沈黙は金なり、雄弁は死なり
「ズルズルッ……うん、うまい!」
路地裏の屋台ラーメン。一杯500イェン。
これが、僕の贅沢の限界だ。
サキュバスから巻き上げた100万イェンは、結局装備の修理費と家賃の滞納分で消えた。
世知辛い。
「あの……すみません」
背後から、凛とした声が聞こえた。
振り返ると、そこには純白のローブを纏った美少女が立っていた。
金色の髪、透き通るような青い瞳。
この街に住む者なら誰もが知っている顔だ。
国内最大ギルド『聖域』の幹部にして、国民的アイドルの『聖女』エリナ様だ。
「え、聖女様!? なんでこんな汚い屋台に!?」
「きゃー! エリナ様よー!」
周囲の客がざわめく中、彼女は真っ直ぐに僕を見つめた。
「探しましたよ。……貴方ですね? スプーン一本で魔竜を葬り、視線だけで魅魔の女王を退けたという、孤高の戦士は」
「……(あ、やべ。バレてる)」
逃げようと腰を浮かせた僕を制するように、彼女は一枚の羊皮紙をテーブルに叩きつけた。
「単刀直入に言います。私のギルドに入ってください! 契約金は1億イェン! さらに年棒制で、全てのダンジョンの優先権を与えます!」
ブーッ!!
僕は鼻からラーメンを吹き出しそうになった。
い、一億!?
F級の僕が!?
(入る! 入ります! 今すぐハンコ押します!! 靴でも舐めます!!)
僕が口を開き、「喜んで!」と言おうとした――その刹那。
世界が停止し、悪魔のウィンドウが目の前に割り込んだ。
【隠し実績が解放されました】
《ミッション:沈黙は金(聖女の勧誘に対し、一言も発さず、ただ立ち去る)》
《報酬:翻訳の指輪(全言語理解)》
《失敗時のペナルティ:装備が全解除され、頭上に『私はド変態です』という称号(発光・解除不可)が1週間固定される》
「……ッッ!!!!」
僕は急ブレーキをかけ、言葉を飲み込んだ。
危ない。死ぬほど危なかった。
もし今、「喜んで」と言っていたら……。
この衆人環視の中で全裸になり、頭上にピカピカ光る『ド変態』の文字を掲げながら、聖女様と対面することになっていた。
それは死だ。物理的な死よりも残酷な、魂の殺人だ。
一億イェンは魅力的だ。喉から手が出るほど欲しい。
だが、変態の烙印を押されて生きていくくらいなら、貧乏のほうがマシだ!!
「……どうしました? 条件が不服ですか?」
聖女が怪訝な顔をする。
僕は必死に首を横に振った。
違う。そうじゃない。喋れないんだ。喋ったら僕は変態になるんだ!
「では、何故……? まさか、1億でも安いと? 金には興味がないとでも言うのですか?」
(興味あるよ!! 大好きだよ!! なんなら今すぐその契約書を食いたいよ!!)
心の中で血の涙を流しながら、僕は口を真一文字に結んだ。
ラーメンの汁が口の端から垂れそうになるのを、必死の形相で堪える。
その顔は、傍から見れば「苦渋の決断」をしているように見えたかもしれない。
「……まさか。貴方は、知っているのですか?」
聖女がハッとして、口元を押さえた。
「『聖域』というギルドが、実利主義で腐敗し始めていることを。貴方は、私の瞳の奥にある『助けて』という悲鳴を……見抜いたのですか?」
(え? 何の話?)
僕はただ、ペナルティが怖くて震えていただけだ。
だが、聖女の目には涙が浮かんでいた。
「だからこそ、沈黙。……言葉による契約など無意味。行動で示せ、と。そういうことですね?」
違います。
全然違います。
でも、もう限界だ。これ以上ここにいたら、耐えきれずに「金くれ」と言ってしまいそうだ。
僕は勢いよく立ち上がった。
丼に残ったチャーシューが名残惜しいが、今は逃げるしかない。
僕は聖女に背を向け、一言も発さずに歩き出した。
その背中は、1億イェンをドブに捨てた男の、深い哀愁(と絶望)に包まれていた。
「待ちたまえ!!」
聖女の声が響く。
だが、僕は止まらない。止まれない。
涙がこぼれそうだったからだ。
「……なんて人。1億という大金を前にしても、眉一つ動かさず、ただ己の道を行くなんて……」
エリナは、遠ざかるカイトの背中を呆然と見送った。
彼女の頬が、ほんのりと赤く染まる。
「私、初めて見ました。……本当の『自由』を纏う人を」
《ミッション達成》
《報酬:翻訳の指輪を入手しました》
路地裏の角を曲がった瞬間、カイトはその場に崩れ落ちた。
「僕の1億イェンんんんんんん!! 返してよぉぉぉぉ!!」
魂の叫びは、誰にも届かなかった。
ただ、彼の小指にはまった地味な指輪だけが、キラリと光っていた。
これが後に、人類とモンスターの歴史を覆すことになるのだが……今の彼は知る由もない。




