懐かしい匂い
奈落の塔、最深部。
重厚な大扉を押し開けると、そこには冷たい水晶で覆われた広大な空間が広がっていた。
僕は息を呑んだ。
一千万イェン。一千万イェンまであと少しだ。
ここまで僕は本当に何もしなかった。ただ歩き、ただ怯え、ただ呼吸していただけだ。
この部屋のボスさえ倒せば(他の人たちが)、僕の無血開城ミッションは達成される。
「構えろ! 来るぞ!」
レオンが大剣を抜き放ち、鋭い声を上げた。
部屋の中央、巨大な水晶の玉座に座っていた影が、ゆっくりと立ち上がる。
どんなおぞましい化け物が現れるのか。
僕はレオンたちの背中に隠れるようにして、玉座を盗み見た。
そこにいたのは、目を疑うほど可憐な少女だった。
透き通るような桃色の髪。
尖った長い耳。
華奢な体にフリルのついたゴシックドレスを纏った、エルフの少女だ。
「……ふわぁ。騒がしいと思ったら、また人間?」
彼女は小さな口を開けて、退屈そうにあくびをした。
見た目はただの可愛い美少女だ。
しかし、彼女がため息をついた瞬間、空間そのものがギシギシと軋むような重圧が僕たちを襲った。
「気をつけろ! 魔力のケタが違う! こいつがこの塔の主、『厄災の妖精』だ!」
レオンたちが一斉に斬りかかる。
S級冒険者3人による、息の合った波状攻撃。
だが、桃髪のエルフは一歩も動かなかった。
「遅い。つまんない」
彼女が細い指先を軽く振るだけで、目に見えない衝撃波が爆発した。
ドゴォォォォン!!
「ぐあぁぁぁっ!?」
レオンたちが紙くずのように吹き飛ばされ、水晶の壁に激突した。
たった一撃。しかも魔法の詠唱すらしていない。
文字通り、大人と赤子ほどの戦力差があった。
エルフの少女はつまらなそうに宙を舞い、トドメを刺そうと指先に黒い魔力球を圧縮し始めた。
これ以上の戦闘は全滅を意味する。
だが、僕にはどうすることもできない。
攻撃すれば、一千万イェンがパーになる。
メイド服でギルドを歩くことになる。
僕は彫像のように直立不動の姿勢を保ち、ただひたすらに自分の気配を消すことだけを考えていた。
僕は空気だ。僕は水晶だ。一千万イェンの置物だ。
その時だった。
「……ん?」
エルフの少女が、ピタリと動きを止めた。
彼女は黒い魔力球をあっさりと霧散させ、空を這うようにして一直線に僕の目の前まで飛んできた。
距離、わずか数センチ。
美しい桃色の髪から、甘い花の香りがする。
彼女は鼻をヒクヒクと動かし、僕の首筋の匂いを直接嗅いできた。
「すんすん……」
僕は動けない。動いたら攻撃判定になりかねない。
恐怖で冷や汗が滝のように流れる。
「……ちょっと待って」
彼女が顔を上げ、大きな赤い瞳で僕を真っ直ぐに見つめた。
その目には、驚愕と、どこか懐かしむような複雑な感情が入り混じっていた。
「なんで君から……あの『ろくでなし』の匂いがするの?」
僕は首を傾げた。
ろくでなし? 誰のことだ。僕は毎日風呂には入っているぞ。
「あのふざけたシステムを作って、この世界の法則をぐちゃぐちゃにした……あの人の匂いが、君に染み付いてる」
エルフの少女は、僕の目の前に浮かび上がる半透明のウィンドウを、まるで見えているかのように指差した。
僕の最大の秘密である『隠し実績システム』。
それを、この最深部のボスは知っているのか。
その不可解なやり取りを、壁際で倒れ伏していたレオンが呆然と見上げていた。
「……バカな」
レオンは血を吐きながら、震える声で呟いた。
「あの最凶の魔王が、カイトの前に立っただけで攻撃を止めた……? まるで、久々の旧友との再会を懐かしむように……」
「まさかカイトは、この塔が封印されるより遥か昔から、あの魔王と因縁があるというのか……!?」
違います。今日が初対面です。
僕は叫びたかったが、声を出せばミッションに支障が出るかもしれない。
「ねえ、君。あの人は今どこにいるの? 答えてよ」
エルフの少女が、僕の胸ぐらを掴んで顔を近づけてくる。
可愛い顔が怒りに染まっているが、僕は本当に何も知らないのだ。
ただ、ミッションと報酬に踊らされているだけの、哀れな貧乏人なのだから。
彼女が口にした『ろくでなし』とは一体誰なのか。
僕に見えているこのシステムは、一体何のために存在するのか。
全ての謎が宙吊りになったまま、僕の沈黙は、彼女をさらに苛立たせることになった。




