈盗剣士〉の隙を付き、ダメージを与えて行く。腕を、脚を、胸を、腹を、肩を、顔を切り裂いて行く。その度に新たな傷が生じて、鮮血が飛び散る。
結局、奇跡は起きなかった。何もできないまま、じりじりとHPは減って行き、0になる。
片手剣の〈盗剣士〉の負けが確定する。片手剣の〈盗剣士〉は片膝を地面に付き、項垂れる。
「久しぶりに愉しかったよ」
狐尾族の〈盗剣士〉が握手を求めて、右手を差し出す。
片手剣の〈盗剣士〉は顔を上げ、差し出された手をじっと見ていたが、それを無視して立ち上がり、背を向ける。
「何だあいつ」「負けたくせに態度悪いな」と群衆から詰る声が聞こえる。
片手剣の〈盗剣士〉は周囲の声を無視して、戦いの時に捨てた小型盾を拾い上げ、無言でその場を立ち去る。
ミサキは少しの間、逡巡していたが、その後を追った。
路地を少し奥に入った、人通りがない民家の前の石段に、片手剣の〈盗剣士〉は腰掛けていた。片膝を抱え、肩を落として項垂れていた。
僅かに肩が震えていた。
泣いている?
衝動的に後を追って来てしまったが、ミサキは声を掛けることができなかった。いったい自分は何のために後を追って来たのか。健闘を讃える為?慰めの言葉を掛ける為?
「何か用ですか」
ミサキが声を掛けられずに立ち竦んでいると、相手が気付き、問い掛けて来る。顔は伏せたままだったので表情は分からなかったが、その声は僅かに湿っていた。
ミサキはそのことに動揺してしまう。その声は先程の戦いからは想像できないほど弱々しかった。
ミサキが応えることができずにいると、片手剣の〈盗剣士〉ーー少年が顔を上げる。
どこか幼い顔立ちであったが、間近で見るとミサキとそれほど年齢は違わないようにだった。恐らく、一つか二つ年下なだけだろう。
「……〈D.D.D〉の幹部が何の用ですか?」
少年は一通りミサキを眺めた後、襟章で視線を止めると、ミサキの顔をじっと見詰め問い掛けて来る。今のミサキはギルドの制服ではなかったが、襟元にギルドの徽章を身に付けていた。
その徽章を見る人が見れば、ミサキが〈D.D.D〉の幹部職であることが分かる。幹部と言っても、〈D.D.D〉は約千五百人のギルドメンバーが所属している大規模ギルドであり、幹部だけでも数十人いる。ミサキはその数十人いる内の一人に過ぎなかった。だが、アキバでは〈D.D.D〉の影響力は大きく、〈D.D.D〉の幹部と名乗れば、粗略に扱われることはない。
しかし、少年の声音には敬意は欠片もなかった。
「……なぜ最後まで諦めなかったの?」
ミサキは少し考えあぐねた末に、尋ねる。
「……貴方の頭に訊けば良い」
少年は面倒臭そうに、突き放すように言う。
意味が分からなかった。しばらくして、頭というのが、自分のギルドマスターを指しているのに思い至る。だが、それでもやはり意味が分からなかった。
いや、言っている意味は分かる。自分のギルドマスターがあの場所で、あのような状況になったら、同じようなことをすると、この少年は言っているのだ。
だが、ミサキにはそれが想像できなかった。ギルドマスターーーあの人はいつも超然として、あの人が劣勢になっている状況など一度も見たことがなかったし、想像したことさえなかった。
ミサキが返答できずに黙っている。
「そんなことじゃ、あの人には付いて行けないな」
少年は小馬鹿にしたように言う。
ミサキはかぁと頬が赤らむ。先程まで思い悩んでいた事を見透かされ、言い当てられた気がして、狼狽が顔に出る。
「貴方は恵まれている。だから、迷うんだ」
「私が恵まれている?」
そんなことを一度も思ったことがなかった。取り立てて美人でもないし、頭が良いわけでも、運動神経が良いわけでもない。人に自慢できるような取り柄が一つもない。そんな自分が恵まれている?
「そんなことない」
ミサキは反駁する。
「いいえ、恵まれていますよ」
今度は明らかに蔑みを浮かべて、少年は断言する。
「恵まれているから、迷う。迷うことは、恵まれていることの証。迷えるということは、選択肢があるということです」
ミサキは戸惑う。確かに、自分には選ぶことができる。だけど、それはどのような痛みを受けるかという選択でしかない。包丁で刺されるのがいいか、指を切り落とされるのがいいかを選ぶのに等しい。そんなことが恵まれていると言えるのか。
「どちらを選んでも、後悔する。それなら、簡単です。やって後悔するか、やらずに後悔するか。それだけです」
それだけ言うと、少年は話はこれで終わりというように、傍に置いていた小型盾を拾って立ち上がり、ミサキに背を向ける。
そのまま去って行く後ろ姿を見送りながら、ミサキは少年の言葉を反芻する。
「やって後悔するか、やらずに後悔するか」
口に出して呟いてみる。
そんなことは分かっている。そんなことは最初から分かっている。
だけど、怖いのだ。
やれば傷付く。多分、これまでにないくらいに深く傷付く。それも立ち直れないくらいにまで。
それが怖い。自分が傷付くと分かっていて、それに躊躇しない人間などいない。ミサキにはその痛みが明確に思い描けた。だから、余計に怖い。その痛みに耐える自信は、ミサキにはなかった。
だから、今、諦めてしまえばまだ十分に立ち直れる。そして、諦めたことを後悔するだろうが、それでも立ち直れないほど深く傷付くよりもましだった。今ならまだ間に合う。ここで留まれば、堪えられないほどの傷を負うことはない。
それでも。それでもやはり、あの人の傍に居たい。少しでも長く、一分一秒でも長く傍に居たい。
その気持ちは偽れない。
決して実らない望み。
いつか終わりが来る。いつか、近い将来、傍に居られなくなる。それは明らかだった。奇跡でも起きない限り。
でも、傍に居たい。傍に居て、彼の姿を見ていたい。その先は望まない。ただ傍に居て、見ているだけでいい。それだけでいい。たったそれだけでいい。
それは、切ないまでに真剣な気持ち、想いだった。
だけでど、それは叶わない望み。ミサキには確信があった。もうすぐ自分は、あの人の歩みに着いて行けなくなる。そして、自分は取り残される。
必死に追い縋っても、あの人の歩く早さに付いていけず、少しずつ少しづつ遅れて行く。息を切らし、どんなに歯を喰い縛って付いて行こうとしても、距離が縮まることはない。次第にあの人の姿は遠くなって行く。そして最後には見えなくなってしまうのだ。
その時の絶望と痛み。それを思うと、今でも心臓が潰れそうで、魂が無くなってしまいそうになる。
だから、諦めるなら今しかない。惨めに追い縋り、付いて行けなくなるなら、この場で立ち止まり、静かに見送るべきだった。このまま諦めなかったから、その気持ちの分、深く深く傷付く。頑張って、足掻いた分だけ傷が深くなる。
それが怖い。堪らなく怖い。
でも、気持ちは偽れない。やらずに後悔したくはない。
だけれども、怖い。深く傷付くのが怖い。
思考はぐるぐると同じ所を回り続け、答えは出ない。
思考の迷宮に囚われ、ミサキはその場から一歩も動けなかった。