Monster
ようやく半袖でも大丈夫な気候になってきた。
月の明るい夜、俺はフェンスに区切られた一面分もないバスケットコートの真ん中に立って、膝をゆるく曲げた。
ボールを持った両手を眼前まで寄せて、狙いを澄ます。
息を吸った。
「綺麗」
投げたボールは真っ直ぐリングに入る。
俺はイェイと脇のベンチに座っている彼女にピースを向けた。
「すげーだろ」
「だから綺麗って言った」
「好きな子にはいくらでも褒めてほしいんだって」
転がってきたボールを拾って彼女の元へ駆け寄る。
「それに俺ブランク丸二年だぞ? それであのフォームはすげーって」
「最近また友達とバスケし出してるって聞いたけど」
「……誰に」
「知らない」
彼女はいつも通りのそっけない態度でそう返して俺の持つボールに指を伸ばした。
細く長いその指はさすが楽器をやってるだけあって綺麗だ。
俺のフォームより格段に。
「いる?」
中学から愛用してるボールだけど、欲しいならあげよう。
そう思って俺はボールを差し出そうとした。
「いらない」
しかし彼女はあっさり言い放つ。
「いらないってひでー」
「ちょっと触ってみたくなっただけだから」
「やっぱアレとは違うの?」
「アレ?」
「チェロ」
「あ、うん。もちろん。こんなにボコボコしてない」
「ボコボコ……」
まぁ確かにボコボコしてるわな表面。
つーかボコボコしてる楽器ってあんの?
「どうして?」
「え?」
いきなり投げ掛けられた疑問に俺はボールから彼女に視線を戻す。
「ああ、ごめんなさい。主語忘れてた」
掌で額を押さえて彼女は珍しく溜め息を吐いた。
どうしてまたバスケを始めたのって意味、と小さく付け加える。
「あーなるほどね。いや俺の友達にバスケやってるのがいんだけどさ、この前街の中でバスケが超上手いネエちゃんに会ったらしいんだわ」
「超上手い……?」
「そ、超上手い」
説明しながら、そう話してくれた友人を思い出す。
悔しいような、嬉しいような。
そんな表情でそいつは頬を緩ませていた。
『もう一回勝負してぇな』
多分そいつは嬉しかったんだろう。
機嫌が良いときに右眉上の古い傷跡を触る癖が、最近よく見られたからだ。
「で、俺もそいつに付き合ってまたバスケしてんの」
俺はそう言ってボールを小指に乗せてくるくると回した。
釘付けになってる彼女の姿が可愛い。
こんなに可愛いのに学校では吹奏学部の副部長やっちゃってんだからすげーよなぁ。
まぁ副部長ってのがどんくらいすごいかはよく分かんねーけど。
とにかくすごいってことにしとこう。
「あ、てかさ、何で部長になんなかったんだ?」
俺はふと思ってボールを回す手を止めた。
そうだよ、部長なら確実にすげぇじゃん。
だって一番だし。
爛々とした目を向けると、彼女はすごく冷静な声で返してきた。
「実力です」
冷静っていうか、もう冷たいくらい。
わお、懐かしい。
俺と出会った頃もこんなかんじに冷たくて、ですます口調だったな。
懐かしむ俺をよそに、彼女はベンチから立ち上がってゴール下まで歩いて行く。
ゆらりと吹いた風で広がろうとする髪をそっと手で押さえる。
「あの人はずるいから」
目を細めた俺に、彼女は言った。
「あの人は誰の為にも生きてない。ただ自分の為に生きてる。呼吸をしてる。いつでも自分に自信を持っていて、自信を持つことが人として当然みたいな顔をしていて。そして、その自信に見合うだけ実力を持ってる」
「あの人って、部長さん?」
「そう。……もうすぐある国際コンクールにも出るらしいけど」
彼女は眩しそうにリングを見上げた。
「きっとあの人は一番になる」
まるでそれが確定した事実みたいに言うもんだから、俺はそれを確定した事実だと思ってしまって、ついああと声をもらしていた。
「天才なんだなぁ、その部長さん」
すると、彼女は嬉しそうに微笑んでこっちを見た。
「でも、不思議な所は少し貴方に似てるかも」
「え? 俺不思議っ子?」
手にしたボールを下に落とすと、ボールは地面を嫌がるように跳ね返って俺の手の中に戻ってきた。
それとももっと高い所に跳びたいんだろうか?
跳びたいんだろうさ。
俺はボールを掲げて彼女に笑いかける。
「そっちだって結構不思議っ子だと思うぞー」
投げたボールは真っ直ぐリングに飛んで行った。
愛する人から愛をもらえるなんて、なんてすばらしいことなんだろう。