PL(パワーレベリング)前編
その自重を支える魂の翼持つ〈冒険者〉よ、
竜と巨人が、魔獣と亜人が住まう、幻想の世界セルデシア。
緑の風が薫る、ここは新しく、また古い大地。
開かれた白いページのようなこの大地に己の生を刻み込め。
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戦闘による恐怖はない。
生理的な嫌悪感さえ克服してしまえば、後にあるのは愉悦だけだった。
剣を振り、肉を削り、骨を砕く。
秋那はその感触を楽しむ。〈エルダー・テイル〉がゲームだった時には決して感じることできなかった感覚。一度恐怖を克服してしまえば、後は簡単だった。
ここは自分が求めていた世界だった。男だったら誰しも、実際に剣を振り、痛みを伴う戦いを経験してみたいと思ったことがあるはずだ。
〈エルダー・テイル〉がゲームだった時は疑似体験でしかなかったが、今はそうではない。本当に現実のものとして体験している。まさに願った世界だった。
剣と魔法の世界。それが今の〈エルダー・テイル〉の世界だった。
秋那は〈盗剣士〉だった。
〈盗剣士〉は二刀流が多いが、秋那は片手剣に小型盾を装備した型だった。攻撃力では劣るが、絶対的な安定感がある。〈守護戦士〉には防御力では劣るが、多彩な技と回避するスキルにより、壁役をこなすこともできる。万能タイプだった。いざとなれば、武装を切り替えて、二刀流になることもできる。
防御に優れた片手剣に小型盾は、人数がフルグループの六人に満たない時には非常に有効な形だった。
回復役が敵に襲われないように、立ち位置に気を付けながら、剣を振るう。
剣先が、〈蜥蜴人族〉の戦士の防具の隙間を腱を切り裂く。
敵が苦悶の表情を浮かべ、腕を抑えながら半歩下がる。
その隙を逃さず、距離を詰め、盾を敵の顔面に叩き付ける。強打という技だった。
敵の動きが一瞬だが止まる。
その一瞬で十分だった。大きく踏み込み、喉元に体重を乗せた剣を打つ込む。剣道の突きと似た攻撃だったが、似て非なるものだった。剣道の突きは防具で防げるが、この攻撃はまさに一撃必殺に技だった。
剣先が喉笛を突き破り、脊椎を破壊する。その感触をしっかりと感じながら、剣を横に倒しながら引き抜く。
ひゅーという空気が漏れる音と共に、血飛沫が飛び散る。
自然と愉悦の笑みがこぼれる。圧倒的な速度とタイミングで多数の敵を翻弄しながら、倒していく。戦闘の醍醐味だった。秋那はこういう乱戦が得意だった。
絶命した敵の身体を盾にしながら、次の目標との距離を詰める。次の目標は一群の指揮者と思しき戦士だった。周りの者たちよりも良い装備を付けており、体格も一回り大きかった。
死体を盾にしたお陰で、敵が自分を見失ったのが分かった。ゲームのスキルではなかったが、戦技の一つだった。不意打ちと同じ効果が得られる。
剣を振りかぶり、突進の速度を殺さずに渾身の力を込め、振り切る。武器を持つ腕を狙った攻撃。先程の攻撃とは異なり、防具の隙間を狙わず、そのまま手甲ごと断ち切る。
ぐしゃりと鈍い音が響く。
「グガァァァ」と、直後に〈蜥蜴人族(リザードマン〉の指揮者の口から咆吼が発せらる。腕は断ち切れなかったが、奇妙な方向に曲がっていた。完全に骨が砕けている。
部位破壊。
これもゲーム時代にはなかった技だった。スキルとして急所を狙うという攻撃はあったが、意図して腕や足などに大きなダメージを与えて使用不能にすることはできなかった。が、今ではある一定の条件は必要だが、それが可能になっていた。
決着はそれで付いた。指揮者が戦闘不能になり、随伴の兵士たちは完全に戦意を喪失していた。回復役のいない敵側は後は一方的に狩られるだけであった。
「お疲れ様。ほとんどオレたちの出番はなかったな」
一緒に戦っていた〈守護戦士〉が、声を掛ける。〈狼牙族〉の戦士だった。戦闘時の高揚から金色になっていた瞳と牙が徐々に元の人間に戻り始めていた。
「そうね、最初に〈加護〉の魔法を掛けた以外、ほとんど治癒を必要としなかったし」
〈狼牙族〉の戦士の隣に立っていた人間の〈施療神官〉が、少し諌めるような口調で言う。
二人は夫婦だった。二人とは〈大災害〉以前からの知り合いだったが、〈大災害〉の後に再会してからは、ずっと行動を共にしていた。〈守護戦士〉はカネツグ、人間の〈施療神官〉はシズネと言った。二人はギルド『北極星』のマスターとサブマスターだった。
そして、そのギルドに秋那も所属していた。
「戦闘狂ですから」
秋那は言い訳するように言う。
「でも、お二方がいるからこその戦い方です。自分一人ではあんな戦い方しませんし、できません」
「そうかしら、案外独りでも同じ戦い方しそうね。でも、私たちがいると時は、もっと頼って欲しいな」
シズネの言い方は柔らかいが、やはりどこか責めるような色があった。
「その方が効率的でもある」
カネツグも付け足す。
「だが、こんな場所ではあんまり活躍はできないがな」
カネツグは忌々しそうに、武器の柄で岩壁を叩いた。
カネツグが使っている武器は、長柄戦斧だった。開けた場所では絶大な威力を発揮するが、今いるような四方を岩壁で囲まれた狭い通路での戦闘には向いていない。
少し考えた後、秋那は「次からそうします」と応える。確かに、少し調子に乗り過ぎたかもしれない。効率を考えるのであれば、彼らにももっと敵を受け持ってもらった方が、早く倒し切れたかもしれない。
戦闘の技術を磨くのと同時に、優先すべき事柄がある。いち早くレベル九十になる。それが自分たちの共通の目的だった。そのために、アキバから遠く離れたこんな場所まで遠征して来ているのだ。
彼らが今やっているプレイスタイルは、パワーレベリングと言われるものだった。一小隊に満たない人数で効率良く敵を倒して行き、狙った任務を完遂していく。
レベルを上げることが目的になので、プレイを楽しむというゲームの本質とは異なる邪道だが、〈エルダー・テイル〉はもうゲームではない。この世界で何かを為そうとすれば、何よりもまずレベルを上げることが必須になる。全てはそれからだった。
「先を攻める?それともいったん引いて、出直す?」
シズネが確認するように訊く。
もうすぐ日が暮れようとしていた。このまま夜を迎えるのは危険があった。
この世界は徐々に変わりつつある。〈大災害〉直後と半年近く経った今では、明らかに色々な状況が変化していた。そして少しずつではあるが、ゲーム時代の情報が役に立たなくなりつつあった。
特にモンスターの行動パターンや出現地点などが大きく変わりつつある。余計な危険を犯さないには、夜間の行動は極力避けた方が賢明だった。
「いったん引きましょう。この先に進んでも、その先の最終目標は私たちだけでは手に余ります。一小隊でないと」
「他のギルドメンバーの助けを借りるか」
カネツグが呟く。
それでその日の攻略は終わりだった。三人は来た道を引き返す。
星が綺麗だった。満天の星空。晩秋の夜空は空気が澄み、本当に沢山の星が瞬いていた。
宿営地に戻った秋那は夕食の後、横になりぼんやりと星を眺めていた。
宿営地は秩父の山奥にあり、周囲に全く灯りがないために星がよく見えた。普通の人の視力では六等星までしか見えなかったが、〈冒険者〉の視力がある今は八等星くらいの星まで見ることができる。一等星増えれば、見える星の数は三倍になると言われている。二等星増えれば、三×三で十倍近い数の星が見えることになる。
秋那が今、目にしている夜空は本当に空一面が星で埋まっていた。天の川が薄い光る雲のようなものではなく、無数の小さな星の集まりだということに気が付かされる。そして、星空が立体的に見える。当たり前だが、本物の星空はスクリーンに光を投影しているだけの二次元のプラネタリウムとは違う。
秋那はこの〈エルダー・テイル〉で本物の星空を知った。それは涙が出て来てしまう程に美しかった。じっと見詰めていると、少しずつ少しずつ吸い込まれそうになる。手が届きそうだった。
秋那は無意識に、そっと手を伸ばす。
その時、唐突に不安に襲われる。発作にも似た形で、強烈な不安が襲って来る。
またいつもの感覚だ。じっとしていれば、しばらくすれば治まる。しかし、心臓の鼓動が早くなり、胃が締め付けられるように痛くなる。秋那は身体を屈め、目を閉じ、唇を噛み、それが行き過ぎるのを待つ。
数分すれば、元に戻るのは、今までの経験から分かっていた。だから、何も考えず、ただひたすらじっと耐える。
原因は分かっている。だが、自分ではどうしようもなかった。
不安。どうしようもない不安。
今、ここでこうしている自分が、夢か何かではないかという不安。ここでこうしている自分が現実ではなく、単なる幻想に過ぎないのではないかという恐れ。
この世界が〈大災害〉で突如始まった時と同じように、今度は不意に終わりを迎えるのではないかという不安。その事を考えてしまってから、この強烈な不安に襲われるようになってしまった。気を緩めたり、ふとした時間の合間にぼんやりしていると、唐突に襲って来る。
理由もなく与えられた物は、いつかまた理由もなく理不尽に奪われる。原因が分からず、突然始まった事は、また不意に終わりを迎えても不思議ではない。いや、今のままの状態が永遠に続く保証などどこにもない。むしろ、始まりと同様に終わりもまた突然に訪れると考える方が自然だった。
だが、もう失いたくない。また失ってしまったら、たぶん自分は生きてはいけない。こうして戦えること、それが今の自分が生きている証だった。
失ったことがない人間には、分からない。健常者にはハンディキャップがある人間の気持ちなど、絶対に分からない。当たり前のことが当たり前にできない悔しさ。
欠けたもの、足らないもの、満たないもの。
枷を負わされた人の苦しみ、口惜しさ、悔しさ。言葉にすれば陳腐で平凡だが、その深さは計り知れない。言葉で言い表せるような生温いものではない。その感情はもっともっと激しく、どす黒い。その感情を表す言葉があるとしたら、憎しみーーいや違う。憎悪、そう憎悪という言葉が一番近い。
枷を背負わされた者は、何度も何度も神を呪い、世界の破滅を願う。だが、そんな思いを抱きながらも、ほとんどの者は卑小な生にしがみついて死ぬこともできない。
そして、祈る。「なんで神はこんな苦難を自分に与えるのか。神よ助けたまえ」と祈る。が、祈りが通じることはない。例え神がいたとしても、世界中で何億、何十億もの人々が祈っているのだ。その中で自分の祈りなど埋れてしまう。どんなに祈っても神は応えてはくれない。
神は万人を等しく愛する。だが、全てを同じように分け隔てなく愛するということは、誰も愛していないのと同義だった。それ故、神は祈りには応えない。
いつしか祈ることにも疲れ、ただただ神を呪い、怨嗟を吐き出し、ひたすら世界を憎み続ける。そして、そんな自分に嫌気が差す。気分が落ち込む。いつか自己愛だけが肥大していき、魂がいびつに歪み、濁っていく。世界を憎みながら、強く美しく生きられない自分を呪う。他人の幸せを妬み、恵まれた人の境遇を憎む。魂が穢れ、醜くなっていくのを感じながらも、それを押し留められない自分に絶望する。
だが、この世界では違う。自分は屈強な完全な身体を手に入れた。ようやく枷が無くなったのだ。自分は生まれ変わったのだ。戦いの恐怖など大したことはなかった。あの暗い暗い絶望の深淵の闇に比べたら、敵に対峙する恐怖など如何程のこともない。
この世界は理想郷だ。そして、この世界はあまりに美し過ぎる。
強烈な不安は徐々に薄まって行く。鼓動も落ち着いて来る。
秋那は深呼吸しながら、もう一度夜空を見上げる。そして今度は「本当に綺麗だ」と呟きながら、掴めない星空に手を伸ばす。
今は世界の美しさに、素直に感嘆できる。涙が溢れそうになる。この世界は斯くも美しい。だから、失いたくない。そして、そう感じられる今のこの気持ちも、もう二度と喪くしたくはなかった。そのためなら、何だってする。ダンジョンでの連戦連戦のレベリングなどの苦痛の範疇に入らなかった。それどころか、悦びでさえあった。
「何をしているの?」
振り向くとシズネが立っていた。
「あまりに星空が綺麗だったから」
秋那は照れ臭そうに答える。「本当にそうね」とシズネも答え、隣りに腰を降ろす。
「眠れないの?」
「怖いんです」
「怖い?」
「眠っている間に、世界が変わって、また元の世界に戻ってしまうんじゃないかと」
星空を仰ぎ見ながら、秋那は弱々しく告白する。
「こんなことを言うと、元の世界に戻ろうと思っているシズネさんたちに怒られそうですけど」
「そんなことはないわよ」とシズネは秋那の頭を抱き寄せ、髪をくしゃくしゃとかき撫でる。
髪が乱れたが、嫌ではなかった。秋那はされるがままに、頭を預ける。一人っ子だったので分からないが、年の離れた姉がいたらこんな感じなのだろうか、とぼんやり思う。
「私だって、あの子のことがなかったら、もっとこの世界に居たいと思ったかもしれない。でも…」
でも、そうは思っていない。何としても、元の世界に戻るつもりでいる。自分がこの世界に留まるためなら、何でもするつもりなのと同様に。
彼女たちがこの世界を壊して、元の世界に戻ろうとしたら、自分はどうするだろうか。
考えるまでもない。答えは決まっている。迷うことなく、戦うだろう。
そう考えてしまう自分が、秋那は少し哀しかった。彼女たちが早く元の世界に戻れれば良い、と真剣に思い、どんな協力でもする気持ちに偽りはない。
だが、絆を深めることに戸惑いを覚える。いざという時に敵対するのが分かっているのに、関係を深めるのは不誠実ではないかと思ってしまうのだ。
「そんなに張り詰めていると、いつかプツンと切れてしまうわよ」
シズネが秋那の考えを見透かすかのように瞳を覗き込みながら言う。
「構いません。一度壊れないと、限界が分かりませんから」
秋那は寂しそう微笑む。
その答えにシズネはぞっとする。本気でそう思っているのが分かる。普通ではない。
確かに〈冒険者〉の身体能力は高い。だが、それに比して精神は元のままだ。無理をすれば身体より先に精神が壊れてしまう。いや、間違いなく、精神の方が先に参ってしまう。身体とは違い、精神は一度壊れてしまったら、取り返しが効かない。
この子は直向き過ぎる。このままでは本当にいつか壊れてしまうだろう。
「無茶はしないで。おばさんを心配させないでね」
シズネは秋那を優しく抱き締める。この子には挫折が必要だとシズネは思う。だが、それが彼には致命傷になりかねない。
挫折して、立ち直る度に人は強くなる。玉鋼が何度も何度も折られて熱せられて粘り強い鋼になって行くように、人は何度も挫折を積み重ね成長して行く。しかし、稀にそうではない人もいる。強過ぎるために滅多に折れることはないが、一度折れてしまうとそのまま元に戻れない人がいるのだ。
純粋で、真っ直ぐで、ぶれることなく直向きに頂きを目指す。その姿は美しく好感が持てた。だが、どこか危うくもあった。
シズネはその危うさから守って上げたいと心の底から思った。
まるで年端の離れた仲の良い姉弟のようだ。
カネツグは二人の様子を少し離れた場所から眺めて思う。シズネは昔から母性的で年下から好かれる質だったが、子供が産まれてから一層それが強くなった。
子供という言葉に、ずきりと胸が痛む。カネツグはそっと自分の両の手を見る。
もう何ヶ月も抱いていない。あの子は今どうしているだろうか。現実世界に置いて来てしまった生後一年に満たない我が子に思いを馳せる。
強烈な後悔の念が襲って来る。なぜ二人揃ってログインしてしまったのか。どちらか片方が残っていれば、こんな想いをすることはなかった。
育児疲れしていた妻の気休めとして、子供を寝かし付けた後に、二人揃って〈エルダー・テイル〉にログインした。二人ともゲーム好きであったし、最近育児に掛かりっきりでめっきり外に出ることが少なくなってしまった妻の気晴らしになればと思ってのことだった。
〈エルダー・テイル〉はMMORPGであり、その現実の地形を模した世界の造形は美しく、本当に多様な種類の場所があった。幻想的な雰囲気とあいまって、場所によっては現実の世界の景観を圧倒的に凌ぐと言われていたくらいであった。そのため、現実ではなかなか行くことが出来ない場所に、ちょっとした旅行代わりに気軽に行くことができた。〈妖精の輪〉を使えば、日本だけではなく、それこそ世界中のどこにでも短時間で行くことができた。気晴らしにはもってこいのはずだった。
だが、その時に〈大災害〉が起こった。
なぜ二人揃ってログインしてしまったのか。そのことだけで後悔で一杯だった。我が子のことを想う度に胸が締め付けられる。
カネツグは、夜な夜な身悶え、嗚咽を必死に堪えている妻を何度も見ている。身を痛めて産んだ子だ。その感覚は父親である自分には想像できない辛さだろう。行き場を失った母性本能が、無意識に代わりの対象を求めても、それは致し方がないことだった。
罪悪感を覚える。自分は彼の直向きさを利用している。大人ならば社会にも出てない彼らを守り、導いて行かなければならないはずなのに。
星空が眩しかった。満天の星空。吸い込まれそうで、落ちてきそうだった。手を伸ばせ、届きそうだった。だが、カネツグは手を伸ばそうとは思わなかった。綺麗だとは思うが、ただそれだけで、それ以外の感情は微塵も湧いては来ない。
手を伸ばして、その輝きを手に入れたいとは思わない。手を伸ばしても、決して星空には触れることはできない。感傷的な気持ちなど今の自分には不要な物だった。
元の世界に戻ること。
それだけが今のカネツグの全てだった。そのためにはどんな物でも利用する。このギルド『北極星』でさえも、持駒の一つと考えていた。
影響力を持つこと。必要になった時にその影響力を行使できるようにする。そして、何としても元の世界に戻る手段を手に入れる。
そのためには、まずは一刻も早くレベル上げ切ることだ。それには、あの少年の知識と情熱は貴重だった。
カネツグは冷徹な目で、夜空を眺める。