リリィ
窓を開けたら冷たい空気が流れてきた。
暖房が効きすぎて暑い車内でこの風は気持ちが良い。
目を閉じて顔のほてりを冷ましていると、ふいに梅の香りが鼻先をかすめた。
反射的に目を開けてみたらちょうど目の前を白い花を咲かせた梅の木が通りすぎたところだった。
あたしは隣でハンドルを握る姉に声をかけた。
「お姉ちゃん」
「なに?」
「あのさぁ上の階で犬飼ってる人いるじゃん」
「いるね」
「あの人ついにバレたみたいだよ。管理人さんに」
「まぁペット禁止だからね。うちのマンション」
姉は気の毒にねと呟いて、わざとらしくあーあと溜め息をつく。
「お姉ちゃん」
「ん?」
「思ってないことはわざわざ言わなくて良いよ」
「バレたか」
「バレたよ」
姉は分かりやすく舌を打った。
そのくせ悔しそうじゃないからこれも形だけの反応なんだろう。
姉はなんでだか無駄なリアクションをしたがる。
「でもさ、全部嘘じゃないんだよ」
あたしはへっ?首を姉に向けた。
ちょうど十字路を右に曲がるとこだった。
「ホント気の毒だよ、犬が。人間の身勝手で好き放題されて」
「……そうだね」
「特にあの子は頭が良かったのに、気の毒」
「ああ、あたしよりは賢かったね」
「ついでに言うとあの飼い主よりもね」
「そだね」
あたしは犬につけられていた超絶趣味の悪い紫の首輪が思い出した。
どこを探せばあんなものが見付かるんだろうと本気で考えてしまうくらいの趣味の悪さだ。
あれと同じものを探し出すのと世界中の指名手配凶悪犯を逮捕するのだったら、どっちが簡単だろう。
「頭とセンスが悪いやつは嫌いだな」
あたしは暖房のスイッチを切って窓を閉めた。
「あらら?」
すると姉がこっちを横目で見て意地悪く言ってきたので、あたしは何、と声のトーンを落として返した。
何が言いたいのかなんて聞かなくても分かる。
「それじゃあアンタ自分のこと嫌いってことになっちゃわない?」
そらきた。
「はいはい、センス悪くて悪かったですねぇ」
あたしはげんなりしてそう言い返した。
センスの良い姉は何かにつけてあたしのファッションをからかってくる。
「あたしはお姉ちゃんみたいにお洒落じゃないから」
「ちゃんと分かってんじゃん」
「うっざ。このくそナルシ」
「ナルシのどこが悪いのー?」
あたしは顔をしかめた。
姉はこうやって開き直ってるから性が悪い。
自分に与えられた才を余すとこ無く理解し、誇り、利用している。
すごいなと思う。
姉は間違いなく人生の勝ち組だ。
「そういえばさぁ、アンタ弁護士の資格ちゃんと取れんの?」
大分街中に近付いたところで、思い出したように姉が口を開いた。
もう梅はどこにも見えない。
「いや弁護士の資格っていうか、司法試験ね」
軽く訂正をする。
「どっちでも同じじゃん」
「違うって。司法試験合格しただけじゃ弁護士なれないから」
「お姉ちゃんよく分かんなーい」
「‥‥あっそ」
じゃ聞くなよと突っ込みそうになって思い止まった。
よく考えれば姉は別に聞いていない。
単純に弁護士にはなれるかと聞いたのだ。
あたしはあーとうめいて髪を撫でつけた。
「まぁぼちぼちかな。このまま頑張ればいけると思う」
すると姉はそう、と満足そうに言って窓の外に視線を移した。
運転中に危ないな。
そう思って注意しようとしたら、いきなり体が見えない手に押し出された。
首がガクンと振れる。
重力という重力が全身にかかった。
姉が急ブレーキを踏んだのだ。
ギリギリのところでシートベルトが引っ掛かって、何とかあたしはフロントガラスとの衝突を免れた。
驚きと食い込んだベルトのせいで少しの間息が止まる。
「………っ、お姉ちゃん!」
あたしは運転席に向かって叫んだ。
後続車がいなかったのがせめてもの救いというか。
しかし姉はけろりとした顔であたしとは逆方向に顔を向けていた。
「ちょっとぉ」
むかついて呼び掛けたら、姉はあれ、と窓の外を指差した。
「バスケやってる」
言われてそっちに目をやると、確かに若者たちが数人錆び付いたバスケットゴールの周りで熱戦を繰り広げていた。
悪い予感がする。
「まさかお姉ちゃん……」
「そのまさか」
予感は的中したらしい。
姉はにやりと笑ってドアを開けた。
「車動かしといてね」
閉め際に鍵を投げてくる。
動かしといてねって、あたし免許持ってないんですが。
まぁ動かし方は知ってるけど。
「早く帰ってきてよー」
一応程度に言っといて、あたしは鍵を挿してエンジンをかけた。
学生時代バスケをやっていた姉の腕は今でも並以上。
果たして彼らは突然の乱入者に勝てるだろうか?
あたしは駐車禁止の注意を受けないうちに車を発車することにした。
憧れはいつだって隣にいるのです。




