願いを叶えるたびに、人間になっていく神
天界の最上層、白い大理石の玉座に腰掛けたまま、私はため息をついた。
「またか……」
眼下に広がるのは、無数の光の糸。人間界から伸びてくる「願い」の糸だ。
私は《願神》ユウマ。人間の願いを叶えることを定められた至高の存在。永遠に変わらぬ力を持ち、感情など持たないはずだった。
なのに、最近、妙に退屈だった。
「叶えても叶えても、すぐに次の願いが来る。人間ってのは本当に欲深いな」
ぼそりと呟くと、従者の精霊が驚いたように身を震わせた。
「ユウマ様……お言葉ですが」
「いいんだよ。どうせ誰も聞いてない」
私は指を軽く振った。一番太く輝く光の糸を引き寄せる。
──世界が切り替わる。
雨の降る小さなアパートの一室。膝をついた高校生くらいの少女が、私を見上げていた。目が真っ赤だ。
「か……神様……?」
「そうだ。君の願いを叶えに来た」
少女は掠れた声で言った。
「母さんが……もう長くないんです。痛がって苦しんでて……お願いです。せめて、楽に逝かせてあげてください」
私は淡々と指を鳴らした。病院のベッドで、心電図が静かに平坦になる。安らかな最期。
少女が泣き崩れる。
「ありがとう……本当に、ありがとうございます……!」
その瞬間、胸の奥に小さな温かさが染み込んだ。
精霊の声が響く。
「ユウマ様、神性値が0.3%低下しました」
「些細なことだ」
私は少女の頭を撫でて消えた。
その夜、私は初めて「夢」を見た。雨に濡れる少女の姿を、ただ見つめ続ける夢を。
二度目の願いは、ビルの屋上。自殺を試みる青年だった。
「金が欲しい。死ぬほど金が!」
「叶えよう」
指を鳴らすと、青年の口座に巨額の金が流れ込む。
その直後、私の胃が鳴った。空腹──神が感じるはずのない感覚。
「神性値、さらに1.2%低下。『hunger』の概念が混入」
以来、私は人間界で食事を試すようになった。最初は無味だったものが、次第に甘いストロベリータルトに夢中になっていく。
五度目の願いは、田舎の小さな神社だった。
夕陽が差し込む境内。制服姿の少女が、両手を合わせて祈っていた。明るい茶色の髪をポニーテールにまとめ、目がくりっとした、可愛らしい子だ。名前は美咲といった。
「神様……どうか、お願いします」
彼女の声は真剣で、少し震えていた。
「私は……漫画家になりたいんです。小さい頃からずっと描いてきた。でも、家族は『現実を見ろ』って。才能もないって言われて……それでも、諦めたくない。せめて、一度でいいから、誰かに『面白い』って言われる機会が欲しいんです!」
純粋で、熱い願い。商業デビューへの道などではなく、ただ「認められたい」という、少女の夢。
私は少し微笑んだ。完璧な神の微笑み。
「叶えよう」
指を軽く振る。美咲の描いた作品を、偶然ある漫画賞の選考委員の目に留まらせる。ネット上で少し話題になり、小さな出版社から声がかかるようにした。派手な奇跡ではなく、自然な形で。
美咲が目を開けた時、私は目の前に立っていた。
「え……本当に、神様……?」
「そうだ。君の願いは叶った。これから頑張れ」
美咲の目が輝いた。次の瞬間、彼女は勢いよく抱きついてきた。
「ありがとうございます! 本当に、ありがとう……!」
その瞬間、私の心臓が激しく鳴った。
どくん、どくん。
人間の鼓動。
「ユウマ様……顔が赤くなってますよ?」
精霊の声ではなく、美咲本人が不思議そうに私の頰に触れた。柔らかい指の感触に、私は動揺を覚えた。初めての、本物の動揺。
それから、私は美咲のことが気になって仕方なくなった。願いを叶えた後も、時々彼女の町に降り、遠くから様子を見守るようになった。
彼女は毎日、机に向かって漫画を描いていた。出版社からの連絡に飛び上がって喜び、家族に報告して泣いていた。
神が、人間を「好きになる」なんて、ありえないはずだった。
願いを重ねるごとに、神性は削られていった。
十回目。病気の息子を救いたい母親の願いを叶えた代償として、私は「痛み」を得た。
夜中に激しい頭痛に襲われる。神の力を人間の器に押し込める拒絶反応。
「もう……やめようか」
弱音を吐いた。
精霊が悲しげに言う。
「神性を完全に失うと、あなたはただの人間に。それでも?」
答えられなかった。
代わりに、美咲の元へ降りた。
彼女は今、漫画のラフを描きながら、楽しそうに鼻歌を歌っていた。私の叶えた小さなきっかけが、彼女の道を照らしている。
路地裏で、私は胸を押さえて蹲った。
痛い。寂しい。羨ましい。
神だった頃、絶対に知らなかった感情が、波のように押し寄せてくる。
美咲に会うたび、心がざわつく。彼女の笑顔を見ると、胸が熱くなる。彼女が疲れて肩を落とすと、守ってあげたくなる。
これは、恋という病なのか。
何度目の願いだろう、この願いが、最後の分水嶺になった。
老いた男が、病に倒れた妻を救いたいと願った。
「どうか……妻を」
その愛情の深さに、私は迷った。神性値は残り3%を切っていた。
それでも、男の目を見たら断れなかった。
「……叶えよう」
妻は癒えた。
瞬間、私の体から光が溢れ、天界との繋がりが断ち切られた。
白い翼が消え、容姿が少し人間くさくなった。髪は乱れ、目は潤み、唇は乾く。
雨の降る地面に膝をついた。冷たい。初めての本物の寒さ。
半年後。
私は「天野悠真」として、人間界に溶け込んでいた。小さなアパート、コンビニバイト。
神の力はほとんど残っていない。せいぜい、ちょっとした幸運を呼べる程度。
美咲とは、偶然を装って再会した。彼女が通う専門学校近くの喫茶店で。
「えっ……あの時の、神様……?」
最初は信じられなかったようだが、何度も会ううちに本物だと認めてくれた。
「神様だったのに……なんで人間に?」
公園のベンチで、彼女が聞いた。
私は肩をすくめた。
「願いを叶えすぎた罰だよ。人間の気持ちがわかるようになって、結局、自分も人間になりたくなったのかもしれない」
美咲は少し寂しそうに、でも優しく笑った。
「でも……今は、幸せ?」
私は彼女の手を取った。温かい体温。
「幸せだよ。君とこうして一緒にいられる」
顔が熱くなる。照れくささも、人間らしい。
美咲は漫画家として、少しずつ道を歩み始めていた。私の与えたきっかけを、自分の力で大きく広げている。時々、描き上がったページを見せてくれる。
「これ、どう思う?」
「面白いよ。続きが読みたい」
そんな他愛もない会話が、たまらなく愛おしい。
今でも、時々、光の糸が届く。
力はほとんどないが、精霊が残してくれた僅かな力で、声をかけることはできる。
「大丈夫だよ」「頑張れ」
それで十分だ。
私はもう、神ではない。ただの人間、天野悠真。
願いを叶えていた頃より、世界は色鮮やかになった。
痛みも、寂しさも、喜びも、恋も、全部ひっくるめて。
「悠真、今日も新作のラフ見てくれる? あと、タルト買ってきたよ!」
美咲が笑顔でドアを開ける。彼女の願いは「一度でいいから認められたい」だったけど、今はもっと大きな夢に向かって走り出している。
私は立ち上がり、彼女を迎えた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
神だった私が、最後に叶えた最大の願い。
それは、自分が「人間になること」だった。
そして、美咲と共に生きること。




