瞬きしない理由は...
『煉獄龍』の一件から数日。
僕は逃げた。全力で逃げた。
あの後、現場に残っていたら「英雄」として祭り上げられるか、あるいは「詐欺師」として尋問されるかの二択だったからだ。
僕が選んだのは、平穏無事なモブとしての生活だ。
「……はぁ。でも、金がない」
ドラゴンを倒した実績で『竜殺し』の称号は手に入れたが、悲しいことにステータス補正はゼロ。
ドロップアイテムも全部置いてきてしまった。
今の所持金は、今日の夕飯代すら怪しいレベルだ。
「やるしかない……この依頼を」
僕はギルドの掲示板から、誰も受けない不人気クエストを剥ぎ取った。
『C級クエスト:魅惑の森の調査(戦闘不要)』
報酬はそこそこいいが、精神汚染のリスクがあるため、敬遠されている場所だ。
「調査だけなら、F級の僕でもなんとかなる……はず」
甘かった。
森に入って30分。僕は最悪の存在と遭遇していた。
「あら、可愛らしい男の子。迷子かしら?」
甘ったるい香りと共に現れたのは、露出度の高いボンテージ姿の美女。
背中にはコウモリのような翼。
この森の主、S級モンスター『サキュバス・クイーン』だ。
(終わった……! これ絶対、精気吸い尽くされてミイラになるやつだ!)
僕が恐怖で腰を抜かしそうになった瞬間、またしてもあのウィンドウが現れた。
【隠し実績が解放されました】
《ミッション:石像の如き意志(サキュバスの凝視下で1分間、身動きせず、言葉を発せず、瞬きもしない)》
《報酬:100万イェン(即時入金)》
「ッ!?」
100万イェン。
その単語が、僕の脳内で爆発した。
100万あれば、家賃が払える。
100万あれば、カップ麺以外のものが食える。
100万あれば、ガチャが回せる!
(やる! やります! 僕の魂なんて安いもんだ!)
カッ!!
僕は目を見開いた。
限界まで大きく、眼球が乾いて痛くなるほどに。
そして呼吸を止め、筋肉を硬直させる。
頭の中を「100万イェン」という文字だけで埋め尽くすことで、サキュバスの誘惑をシャットアウトする作戦だ。
「ふふっ、そんなに固くならなくていいのよ……ボウヤ」
サキュバス・クイーンが僕の顔に近づく。
吐息がかかる距離。
彼女の魔眼は、相手の欲望を増幅させて廃人にする『快楽の檻』を発動していた。
しかし。
(100万、100万、100万……あと40秒……)
僕の目には、彼女の豊満な肢体など映っていない。
僕が見ているのは、虚空に浮かぶタイマーと、札束の幻影だけだ。
「……え?」
サキュバスの笑みが引きつる。
彼女には見えていた。
この少年の瞳が、あまりにも「虚無」であることを。
色欲はおろか、恐怖すら感じていない。
ただ一点を見つめ、微動だにしないその姿は、まるで感情を切り離した処刑人のようだった。
「な、なんなの? 私の魅了が効かない……?」
彼女は焦った。
S級の精神干渉を完全に無効化するなんて、人間業ではない。
しかも、彼は何かを数えているように見える。
(100万、100万……あと10秒!)
カイトの目は血走り、執念のあまり焦点が合わなくなっていた。
それが、サキュバスにはこう映った。
『獲物の命脈が尽きる瞬間を、秒単位で計算している目』だと。
「ひっ……!」
サキュバス・クイーンが後ずさる。
本能が警鐘を鳴らしていた。
この男は、見た目通りの弱者ではない。
『欲望』が存在しないのではなく、もっと別の、巨大すぎる『渇望』を抱えている。
それに飲み込まれたら、私ごときが一瞬で消滅してしまう――!
(あと3秒……2……1……)
《ミッション達成》
《報酬:100万イェンを獲得しました》
「ぶはぁッ!!」
1分経過した瞬間、僕は限界まで止めていた息を吐き出した。
酸欠で目の前がチカチカする。
ゼェゼェと荒い息をつきながら、僕は膝に手をついた。
「はぁ……はぁ……! やった……勝った……!」
(金が手に入ったぞおおおお!)
その勝利宣言を聞いたサキュバス・クイーンは、顔面蒼白になった。
「か、勝った、ですって……? 精神の攻防で、私を圧倒したというの……?」
彼女は震える声で呟くと、背中の翼を広げた。
これ以上、この不可解な存在の近くにいてはいけない。
「覚えてなさい! 人間……いいえ、化け物め!」
バサァッ!
S級モンスターは、F級冒険者を前にして、一目散に逃走した。
「え? あ、逃げた?」
僕はポカンと空を見上げた。
まあいいや。調査完了ってことで。
懐を確認すると、確かに重みのある革袋が入っていた。
「すごい……! あのサキュバス・クイーンを、視線だけで退けるなんて……!」
茂みから、一人の女性騎士が現れた。
彼女も調査に来ていたのだろうか。
彼女の目は、まるで聖人を見るような尊敬の眼差しで僕を捉えていた。
「欲望に塗れたあの魔女を前にして、微動だにしない鋼の精神力。貴方こそ、真の聖職者です!」
「いえ、ただ金のこと考えてただけなんで……」
「金……? ああ、『金剛』の如き意志、ということですね。素晴らしい……!」
(ダメだこの人、話が通じない)
僕は諦めて、重たい財布を抱きしめた。
とりあえず、今日は焼肉だ。




