PL(パワーレベリング)後編
早朝、まだ微睡みながら、秋那は毛布を引き上げ、身体を縮こませる。気温が下がっている。底冷えする寒さだった。日が昇り、辺りはすっかり明るくなりつつあったが、気温は低いままだった。防寒性が優れた毛布を重ねていたが、それでも寒さを完全に遮断することはできず、冷たい空気がどこからか入り込んで来る。
当番の何人かが食事の準備に火を起こし、湯を沸かすのをぼんやりと眺める。まだもう少し寝ていたかった。だが、周囲の人たちは起き出して、朝の支度を始めつつあった。
このキャンプ地には総勢三十名弱の〈冒険者〉がーープレイヤーが集まっていた。幾つかの中規模ギルドのメンバーが集まってのキャンプで、主に五十から六十までのレベル帯のプレイヤーが集まっての合同キャンプだった。
レベリングのための合同キャンプで、キャンプを主催したのは秋那が所属する『北極星』だった。『北極星』のメンバーが主体になり、それに他の幾つか中規模ギルドが合流する形で、この秩父の山麓に遠征に来ていた。ここに来てから既に二週間近くが経ち、日程では終盤を迎えつつあった。
特に混乱もなく、滞りなく予定通りに計画は消化されつつあったが、連日の野外でのキャンプ生活で全員が目に見えない疲労を抱えていた。ステータス的には何の異常も表示されていなかったが、身体の芯に鉛があるような倦怠感がどうしても抜けない。
水浴びでなく、お風呂に入りたい。何より温かく柔なベッドでぐっすり寝たい。そうすれば、倦怠感など一晩で快復するだろうが、ここではそれは望むべくもなかった。
珈琲のいい匂いが漂って来る。正確には珈琲に似た何かだったが、漂って来る匂いは間違いなく珈琲のそれだった。芳ばしい香りに、空腹感が刺激される。珈琲の他に、燻製肉を焼く匂いもする。
秋那はその匂いに釣られて、寝床から抜け出す。分厚い毛布から出ると、冷たい外気が肌を刺す。完全に冬の寒気だった。吐く息も白い。
ここに来た時はまだ僅かに秋の装いが残っていたが、周囲はすっかり冬の佇まいになっていた。紅葉は落ちてしまい、その落ち葉も色を失っていた。もう少しすれば、雪が降ってもおかしくない。
秩父はアキバから直線距離で百キロも離れていないが、山岳地帯であり、関東平野とは気候が全く異なっていた。昼夜の寒暖差が激しく、加えて冬の寒さは同じ県域の他の地域とも比べても格段に厳しい。そのために日本のチベットと揶揄されるほどだったが、それは〈エルダー・テイル〉でも変わっていなかった。
「おぅ、ようやく起きたか。これでも飲んで目を覚ませ」
起き出した秋那に、日の前で朝食を準備していた小柄な男が声を掛けてカップを差し出す。トキサダという『北極星』の幹部の一人だった。クラスは〈暗殺者〉だったが、それよりも料理人として認知されていた。
秋那もこの短いキャンプの間に、その料理の腕前に魅了されていた。アキバから遠く離れたキャンプ地にも関わらず、限られた素材で本当に美味い食事を作って見せる。
今も燻製肉を焼きながら、同時に黒パンを軽く炙って焼き目を入れ、そのパンに黒胡椒を入れたマッシュポテトと盛り付けていた。少し古くなり、硬くなったパンを炙ることで焦げ目が付く。たったそれだけだのことだが、その一手間だけで、古くなりかけていたパンが見事に焼き立てかのような色合いになる。
トキサダが差し出したカップを黙って受け取り、秋那は口を付ける。色は少し違ったが、香りと味は珈琲そのものだった。
「……前から聞こうと思っていたんですが、コレって何で出来ているんですか?当然、本物の珈琲ではないですよね?」
「知りたいか?」
トキサダは悪戯っ子のような笑みを浮かべる。
その表情を見て、答えを知るのを躊躇する気持ちが芽生える。嫌な予感しかない。世の中、知らなかった方が幸せだったということは多々ある。
「ほれ、あそこに、その中味を正体を知った奴がいる」
器用に燻製肉を鉄板の上でひっくり返しながら、トキサダは顎で指し示す。その先にはカネツグがいた。
カネツグは焚き火から少し離れた場所で妻のシズネと一緒に珈琲ではなく、ホットミルクを飲んでいた。
そう言えば、数日前からカネツグが珈琲を飲んでいるのを見掛けなくなった。ここに来た当初は嬉々(きき)として愛飲しており、魔法瓶に入れて携行して、冒険の合間に飲んでいたほどなのに。
渋々という様子で、ホットミルクを飲んでいるカネツグの様子を見て、秋那は苦虫を噛み潰した表情になる。
「……やっぱりいいです」
芳ばしい香りの湯気を出している黄土色の液体を見詰めながら、力無く言う。もう何杯も飲んでしまっているが、中味を知ったら自己嫌悪に陥りそうだった。やはり、知らない方がいいことはある。
「ほれっ」とトキサダが黒パンにマッシュポテトを塗り、そこに焼き立ての燻製肉を挟んだサンドイッチを差し出す。
「ありがとうございます」
秋那は礼を言って受け取り、そのままかぶり付く。美味かった。
黒パンは日にちが経ち、古く硬くなっていたが、炙ったことで表面がカリカリになって、いい香りがするようになっていた。そして、カリカリになったパンに燻製肉の肉汁が染み込んで、絶妙な味わいになっている。そして、マッシュポテトが肉の味とパンを調和させて、黒胡椒がピリッと効いて、食欲を誘う。瞬く間に食べ尽くしてしまう。
「もう一つ食うだろ?」
一つ目を食べ終わって一息付いた、絶妙なタイミングで、もう一つトキサダが出来たばかりの燻製肉サンドイッチを差し出す。躊躇なく秋那はそれを受け取り、今度はよく味わえるように、意識してゆっくり食べる。
「おい、キタオリ。食事中ぐらい本読むの止めたらどうだ?」
トキサダが焚き火の向かい側で、同じように燻製肉入りのサンドイッチを食べながら、行儀悪く本を読んでいる細身の薄い眼鏡を掛けた学者風の男に声を掛ける。キタオリも『北極星』の幹部の一人であったが、常に本を抱えて、暇があればそれを読んでいた。
現在のアキバでは、本は貴重品だった。出版という文化が〈大地人〉の中に根付いておらず、何より印刷技術が発達していなかったために、本の数が驚くほど少ないのだ。
問題は印刷に適した上質な紙がないことだった。ゲーム時代には羊皮紙やそれに類したものが主流で、上質な紙は呪文書や重要文書のみに使われており、それで自体が貴金属に匹敵するほど貴重なもので、〈妖術師〉や〈付与術師〉が上級の呪文を習得する際に、呪文書に使う上質な紙を入手することが求められる任務であるほどだった。〈エルダー・テイル〉では上質な紙は、それ自体が魔法的な属性を有している。それほど紙は貴重だった。
何よりも、〈大地人〉の間では、識字率は非常に低い。字が読めるのは貴族か、一部の知識人だけだった。識字率から本の需要が少ない。結果、本の数が増えない。もしくは本が貴重品なために識字率が低いのか。そのどちらなのかは分からないが、印刷という概念自体がなかったのが、〈大災害〉以前の〈エルダー・テイル〉だった。
ゲーム時代ならそれで何も不便はなかったが、〈大災害〉以後のアキバではそういう訳にはいかなかった。紙があって当たり前の生活に慣れきっていたプレイヤーたちは、その不便さに耐えられず、アキバの生産ギルドは最優先事項で上質な紙の開発に取り組んだ。
だが、現状ではその試みは成功しているとは言い難かった。羊皮紙や葦紙、和紙に匹敵する紙は簡単に生産することができた。だが、上質紙を大量に生産するまでには至っておらず、今のところは厚みのある藁半紙程度の品質の紙を生産するのが精一杯な状態だった。紙質に関しては時間が経てば、上質紙に見劣りしない品質の物は生産できる見込みは立っているようだが、それよりも深刻なのは本の中身の書き手だった。
印刷に耐え得る上質紙を生産できるようになっても、印刷するべき文章がなければどうにもならない。〈書写〉のスキルを使っても、既にある文章を書き写すことができるだけで、文章そのものを新たに生み出すことはできない。小説などは短編でも一ヶ月、一つのきちんとした作品ともなれば最低で半年は掛かる。
結果、簡易新聞のような、いわゆる瓦版程度の物が溢れることになる。それはそれでネットでの情報収集という手段を失った今のアキバでは、貴重な情報の共有手段となっていたが、キタオリのような本好きにとっては全く物足りない状態だった。そのために、彼らは現状に不満を抱いている同じような同好の志を集め、〈アキバ図書協会〉なる組織を立ち上げた。
この〈アキバ図書協会〉はアキバの街の端の一画に共有の図書館を作り、〈冒険者〉としての財力に物を言わせて、ありとあらゆる本を集めるようになった。本が高価で貴重であると言っても、それは一般の〈大地人〉にとってであり、〈冒険者〉の資力をもてば如何程のこともない。
〈アキバ図書協会〉は、貴重な呪文書や古文書は言うに及ばず、子供向けの絵本や料理本、歴史書、教科書は言うに及ばず、石碑や木簡など、文字が書かれている物はとにかく何でも手当たり次第に蒐集した。
凄まじい勢いで。
アキバ周辺の本は瞬く間に刈り尽くされ、その蒐集の手は日本中に伸びた。文字通り、日本中から本という本を掻き集めた。果てはどこから手に入れたのか領主間で遣り取りされた密書まで集める始末だった。
活字オタクーー活字中毒者の本に対する情熱は常軌を逸していた。あまつさえ、知的財産は万人で共有すべしという趣旨に則り、それを〈冒険者〉だけではなく、〈大地人〉にも分け隔てなく自由に公開したものだから、それが元で騒動にもなったりした。密書だけでなく、凶悪な破壊魔法の呪文書までも、普通の本と一緒に何の制限も掛けずに公開していたら、問題にならないわけがなかった。
それまで事態を静観していた〈円卓会議〉も流石に看過できずに指導に乗り出し、今では〈円卓会議〉から派遣された専任の司書が在中して公開していいものとそうでないものをきちんと管理するようになった。
キタオリはその悪名高き〈アキバ図書協会〉の創始者の一人であり、常任委員会の理事でもあった。
本人は無自覚のようだが、〈アキバ図書協会〉が引き起こした一連の騒動はキタオリに起因しているというのが専らだった。キタオリの本に掛ける執着はオタクの域を遥かに超えており、完全な病気だった。
何をそんなに熱心に読んでいるのかと思い、秋那が横目で覗くと、キタオリは舫綱の結び綱を図入りで説明している頁を食い入るように読んでいた。どうやら船員向けの教育書のようだった。
頭が痛くなる。秋那も本を読むのは好きだったが、キタオリのそれは理解の範疇を超えていた。食事の最中に片時も目を離さずに読むような内容ではない。
「……ああ」
キタオリは本に夢中で、トキサダの言葉に上の空で答える。本を片手に、空いている手でサンドイッチを頬張る。そして、そのまま片手だけで器用に本の頁を捲る。
その器用さに呆れる。文庫本を片手だけで頁を捲る人が稀にいるが、キタオリが手にしている本は図版と言っていいほどのサイズがある。加えて紙質は上質とは言えず、ごわごわして厚い。それにも関わらず、危なげなく、頁を捲り、読み進めて行く。そうしながら、合間合間にサンドイッチを口に運ぶ。その器用さに呆れるのを通り越して、感心してしまう。
「はぁ」とトキサダは肩を落とし、溜め息を付く。そして、先に起きて既に食事を済まして寛いでいるカネツグたちの方に視線を移す。
「なぁ、マスター。今日はここにいる六人でパーティーを組むのか?」
トキサダがカネツグに声を掛ける。
「ああ、そうだ。この六人で〈蜥蜴人族(リザードマン〉の闇司祭を狩る。レベル五十九の任務目標だ。任務を達成できれば、0・五レベル近い経験値が手に入る。美味しいぞ。そろそろ打合せをやるか。ーーその前に、秋那、ちょっと来い」
カネツグが手招きする。
「お前にはまだ紹介していなかったな。つい最近、新しく入ったメンバーだ」
カネツグとシズネの他に、もう一人いるのに気が付く。初めて見る顔だった。また幼さが残る〈森呪遣い(ドルイド)〉の少女だった。自分よりも一つか二つ年下だろうか。
「イノリです。レベル五十になったばかりの〈森呪遣い(ドルイド)〉です」
薄い栗色の髪をした小柄の少女が頭を下げる。
その声に秋那は混乱する。声音が秋那が知っていた人にそっくりだった。もうこの世にはいないひとに。
走馬灯のように記憶が溢れて来る。
彼女の記憶が鮮明に蘇って来る。
懐かしさで、涙が零れそうになる。もう三年近くなる。いや、まだ三年しか経っていない。最後に彼女の声を聞いてから三年。そして、彼女が死んだことを聞いてから、二年。もう聞くことはないと思っていた人の声が響いて来る。それに伴って、普段は忘れ掛けていた彼女との思い出が浮かんで来る。
懐かしさと同時に、嬉しさがこみ上げて来る。日々時が過ぎるにつれて、彼女に関する思い出は薄れて行くばかりだったが、自分は今もこうしてはっきりと彼女の事を想い起こすことができる。そこにあるかのように明確に。それが秋那には嬉しかった。
「どうかしたのか?」
カネツグが怪訝な目を向ける。
「……何でもありません。レベル五十九の〈盗剣士〉で、秋那と言います」
秋那は何事もなかったように装い、応える。記憶の渦に翻弄されないように、そっと小さく息を吐き出し、気持ちを落ち着ける。
イノリと名乗った少女も不思議そうに、秋那を見つめ返していたが、秋那が何事もなかったように取り繕い、挨拶を返すと、軽く頷き返して来る。
カネツグが〈守護戦士〉、シズネが〈施療神官〉、トキサダが〈暗殺者〉、キタオリが〈付与術師〉、秋那が〈盗剣士〉、そしてイノリが〈森呪遣い(ドルイド)〉。
壁役が一人、攻撃役が二人、回復役が二人、補助役が一人と、バランスが取れたグループだった。
レベル五十九と五十では少し差が有り過ぎるが、許容できる範囲内だった。ただ、グループ全体の平均レベルが五十五、六になり、レベル六十近いモンスターを相手するには、少し低くなり過ぎているのが気にはなったが、これもぎりぎりだが問題はないはずだった。
料理の片付けを終えたトキサダがキタオリを連れて来る。
秋那は説明をはじめる。
「では、順路の説明をします。この中で〈蜥蜴人族(リザードマン〉の神殿に行ったことがある人は?」
「居ない。君と違って全員が初めてのキャラクターだ」
カネツグは小さく首を振って、答える。
〈エルダー・テイル〉は歴史があるゲームであり、多くのプレイヤーが最高レベルになっている。最高レベルになったプレイヤーはより強力な装備やアイテムを求めて大規模戦闘に参加するか、もしくは全く別なキャラクターを一から育てることが多い。そう言ったキャラクターを一番目に育てたキャラクターに対して、二番目のキャラクターという呼ぶ。ベテランのプレイヤーになると、そうして育てた最高レベルのキャラクターを複数を持つ強者をいた。だが、『北極星』は社会人が主体のギルドであり、最高レベルの別キャラクターを持っているのは秋那だけだった。
秋那はカネツグの言葉に頷くと説明を続ける。
「まず神殿は集落ーー町から離れた山腹にあります。そこから一本道の山道が神殿まで続いています。山道と言っても石畳道で幅があります。我々はキャンプ地から抜け道を通って、この山道の中程に出ます。そこから見張りを倒しつつ、真っ直ぐに神殿を目指します。そして、神殿前の広場に出たら、そのまま広場の外縁に沿って進んで、側廊から中に入ります」
「巡回隊は?」
「ゲームの時には五分おきくらいに定期巡回がありました。が、それが今も続けられているのかは分かりません。だが、あると仮定して行動した方が賢明でしょう」
「そうだな」
「昨日の時点で山道に抜ける道の敵は完全に排除してあります。なので、神殿に入るまで上手く行けば数体の見張りを倒すだけで済むかもしれない。一番の難所は、神殿前の広場を移動する時です。ここはほとんど視界を遮る物がなく、場所が開けているので、発見され易くなっています」
「それについては心配しないで良いよ。手はある」
キタオリが口を挟む。
「神殿の中に入れば、後は最終目標で闇司祭と、その護衛が数体いるだけです。神殿の中は単純な構造で、普通の教会の礼拝堂と何ら変わらないです。広間に信者が座る長椅子が並んでいて、正面に祭壇と演壇があります。普通であればそこに闇司祭が居ます」
「そこに居ない時は?」
「恐らくは地下の控室ーー司祭の私室だと思います。祭壇の袖口に地下に降りる階段があります」
「礼拝に出会す、ということはないよな」
「さぁ、どうですかね。その辺はもう運に任せするしかないでしょう」
秋那は肩をすくめる。正直、そこまで責任は持てなかった。
「護衛の中に、治癒魔法を使って来る敵がいます。魔法使いがいたら、最優先で倒して下さい。それと…」
「それと?」
「それと、闇司祭自身が純魔法使いではなく、神官戦士であることです」
「複合職か。それは厄介だな」
カネツグが嫌そうに顔を顰める。〈エルダー・テイル〉には十二もの職種があるが、近接戦闘ができ、なおかつ魔法が使える職種は存在しない。魔法が使え、近接戦闘も熟せる職種はあるにはあるが、飽くまでも近接戦闘もできるというだけで、近接戦闘も魔法も得意という所謂複合職はない。そのような特性を持つのはNPCだけだった。
「暗黒騎士ではないのか?」
「違います。暗黒騎士は騎士が補助的に初級の暗黒魔法を使えるだけですが、闇司祭はどちらと言うと魔法使い寄りです」
「つまり、戦闘が得意な〈施療神官〉と言う訳か」
「そうです。おまけに回復魔法だけでなく、暗黒魔法も使って来ます」
「それはかなりの難敵だな」
「護衛の敵はレベル五十ニ〜四程度ですが、確か闇司祭はレベル五十九だったはずです。なので、こちらの魔法はほとんど効かないと思って下さい」
何か質問はありますか、と秋那は訊いたが、特に質問はなかった。そこで打合せは終わりになり、各々(おのおの)が準備に取り掛かる。
一行は昼前に昨日カネツグたちが、引き返した地点まで戻る。特に敵に遭遇することもなかった。抜け道の終着点だった。数メートル下に神殿に続く石畳道があった。しかし、下に降りるには、飛び降りるしなないような急斜面で、足場になるようなものは一切なかった。
全員が装備を付けたまま、飛び降りたり、そのまま斜面を滑り降りる。〈冒険者〉の身体能力からすればこの程度の斜面を飛び降りるのには何の支障もなかった。
「これ、帰りはどうするんだ?」
カネツグが崖を見上げて言う。
「攀じ登るしかないでしょうね」
秋那が肩をすくめる。だが、帰りの事を今から心配しても仕方がなかった。
先行したトキサダが、無言で手招きしている。幸い、巡回隊はいないようだった。
「この先にも気配はない。〈探知〉のスキルでも反応がない。行くなら今の内だ」
トキサダが言い、カネツグがそれに頷き、そのままトキサダを偵察として先行させて、グループを誘導させる。結局、神殿前の広場まで敵に遭遇することはなかった。
「問題はここからだな。遮る物が何もない」
カネツグは呟き、キタオリの方を見る。
「ああ、ちょっと待って下さい。ほとんど使わない魔法なんでスロットに登録していなくて」
キタオリは呪文書をペラペラと捲って、目的の呪文を探す。
「……あった、あった。これだこれだ」
キタオリは言いながら、杖の先で魔法文字を虚空に小さく描く。
しかし、何も起きなかった。
「おい、これだけか?」
気が短いトキサダが苛立って、キタオリを問い詰める。
「きちんと掛かっていますよ。〈霞〉の魔法です。ステータスバーにスペルのアイコン表示が出ているでしょ?」
「確か、敵の反応する距離が短くなる呪文だったな、ゲームの時は。こっちではどんな効果になっているんだ?」
「効果は保証しますよ。具体的には周囲の空気に屈折率が変わって、陽炎が立ち上がったようになって、視認性が下がります。二十メートル以内に近付かれなければ、まず見付からないですよ。効果はある。それは実証済みです」
キタオリは得意気に断言する。
〈付与術師〉は〈幻影術師〉の別名があるほどに、幻覚系の魔法が充実している。
〈蜥蜴人族(リザードマン〉の闇司祭が祭壇の前に跪き、祈りを捧げていた。
「人間ノ〈冒険者〉カ。人間ガ我ガ神殿ニ何用ダ?」
闇司祭が黙祷したまま、人間の共通語で問い掛けて来る。その発音は嗄れて聞き取り難かったが、間違いなく人語だった。
突然、人間の言葉で話し掛けられて、全員が面食らう。確かに、魔法を使いこなす程の知性があれば、人間の言葉を理解して話すことが出来ても不思議ではない。だが、特殊なイベント以外で、敵が話し掛けて来ることなど今まで経験したことがなかった。
「愚問カ。〈冒険者〉トハ財宝ヲ求メルモノ」
返答がないのを、襲撃者の沈黙と解したのか、闇司祭が自嘲的に呟く。
「強欲ナル簒奪者ヨ、此処ハ我ガ一族ノ聖地。汝ラノ穢レタ者ガ立チ入ィテ良イ場所デハナイ。疾クト去ネ」
黄色に縁取られた黒い瞳を向け、吐き捨てるように告げる。そして、法衣の裾を翻し、ゆっくりと立ち上がる。跪いている時は分からなかったが、闇司祭はかなりの長身だった。二メートル近い。
「護衛が居ない。やるなら今だ」
〈暗殺者〉であるトキサダが周囲を用心深く窺いながら囁く。その声に応じて、全員が闇司祭を取り囲むように動く。
「愚カナ者タチヨ、報イヲ受ウケルガイイ」
長身の闇司祭は周囲を取り囲まれながらも、悠然としていた。侮蔑するように自分を囲む〈冒険者〉たちを
睥睨する。そして、祭壇の脇に掲げられていた大型の戦鎚を取り上げる。
「参る」
カネツグが軽く一礼してから打ち掛かる。〈守護戦士〉のカネツグが正面を受け持ち、打撃役である〈暗殺者〉のトキサダと、〈盗剣士〉の秋那がそれぞれ左右の背後を位置する。
闇司祭を中心にして三人で三角形を描く形で囲む。こうすれば、必ず打撃役のどちらかが闇司祭の死角に位置することになる。パーティー戦闘での鉄板ともいうべき布陣だった。
だが、闇司祭は防御に徹して、正面で敵の注意を惹き付けるべき壁役のカネツグは攻めあぐねていた。元々、〈守護戦士〉はその圧倒的な分厚い装甲で攻撃を防ぐのが得意な職種であり、なおかつ大型方楯を持っているカネツグのような形は相手の攻撃を受けた上で、反撃するのを得意としている。そのため、相手に受けに回られると、決定力に欠けてしまう。
仕掛ける隙がない。
闇司祭は正面のカネツグが囮でしかなく、攻撃の主軸が背後に回った二人であることを理解して、背後の気配を探っているのが分かる。不用意に近付くのは躊躇われた。相手は暗黒魔法の使い手だ。
奇妙な静寂が広がる。
干戈の音は響いているが、全く熱がこもっておらず、どこか空々しい。
じりじりと距離を縮めながらも、秋那は仕掛けるタイミングが掴めずに、焦っていた。このままでは時間だけが過ぎてしまう。そして時間が経てば経つほど不利になるのは、襲撃側である自分たちの方であった。時間が経過するほど、この襲撃が露呈し、護衛が駆け付けて来る可能性は増して行く。ここは敵の本拠地だ。襲撃が知られたら、応援が次々と駆け付けて来るのは間違いない。そうなれば勝ち目はない。
多少無理やりでも、やるしかない。正面のカネツグが仕掛けるタイミングに合わせて、秋那は距離を詰める。どんな熟練の戦士であろうとも、三方向から同時に攻撃を仕掛ければ、捌ききれない。
闇司祭は右手に持った戦鎚を大きく横に振り、カネツグとトキサダを牽制しつつ、左手を秋那に向けて伸ばして来る。秋那はその手を掻い潜り、易々(やすやす)と無防備な脇腹に入り込む。
そのまま無防備な脇腹に剣を突き立てようとした時、突然視界が真っ暗になる。
〈盲目〉。触れた者の視界を奪う暗黒魔法。
何が起こったかは分かったが、秋那は咄嗟にそれに即した動きを取れなかった。不意に視界を奪われたため、僅かな間だが硬直したしまう。その無防備なところに戦鎚の一撃を受ける。
衝撃を受けた瞬間に、左腕の小型盾で身体を庇ったが、秋那は自分がクリティカルダメージを受けたのが分かる。HPが一気に三十パーセント以下にまでごっそり減っていた。ダメージを少しでも受けた状態であれば、即死していてもおかしくはなかった。それ以上のダメージを受けないために、後方に大きく下がる。
追撃はなかった。
だが、視界を完全に奪われ、身動きできない。
闇司祭が視界を奪う魔法を使うことも、視界を奪われた時にはどうすればいいかも知っていた。いや、知っているつもりだった。だが、知識としてして識っていただけで、本当には何も理解していなかったことを秋那は痛感する。改めて自分が如何に視覚に頼りきっていたかを認識させられる。
そして、一片の光もない暗闇がこれ程までに恐ろしいことを初めて知る。目を閉じるのとは違う。目を閉じても、瞼を通して光は常に感じている。だが、この魔法ではそれさえ奪われる。同時に、上下の感覚さえも奪われる。三半規管が狂わせられるのだ。それは恐慌を引き起こすには充分だった。
徐々に心拍数が早くなり、心臓の鼓動が早鐘のようになり、耳鳴りする。秋那は大声で叫び出しそうになる衝動に耐える。
不意に傍に人の気配を感じて、秋那は身構える。
「大丈夫、落ち着いて」
シズネだった。秋那の瞼に掌を当て、〈解呪〉の呪文を唱える。それで視界が回復する。
思わず安堵の溜め息を洩らす。周りを見回すと、戦闘は一進一退を繰り返していた。
強い。
予想外に苦戦を強いられていた。闇司祭の戦闘技術が格段に優れているわけではないが、要所要所で適切な呪文を使われるのが予想以上に負担になっていた。単純なAIを相手にするのとは全く勝手が違う。
そして、パーティーの構成も足枷になっていた。攻撃力に欠けているのだ。壁役の〈守護戦士〉、打撃役の〈暗殺者〉と〈盗剣士〉、回復役の〈施療神官〉。この四つのクラスは標準的なパーティーの構成と言えたが、〈付与術師〉とレベル五十になったばかりの〈森呪遣い(ドルイド)〉。この二つのクラスが足枷になっていた。もとより、〈付与術師〉は直接的なダメージを与えるのが得意なクラスではなく、飽くまでも多彩な呪文でパーティーのサポートするのが役目であり、今のような打撃力が必要な時にはもっとも不向きなクラスだった。
加えて、〈森呪遣い(ドルイド)〉は補助的な回復役としては優秀だったが、相手が守備的になっている状況ではその回復力を活かせない。この状況では戦闘が不得手な〈森呪遣い(ドルイド)〉が参加しても、足手まといにしかならない。しかも、レベル五十になったばかりでは、フルHPの状態でもクリティカルダメージの一撃で即死する可能性があった。
相手に知性があることがこれ程までに負担になるとは、全く思いしなかった。自分たちの認識の甘さを改めて思い知らされる。これまでにも何度かレベルが上の敵と相対して来たが、ここまで苦戦させられることはなかった。何よりも敵がHPを回復させる手段を持っているのが大きい。
〈傷手〉。
自分に与えられた傷を、触れた相手に移すという呪い。何よりも一度減らしたHPが僅かでも回復させられるが痛い。減らしたHPを回復させられるのは、その分の時間を無駄にしたのと同義だった。
闇司祭は回復の呪文よりも、この〈傷手〉を多用して、時間稼ぎをしていた。そして、時折、〈盲目〉を混ぜて、打撃役を牽制して来る。〈傷手〉も〈盲目〉も、相手に触れなければ発動しない呪文だったが、今の闇司祭は全く鎧を着ておらず、身軽であることがそれを可能としていた。
やはり、あの左手を封じないと駄目だ。パーティーの全員が同じ気持ちだったが、打開策がなかった。
必死にHPを削っても、すぐに〈傷手〉で回復されてしまう。こちらのHPも〈施療神官〉と〈森呪遣い(ドルイド)〉の二人の回復のお陰で、フルHPの状態を維持できていたが、それでは相手の思う壺だった。
「無駄なことをするな!」
〈沈黙〉の呪文を唱えたイオリに、秋那が叱責する。〈沈黙〉の呪文が成功すれば、対象は全ての音を発することを封じられ、当然に一切の呪文が使うことできなくなるが、抵抗されば何の効力も生じない。特に最終目標は呪文に対して高い対抗力を有している。ほとんど全ての魔法は抵抗されて無効化される。ましてレベルが十近くも低い〈森呪遣い(ドルイド)〉の呪文が通じる訳がない。魔力の無駄遣いでしかない。
「イノリ、あなたは今まで通り補助に徹して」
シズネから適切な助言が飛ぶ。イノリがそれに頷くのが見えたが、唇を噛み締め、今にも泣きそうな顔をしていた。今のパーティーの足を引っ張ているのが自分であることを分かっているのだ。だから、効かないとは分かっていながら、一か八かで〈沈黙〉の呪文を使ったのだ。
やはり、あの左手を何としても封じない限り、こちらの負けだった。
秋那は意を決する。クリティカルダメージを受けても、フルHPの自分ならば一撃死はしない。それは先程のダメージから分かる。二撃目を受ければ死は免れないが、それは味方を信じるしかない。
正面のカネツグが仕掛けるタイミングに合わせて、再度相手の懐深く目指して飛び込む。
予想通りに左手が伸びて来る。最初とは違い、秋那はそれを避けようとせず、そのまま触れるのに任せる。左手に触れられた瞬間、視界が奪われる。
闇司祭は左手を避けようとしない秋那の動きに何を感じ取り、咄嗟に腕を引こうとするが、秋那はその腕を抱え込む。視界は奪われていたが、抱え込んだ腕の感触ははっきりと感じられた。
太い丸太のようだった。闇司祭が右腕を振り上げ、戦鎚の一撃を放とうとしているのが分かったが、秋那はそれを無視する。一撃を受けるのは覚悟の上だった。その代わり、左腕を使えなくしてやる。
抱え込んだ腕を、秋那は片手剣を押し当てて全身の力を使って引き切る。最後まで引き切らない内に衝撃を受け、文字通り吹き飛ばされる。脇腹に激痛が走る。〈冒険者〉として痛覚は緩和されているはずだったが、それでも信じられないような痛みを感じる。
息ができなかった。
空気が吸えないのだ。吐き出した息がぶくぶくと喉元で鳴る。が、息を吸おうとしてもできない。息を吐けるが、吸えない。
空気がない。空気が肺に入っていかない。
肺が焼けるように熱くなる。
悲鳴を上げる。
秋那は暗闇の中で、悲鳴を上げる。
だが、それは声にならず、喉元でぶくぶくと泡になるだけだった。それでも悲鳴を上げずにはいられなかった。
秋那は床をのたうち回りながら、声にならない悲鳴を上げ続ける。
闇司祭の左腕がだらりと力無く垂れ下がっていた。
「回復させるな!」
カネツグは大型方楯を投げ捨て、長柄戦斧を両手で持ち替え、猛然と打ち掛かりながら叫ぶ。この機会を逃したら後はない。
「全員で打ち掛かれ!」
カネツグは鋭く命じる。視界の端で秋那が苦しんでいるのが見え、〈施療神官〉のシズネが駆け付けようとしていたが、それを放置するよう命じる。
シズネが咎めるような目を返して来たが、カネツグはそれを無視する。ここで押し切らなければならない。それには全員でなければ駄目だった。一瞬でも隙を作ってしまったら、左腕を回復させられてしまう。
闇司祭は必死に壁際に下がりながら、左腕を回復させようとしていた。
「全員でこのまま押し切れ!」
カネツグは強い口調で、再度命じる。長柄戦斧で戦鎚を弾き、返す刃で闇司祭の身体を切り裂く。
残り少なくなっていた秋那の中でHPバーがさらに徐々に減っているのには、気が付いていたが、今は回復役の僅かな打撃力でも惜しかった。
妻のシズネと他のメンバーの批難の視線を感じながら、カネツグは敵のHPを削ることのみに集中し、長柄戦斧を振るう。
自分の判断は間違っていない。
批難を感じても、そのことにカネツグは微塵も揺るがなかった。冷然と敵を見据え、持てる自分の戦技を全てを使い、着々と闇司祭のHPを削って行く。
絶対に左腕は回復させない。
カネツグは唯その一点のみに集中し、長柄戦斧を振るう。
長大な長柄戦斧がまるで飛燕のように自在に跳ね、闇司祭の身体を切り刻んで行く。鎧を纏っていない闇司祭は為す術がなく、切り刻まれて行く。
闇司祭が崩れるように、両膝をつく。闇司祭のHPはほとんど0になっていた。跪いたことで長身だった闇司祭の顔を位置が下がり、カネツグと至近距離から向かい合う形になる。
闇司祭は口から血の泡を吐きながら、憎しみに満ちた黄色の瞳を向ける。
爬虫類特有の生臭い息が顔に掛かる。
カネツグはその瞳を冷然と見詰め返す。憎悪を向けられても、特に何も感じなかった。ただ干戈を交えた相手に対する礼儀として、命の灯火が消えて行くのを黙って見送る。
「汝ニ死ヨリモ忌ワシキ呪イヲ……」
最期の力を振り絞り、闇司祭は呪いの言葉を吐き出す。
が、その言葉が終わる間際に、カネツグは長柄戦斧で一閃させ闇司祭の首を斬り飛ばす。
結局、カネツグたちが闇司祭を倒すのと、秋那のHPバーが0になるのはほぼ同時だった。