エピローグ 終幕
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突然、目の前に広々とした空間が広がった。天然の大洞窟の神殿だった。あまりの天井の高さに光が届かない。その巨大な空間に装飾が施された円柱が並んでいる。
地下の大神殿。
神々しくあった。だが、禍々しく不吉な神々しさだった。荘厳であるが、どこか歪であり、その全てが死を想起させた。何よりも空気が澱んでいた。いや、澱んでいるというよりも、まとわりつくような死臭が漂っていた。
その中を総勢約六十名の軍団が幾つかの集団に分かれ、慎重に歩みを進めていた。
『不死の王の迷宮』
それがこのダンジョンの名前だった。アンデッド属性の最高難易度のダンジョンで、アキバ最強といわれている〈D.D.D〉や〈黒剣騎士団〉が数度の全面の憂き目に遭い、攻略を断念したほどのダンジョンだった。
〈エルダー・テイル〉がまだゲームだった頃はレベル八十前後向けの拡張パックの一つとして導入されたコンテンツに過ぎなかったが、それが今では九十レベルを超える大規模戦闘集団でも攻略が不可能なほど難易度が上がっていた。
「だいぶ少なくなったな」とヒガキは思った。
このダンジョンに入ったときは、大規模戦闘の最大数九十六人だったはずだ。それが今は六十人にも満たない。
彼らは対アンデット属性の装備を集め、このダンジョンのために特別に編成された選り抜きの精鋭だったが、この最深部に辿り着くまでに二週間以上もかかり、三分の一以上の人員を失っていた。その数は当初の想定よりもはるかに多かった。普通であれば撤退してもおかしくはない。
しかし、撤退も失敗も許されなかった。恐らく、今回の攻略に失敗したら、次はない。アキバの〈円卓会議〉の全面支援の下、ゲーム時代の貴重な資産を投入してこの結果なのだ。
もう一度同じような装備を調えるだけで年単位の時間が必要になる。その間に、敵はますます勢力を拡大させ、力を付けるだろう。そうなれば、この最深部に辿り着けるかも分からない。
いや、絶対に無理だ。ヒガキはこの二週間を振り返り思った。この二週間は地獄だった。
襲撃に次ぐ襲撃。このダンジョンに潜ってから一時も気が休まる時はなかった。ゲーム時代のAIの固定化された単調な襲撃とは異なり、本当の不意打ちの連続だった。
まず孤立していたグループが狙われた。六×十六グループの大集団だ。どうしてもはぐれてしまうグループは出てきてしまう。そのはぐれたグループが襲われ、他のグループが救援に駆けつけたときには、敵は消えてしまっている。その繰り返しだった。
一回一回の襲撃の被害は大したことがなくても、それが続けば話は別だ。しかも、このダンジョンでは〈蘇生〉の呪文が無効化されている。つまりは死んでしまった者は生き返らすことができない。死んでしまった者は冒険者なのでそのまま大神殿に転送されるだけだが、レイドグループはその分の人数が欠けることになる。補充はできない。結果、襲撃を受け、死者を出す度に戦力が着実に削られていく。
理由が分からず、いつの間にか消えてしまった者もいた。殺されたのでなく、いつの間にか居なくなっていたのだ。まるで神隠しだった。それが一人だけではなく、幾人もだった。当初は原因を探ろうとしたが、結局手掛かりもなく、原因は分からずじまいだった。
一時も心休まる時はなかった。見えない蜘蛛の糸に絡め取らていくような気分。それはひどく心を消耗させた。アイスピックで氷が削られるように、少しずつ少しずつ心が欠け、精神が摩滅していく。
安心して眠りたかった。ふかふかのベッドが恋しい。真っ白なシーツに頬を埋めて、ぐっすりと眠りたい。
だが、それももうすぐ終わる。奴を倒せば、この苦しみも終わる。
ヒガキは神殿の正面にある玉座を見詰めた。
その玉座には若い男が座っていた。青年と言うよりもまだ少年と近い。俯いているため、表情を窺うことはできないが、金属板鎧で全身を覆っている〈守護戦士〉であるヒガキに比べればはるかに軽装だった。黒い鎖帷子を纏い、黒い軍衣を羽織って、悠然と脚を組んでいる。
その胸の部分に刺繍された見慣れた紋章を認め、ヒガキは唇を歪めた。
ギルド紋章。
そして、それはヒガキが所属しているギルドのものだった。ギルドの象徴であり、犯さざる神聖な証。それを死霊の首魁が身に付けている。
冒涜だ。
自然と唇を噛み締める。
「なぜそれを身に付けている?もう人間ではないお前が?」
ヒガキは憎しみを込めた視線を向ける。が、それを保ち続けるには強い意思の力が必要だった。
全ての死を統べる者。
不死の王。人ならざる者。死を体現した存在。
〈エルダー・テイル〉がゲームだった時には、数多ある大規模戦闘の目標の一つに過ぎなかったが、それが今では都市を一つ全滅させるほどの力を持つに至っている。実際に、領主会議の一つが不死の軍団に襲われ、滅ぼされていた。
「マスター…」
ヒガキは自分の出した声に驚く。声が擦れ、震えていた。まるで怯えているようだった。いや、間違いなく怯えてた。高レベルの大規模戦闘を何度もこなしてきた自分が、敵を眼前にして怯えていた。
マスターと呼ばれた女性は金色に近い薄茶色の髪をなびかせ、慄然と玉座を凝視していた。驚いたことに、彼女の口許には柔らかい微笑みがあった。
「マスター、命令を」
ヒガキはもう一度繰り返す。
その時、俯いていた〈不死の王〉が顔を上げる。そして、閉じられていた瞼がゆっくりと開く。
緋色の瞳。赤い鮮血をさらに濃くしたような緋い色。
その双眸がわずかに輝く。たったそれだけで、幾重にも掛けられていた加護の呪文の効果の一つが消えていた。最高レベルの〈施療神官〉が掛けた呪文を一睨みしただけで無効化したのだ。
背筋が寒くなる。いったいどれほどの力を持っているのか。
ヒガキたちは、〈大災害〉後、まだ完全な復活を果たす前の〈不死の王〉と戦ったことがあるが、その時とはまるで違っていた。完全な復活を果たす前の〈不死の王〉は中規模レイドの二個グループの総勢四十八名で攻略可能な目標だった。実際、ヒガキたちが戦った時には、中規模レイドグループと言っても、大半のメンバーがレベル九十にも満たない状態でも十分に攻略できた。
それが今では全員がレベル九十を超えて、なおかつ強力な対アンデッド装備で固めていると言うのに、まるで勝てる気がしない。以前に相対した〈不死の王〉は、こんなに禍々しい圧迫感など有していなかった。
本当に勝てるのか。ヒガキは疑念に思う。
「〈吟遊詩人〉は呪歌を」
彼女が凛とした声で命じる。その声は大きくはなかったが、戦闘集団の全体に行き届く。
ヒガキはその声を聞いて、自らを奮い立たせる。彼女の声には人を奮い立たせる力がある。そこに〈吟遊詩人〉の〈戦歌〉の輪唱が掛かる。その旋律がさらに心を鼓舞し、恐怖心を追い払う。
戦闘集団は距離を詰める。互いに距離を取り、範囲攻撃を受ける人数を抑えるようしつつ、半円を描きながら、玉座を押し包むように歩みを進める。
今のところ、護衛は見当たらなかった。だが、大規模レイドの最終目標である不死の王が単体でいるわけがなかった。必ずどこかに護衛が待ち伏せしているはずだった。
不意に背後から悲鳴が上がる。
振り返ると、グループの後衛が襲われていた。
死霊だった。半透明の霊体化したアンデッド。それが次々に霊体から、実体化しつつあった。その数は二十を超えていた。
ヒガキは舌打ちをする。その全てが高レベルの騎士の死霊だった。それも普通の騎士の死霊ではなく、〈古来種〉の騎士だった。
〈古来種〉の騎士、イズモ騎士団は行方不明だったはずだ。それが何故ここに居るのか。死霊化されているが、間違いなく消滅して行方不明となっていたはずのイズモ騎士団の騎士たちだった。
その死霊騎士が数体ずつ群れになって、グループの後衛を襲う。白兵戦に慣れていない後衛が背後から襲われ、混乱に陥る。精鋭揃いであったが、近接戦闘の専門ではない後衛は大きく乱れる。怯むことはなく、各個に迎え撃つが、全ての死霊騎士が強力なエナジードレインとの使い手であり、相手が悪すぎた。
前衛の戦士たちが慌てて踵を返すが、範囲攻撃を警戒して、各グループの前衛と後衛の距離を開けていたのが裏目に出る。そして、応援に駆けつけようとした前衛の戦士たちの足下の地面から、わらわらと不気味な腕が生えて来る。その腕が戦士たちの足を掴み、動きを妨げる。
低級のアンデッドの群れが地面から湧いて来ようとしていた。ヒガキの足下からも白骨化した腕や干涸びた腕が伸びて来る。ダメージは全くなかったが、煩わしかった。ヒガキはそれを無造作に長剣で薙ぎ払う。しかし、次々に現れる。切りがなかった。
その時、ヒガキは彼女の周りで複数の死霊騎士が完全に実体化しつつあるのを見た。そして、敵の狙いが指揮者で彼女にあるのを悟る。そして、ヒガキは護衛であるはずの自分が、いつの間にか彼女から不用意に離れ過ぎていたことに気が付く。
急いで距離を詰めようとするが、無数の腕が絡み付いて来て、思うように走れない。
「邪魔だ!どけ!」
苛々して、ヒガキは吠える。だが、気が焦るばかりで、身体は逆に動けていなかった。足を取られ、そのままつんのめりそうになる。
「落ち着いて」
微風を耳許に感じた直後、離れた場所にいるはずの彼女の囁くような声が聴こえる。その凛とした声に頭に昇っていた血が引き、冷静さを取り戻す。
見ると、彼女は複数の風の精霊を召喚し実体化させつつ、自身も短槍を振るい、複数の死霊騎士の攻撃をやすやすと躱していた。前衛の戦士以上の身のこなしだった。
風の精霊が死霊騎士に纏わり付き、その動きを鈍らせる。そして、風の精霊が巻き起こす風の中を髪をなびかせ、彼女は軽々と舞う。
彼女は視線を玉座から全く外していなかった。その玉座に座る者に真摯な瞳を向け、まるで自分を見せ付けるように舞う。古の戦乙女のようだった。いや、戦乙女など足許に及ばないほど、その姿は神々しく美しかった。だが、どこか物悲しかった。
「大丈夫、良く周りを見て」
もう一度彼女の声がすぐ傍にいるかのように聴こえる。
周りを見ると、各グループが連携して態勢を整えつつあった。範囲攻撃を避けるために距離を取っていた各グループが互いの距離を詰め、相互に連携を取り始めていた。
ヒガキは取り乱した自分を恥じる。今までの経験を買われて、彼女の護衛に選ばれたのに、醜態を晒した。
〈挑発〉、さらに続けて〈雄叫び(ハウル)〉のスキルを使う。彼女に纏わり付いていた死霊騎士の視線が、強制的にヒガキの方に向けられる。
「そうだ、お前らの相手はこっちだ」
ヒガキはさらに〈斬撃〉などの攻撃スキルを使い、敵の注意を自分に向ける。
そして、敵をただ圧倒する。それだけだった。
喰らい付き、噛み千切る。
それがヒガキの唯一の戦法だった。そこに剣技など微塵もない。ひたすら剣を振り、叩き付ける。相手の剣撃を弾きとばし、その剣を叩き付ける。
砕けろ、砕けろ、砕けろ。
それだけを念じて剣を振るう。
砕けろ、砕けろ、粉々に砕けろ。
唐突に、脇腹に激痛が走る。脇腹に長槍の穂先が深々と刺さっていた。板鋼の隙間に刺し込まれ、槍の穂先は間違いなく内臓に達していた。
が、ヒガキはそれを無視し前に出る。そして、無造作に長剣を振り下ろす。目の前の敵に剣を振り下ろすことにのみ集中する。
敵の瞳に恐怖の色が浮かぶ。死霊にも感情があるのか。ヒガキは壮絶に嗤った。
そのまま潰れろ。恐怖しながら、死ね。
潰れろ、潰れろ。
胃から逆流してきた血を吐き出す。
そして、吼える。歯を剥き出し、吠える。その様はまるで狂犬だった。
左右の敵は狂ったようの攻撃してきたが、それを無視して、正面の敵に向かって剣を振り続ける。
そのまま正面の死霊騎士を押し潰す。さらに目を血走らせて、次の獲物に喰い付く。狂犬が獲物に喰らい付くように、闘争本能に任せて剣を振るう。
視界が赤く染まり、自我が消えて行く。それと共に身体の奥底から猛々しい感情と一緒に力が湧いて来る。
全てを破壊してやる。彼女に敵対するモノは、全て破壊し尽くしてやる。
ヒガキが我に返った時、HPは十パーセントを切っていた。しかし、彼らの周りにいた死霊騎士は全て倒し切っていた。その他のグループも同じように、最初の混乱から抜け出して、死霊騎士を駆逐しつつあった。
足元がくらくらする。ヒガキは朦朧となりかける意識を歯を喰い縛って引き留める。
鎧が重い。
先程までは全く重さを感じなかったのに、今は全身に乗し掛かる全身鎧の重さに押し潰され、膝を屈してしまいそうになる。
まだ終わっていない。ヒガキは自分を柔らかく包む〈脈動回復〉の魔法を感じつつ、気力を振り絞る。彼女が掛けてくれたのは確かめるまでもなかった。
徐々にHPが回復して行く。
まだ終わっていない。護衛を倒しただけだ。
これからが本番だ。王座に腰掛け、悠然と睥睨するように彼らの戦い振りを何もせずに見ているだけの〈不死の王〉に、ヒガキは憎しみの目を向ける。
だが、その目が驚愕に見開く。
玉座の後ろの漆黒の空間から何かが現出しようとしていた。
漆黒の空間が歪み始め、そこから湧き出すように巨大な何かが現出しようとしていた。
「……まさか、嘘だろ」
思わず声が漏れる。信じられなかった。ヒガキは自分が目にしているモノの正体を知って絶望した。
頭部がまず現れる。鱗に覆われた、爬虫類を想起させる棘をまとった頭。それもかなり大きい。
姿を現したのは、死霊化した竜だった。しかも、普通の竜ではなく、〈古代種〉の龍だった。
「古代龍…」
誰彼となく、吐息にも似た呟きが漏れる。
本来であれば、大規模戦闘の最終目標であってもおかしくない。それを従えているのか。いったいどれほどの力を秘めているのか。間違いなく、今の〈不死の王〉は神に匹敵する。
神と戦えというのか?
全身を表した死霊古代龍は咆哮する。それは魂を押し潰す咆哮だった。
死闘の始まりだった。絶望的なまでの死闘の始まりだった。