S級遠征
ギルドの掲示板の前で、僕は空っぽの財布を握りしめていた。
妹のもやし無料券騒動から数日。
僕の所持金は、ついに二桁に突入した。
今日中に稼がなければ、公園の水を飲んで飢えを凌ぐことになる。
「カイト。少し面を貸せ」
背後から、低く重い声が響いた。
振り返ると、そこには傷だらけの屈強な男が立っていた。
この街のギルドマスターにして、元S級冒険者の『鬼腕』のバルガスだ。
バルガスは僕の腕を掴み、強引にギルドの奥にある応接室へと連行した。
応接室には、すでに3人の男女が待機していた。
全員が、見るからに只者ではないオーラを放っている。
「紹介しよう。我がギルドが誇る最強のS級パーティー『黒の剣閃』だ」
彼らは鋭い視線で僕を値踏みしてきた。
僕は震える膝を必死に押さえつけた。
なんでF級の僕が、ギルドの最高戦力と顔を合わせているんだ。
「単刀直入に言う。カイト、お前に『奈落の塔』の最深部への同行を依頼したい」
奈落の塔。
それは最近街の近くに出現した、未踏破のS級ダンジョンだ。
致死量の瘴気が漂い、入った者の生還率はほぼゼロと言われている。
「断る」
僕は即答した。
いくら金がなくても、命には代えられない。
そんな地獄に行けば、開始一秒で僕は消し飛ぶ。
バルガスが机にドンと拳を落とした。
「隠さなくてもいい! スプーンで竜を葬り、ミミックに自ら核を吐き出させ、A級のジンを赤子のようにあしらった男が、今さら普通の冒険者のふりなど通用せんぞ!」
違う。全部事故だ。
僕が弁解しようと口を開きかけた瞬間、視界がチカチカと点滅した。
あの忌まわしいシステムウィンドウだ。
【隠し実績が解放されました】
《ミッション:不殺の誓い(S級ダンジョン『奈落の塔』の最深部まで、一切の攻撃行動をとらず、モンスターに1ダメージも与えずに到達する)》
《報酬:1000万イェン(非課税) + スキル『絶対回避(1日1回)』》
《失敗時のペナルティ:今後1年間、ギルド出入り時の服装が『猫耳メイド服』に固定される(脱衣不可)》
僕は息を止めた。
一千万イェン。しかも非課税。
これがあれば、もう家賃に怯えることも、もやしを巡って涙を流すこともない。
しかし、条件が厳しすぎる。最深部まで一切の攻撃行動をとらない?
そんなこと、乱戦になれば絶対に不可能だ。
だが、失敗すれば一年間、屈強な男たちが集まるこのギルドを、猫耳メイド服で歩き回ることになる。
それは肉体の死を超えた、完全なる社会的死だ。
「……引き受けよう」
僕の声は、絶望と恐怖で低くかすれていた。
S級パーティー『黒の剣閃』のリーダーである大剣使いの男、レオンが鼻で笑った。
「ギルドマスターの推薦とはいえ、得体の知れない奴を背中は任せられねえな。俺たちは俺たちのやり方で最深部を目指す。足手まといになるなら、お前はそこへ置いていくぞ」
ありがとう。是非そうしてほしい。
僕は心の中で深々と頭を下げた。
後ろでただ見ているだけで一千万もらえるなら、それに越したことはない。
翌日。
僕たちは奈落の塔の1階層に足を踏み入れた。
壁はぬめり、空気は腐った肉の匂いがした。
息をするだけで肺が焼けるようだ。
「来るぞ!」
レオンが叫ぶ。
暗闇から現れたのは、3匹の『デス・ナイト』。
全身を黒い鎧で包んだ、物理攻撃がほとんど効かないA級モンスターだ。
レオンたち3人が即座に武器を構え、迎撃態勢をとる。
デス・ナイトのうち1匹が、後方にいた僕に目をつけ、大剣を振りかぶって突進してきた。
「おい新入り! 避けろ!」
レオンの怒声が飛ぶ。
だが、僕は動かない。いや、動けない。
足がすくんで一歩も動けないのだ。
攻撃して防ぐこともできない。少しでもダメージを与えれば、メイド服確定だからだ。
僕は死を覚悟し、目をギュッと瞑って、昨日手に入れたばかりのスキルを発動した。
「スキル発動……『気配遮断(Lv1)』!」
スッ。
僕の存在感が、その場から薄れた。
Lv1の気配遮断は、「道の端に落ちている石ころ」程度の存在感になるだけの地味なスキルだ。
デス・ナイトの大剣が、僕の頭上へ振り下ろされる。
僕は地面にうずくまり、頭を抱えて団子虫のように丸まった。
ドゴォォォォン!!
地面が砕け散る音がした。
だが、僕に痛みはない。
恐る恐る目を開けると、デス・ナイトの大剣は、僕のすぐ隣の地面を叩き割っていた。
デス・ナイトは僕の存在を完全に見失い、キョロキョロと首を振っている。
石ころに向かって剣を振るう馬鹿はいない。気配遮断が奇跡的に機能したのだ。
「……は?」
レオンが信じられないものを見るような声を上げた。
彼らの視点からは、こう見えていた。
デス・ナイトの必殺の一撃が命中する直前。
カイトの姿が、一瞬だけ陽炎のようにブレた。
次の瞬間、剣はカイトの体を『すり抜け』、地面を粉砕したのだ。
そしてデス・ナイトは、目の前にいるはずの標的を認識できず、混乱している。
「次元……断層……? 自らの肉体を別の次元にずらすことで、物理法則そのものを無効化したというのか……!」
パーティーの魔法使いが、震える声で呟いた。
僕はただ団子虫になって震えていただけだが、彼らには『神々の領域の回避術』に見えたらしい。
レオンは額に汗を浮かべながら、ニヤリと笑った。
「なるほどな。俺たちへのテストってわけか。『この程度の雑魚、俺が手を下すまでもない。お前らで片付けろ』ってことだな?」
違います。助けてください。
僕は声を出さずに首を横に振った。
しかし、レオンはその首振りを「まだまだだな」という呆れと解釈した。
彼はデス・ナイトに向かって大剣を構え直した。
「見せてやるよ、俺たちの力を! おい、行くぞ! 彼にこれ以上呆れられるな!」
S級パーティーが、異様なほどの士気を見せてデス・ナイトに殺到する。
一方、僕は地面に転がったまま、どうやったらこの地獄の塔から無傷で帰れるかだけを考えていた。
一千万イェンへの道は、果てしなく遠い。




