書き換えられた世界で、私だけが「悪」を覚えている ――侵略者である転生者の聖域を焼き払うまで――
「もし、愛する世界が誰かのゲーム盤にされてしまったら?」 そんな問いから生まれた、一人の女性の執筆と反逆の物語です。 輝かしい「ハッピーエンド」の裏側で、消されていく脇役たちの声を感じていただければ幸いです。
シャンデリアの輝きが、今はひどく不快な残像となって網膜を焼いている。
王城の白亜の大広間。 着飾った貴族たちの視線は、鋭い針となって私、エルゼ・フォン・グラナートの全身に突き刺さっていた。
私の正面には、かつて終生の愛を誓い合った婚約者、カイル・ド・ヴァルデール王太子が立っている。 その隣には、私の妹であるリリアが、怯えた仔鹿のように彼の腕にしがみついていた。
「エルゼ・フォン・グラナート。貴様との婚約を、今この場を以て破棄する」
カイルの声は、かつての甘い響きを微塵も残さず、凍てついた刃のように冷酷だった。 私は、その言葉の意味を理解しようとして、静かに息を呑む。
いいえ。理解できないのは、婚約破棄という事実ではない。 私の目の前で起きている、この「光景」そのものが、耐え難い違和感に満ちていたのだ。
「殿下……それは、私がリリアを階段から突き落としたという、身に覚えのない罪を根拠になさるのですか?」
私の声は、我ながら驚くほど冷静だった。
昨日まで、リリアは傲慢で、欲しいものがあれば他人の心を踏みにじってでも手に入れるような少女だった。 勉強も嫌い、マナーも疎か。 それゆえに公爵家の恥として隔離されていたはずの彼女が、今、なぜか「清廉で儚げな悲劇のヒロイン」として、この場の全員から守られている。
「しらばっくれるな! リリアが嘘をつくとでも言うのか? 彼女のこの清らかな瞳を見て、なおも己の正当性を主張するとは……どこまで醜悪な女だ、お前は」
カイルがリリアを抱き寄せる。 その瞬間、私の耳の奥で、奇妙な音が響いた。
――ピコーン。
頭蓋を直接叩くような、安っぽい、それでいて無機質な電子音。 続いて、どこからともなく、軽快で明るい旋律が流れ始めた。
それは弦楽器の調べのようでありながら、どこか機械的で、この場の重苦しい空気とは一切調和していない、不気味な祝祭の音楽。
(……何? この音は……)
周りを見渡すが、楽団は楽器を置いて呆然とこちらを眺めている。 音楽を奏でている者など、どこにもいない。
だが、その音に合わせて、周囲の反応が「書き換わって」いく。 ついさっきまで私に同情的な視線を向けていたはずの文官たちが、音のリズムに合わせて頷くように、一斉に私を蔑みの目で見始めた。
「そうだ、エルゼ様はいつもリリア様を虐げていた」 「あんなに美しいリリア様を傷つけるなんて、悪魔の所業だ」
まるで、見えない指揮者に操られている人形のように、人々の言葉が画一的なものに変わっていく。 私は目を見開いた。 視界の端で、世界の「色」が剥離していくのが見えたからだ。
金色の刺繍を施したカイルの外套も、磨き上げられた大理石の床も、一瞬だけノイズのような走査線が走り、より「鮮やかで、嘘くさい色」へと塗り替えられる。
「リリア……怖がらなくていい。これからは僕が君を守る。この毒婦は、二度と君の前に現れないよう、北の離宮へ幽閉する」
カイルの瞳が、ふと虚空を見た。 その瞳の中に、私は見た。 青く発光する、文字のようなものの羅列を。
カイルの意志とは無関係に、彼の脳内に直接何かが書き込まれているような、不気味な空虚さを。
「殿下、お待ちください! カイル様、私を見て! あなたと私は、幼い頃から一緒に学問に励み、この国をより良くしようと語り合ってきたではありませんか! あの日、雨の中で誓った約束まで、忘れてしまったのですか!?」
私は必死に叫んだ。 それは、私が愛した「人間」としてのカイルを呼び戻すための、必死の抵抗だった。 しかし、私の叫びが彼の耳に届くことはなかった。
カイルは、まるで記憶のその部分を「消しゴム」で消されたかのような顔をした。 一瞬の空白。 そして、彼は鼻で笑った。
「雨の日の約束? フン、そんなものは覚えていないな。私が愛していたのは、いつだってリリア……この、真珠のように美しい彼女だけだ」
違う。 それは嘘だ。
リリアは、公爵家の奥深くに隠され、カイルと会ったことなど数回しかないはずだ。 その数回だって、彼女が私への嫌がらせに彼のお茶に泥を混ぜたり、庭の薔薇をめちゃくちゃに踏み荒らしたりした時だけだ。
なのに、今、カイルの記憶の中では、リリアこそが「共に歩んできた最愛の女性」として、完璧にすり替えられている。
リリアが、カイルの胸に顔を埋めながら、ちらりとこちらを見た。 その瞳は、先ほどまでの怯えた演技とは打って変わって、冷たく、嘲笑に満ちていた。
(……ああ、やっぱり)
彼女の唇が、音もなく動く。 それはこの世界の言語ではない、けれど私にはその意味がはっきりと理解できた。
『バグキャラは、退場してね』
その瞬間、私の足元に黒い影が広がった。 衛兵たちが私を取り押さえようと踏み込んでくる。
私は抗う術を持たず、ただ、塗り替えられていく世界を見つめるしかなかった。 人々の歓声。リリアを祝福する声。 背景に流れる、祝福のBGM。 それらすべてが、昨日までの真実を飲み込んで、肥大化していく。
私は引き立てられながら、最後にリリアの背後を見た。 そこには、空中に浮遊する、半透明の板のようなものが見えた。 そこには、リリアの顔写真と共に、見たこともない文字が並んでいた。
『カイル・ド・ヴァルデール 好感度:MAX』 『ルート確定:真実の愛エンディングへ』
世界が、バグっている。 あるいは、世界そのものが、誰かの「遊び場」に成り果ててしまったのか。
私は、自分が愛した世界が、見知らぬ怪物に食い荒らされていく音を聞いた。 北の離宮――そこは、一度入れば二度と出られないと言われる、生ける屍たちの墓場だ。
私は冷たい石床を蹴る衛兵たちの足音を聞きながら、奥歯を噛み締めた。
もし、この世界が「物語」として書き換えられ、私がその「悪役」として定められたのだとしても。 私は、この偽りの聖域を、決して許さない。
愛も、記憶も、歴史も。 すべてを「データ」として弄ぶ侵略者から、私は私の世界を取り戻す。
意識が遠のく中で、私は最後に見たリリアの、勝利を確信した薄笑いを、網膜に深く、深く刻み込んだ。
◇
北の離宮。 そう呼ばれる場所は、もはや宮殿の名を冠することさえ憚られるほどに荒廃していた。
吹き抜ける風は常に湿り気を帯びて冷たく、壁の石材は至るところが剥落し、這い回る蔦だけがこの建物の崩壊を辛うじて食い止めている。
幽閉されてから、どれほどの月日が流れただろうか。 窓枠にはめられた歪なガラス越しに眺める空は、いつしか不自然なほどに鮮やかな「青」に固定されていた。
流れる雲さえも、一定の周期で同じ形が繰り返されているように見える。 私は、部屋の隅にある唯一の贅沢品――かつて母が遺してくれた小さな手鏡を手に取り、そこに映る自分の姿を見つめた。
鉄色の髪は艶を失い、頬はこけている。 だが、その瞳だけは、凍てつくような碧い光を失ってはいなかった。
私は毎日、自分の腕に鋭い石の破片で小さな傷を刻んでいる。 痛みを感じるたび、私は私であることを確認する。 外の世界では、今この瞬間も「書き換え」が進んでいるのだ。
一度、食事を運んでくる老いた侍女が、私にこう言ったことがあった。
「お嬢様……いえ、エルゼ様。あなたは本当に、リリア様にあのような酷いことをなさったのですか? 私には、どうしても信じられないのです」
その時、私は彼女の手を握り、必死に訴えた。 彼女は幼い頃から私を支えてくれた、数少ない理解者だったからだ。
「違うの、マリア。私は何もしていない。あれはすべて――」
言いかけた瞬間、私の耳にあの不快な音が響いた。
――ザザッ、というノイズの音。
マリアの瞳から、瞬時に生気が消え失せた。 彼女の体が一瞬だけ、透明な青いグリッド線に覆われる。
次に彼女が口を開いたとき、その声には一切の感情がこもっていなかった。
「……エルゼ様。リリア様への謝罪の言葉は、もうお済みですか? あのような慈悲深いお方を傷つけた罪は、一生かかっても償いきれるものではありませんよ」
彼女の記憶が、私の目の前で上書きされたのだ。 かつての慈しみも、共有した思い出も、すべてが「リリアを全肯定する」ための部品へと作り変えられてしまった。
私は絶望に打ちひしがれながら、彼女が去っていく背中を見送るしかなかった。
この現象を、私は「インクの枯渇」と呼ぶことにした。 世界という一冊の本を無理やり書き換えるために、誰かが膨大な「インク」を消費している。
そのインクの正体は、おそらく人々の感情や、積み重ねられてきた歴史そのものだ。 離宮の窓から見える庭園の木々は、遠目には美しく見えるが、近くで見れば葉の一枚一枚がコピーされたかのように同じ形をしている。
鳥の声は聞こえても、その姿を見かけることは稀になった。 世界は美しく、そして空っぽになっていく。
ある日の午後、静寂を破って重厚な馬車の音が聞こえてきた。 離宮の錆びついた門が開く音。
現れたのは、カイルだった。 王太子としての気品はそのままに、しかしその纏う空気はどこか非人間的なまでの「完璧さ」を帯びている。
彼は私の部屋に入ってくると、不潔なものを見るような目で私を見下ろした。
「まだ生きていたのか、エルゼ」
「……殿下。わざわざ私を殺しにいらしたのですか?」
「殺す? まさか。リリアが君の身を案じているのだ。姉上を許してあげてください、と彼女は涙ながらに私に訴えた」
カイルの声には、かつての彼が持っていた迷いや葛藤、人間らしい温かみが一切消えていた。 今の彼は、ただリリアという太陽を輝かせるための、忠実な「騎士」という役割を演じているだけの装置にしか見えない。
彼は懐から一通の書状を取り出し、床に放り投げた。
「これはリリアからの贈り物だ。彼女は近々、私との婚約を正式に発表する。その儀式に、お前も出席しろと言っている。罪人が悔い改め、聖女である彼女を祝福する……それこそが、国民が望む美しい結末だからな」
私は床に落ちた書状を拾い上げた。 封蝋には、グラナート公爵家の紋章ではなく、見たこともない奇妙な花の紋章が刻印されている。
その書状に触れた瞬間、私は視た。
カイルの背後にそびえ立つ、巨大な「穴」のようなものを。 それはリリアを中心に広がる、世界の欠落。
彼女が笑顔を振りまくたび、彼女の周りにいる人々の内側から、光り輝く細い糸が吸い上げられていく。 その糸は、かつてその人が愛した記憶であり、培ってきた技術であり、守ろうとした誇りだ。
カイル自身も、その例外ではない。 彼が私に向けている憎悪でさえも、リリアによって「設定」された偽物の感情だ。
彼の本来の魂は、あの真っ暗な穴の奥で、声もなく泣き叫んでいるのではないか。
「……お断りします」
私は静かに、けれど断固として告げた。
「私は、偽りの舞台で踊る人形にはなりません。カイル様、あなたは今、ご自分が何を話しているのか、本当にお分かりなのですか?」
「何だと?」
「あなたは私を愛していた。私たちが十歳の夏、森で迷ったあの日。震える私の手を握り、『一生、僕が君の道標になる』と言ってくれた。あの時、あなたの手はとても温かかった。今の、その冷たい手とは違って」
カイルの眉が、ピクリと動いた。 彼の瞳の奥で、青い光が激しく明滅する。 システムが、私の言葉を「エラー」として処理しようとしているのだ。
「……森? 何を言っている。私と森で迷ったのは、リリアだ。あの日、彼女は転んで膝を擦りむき、私はそれを――」
「リリアはその時、王都の別邸で熱を出して寝込んでいました。記録を調べればわかるはずです。……いえ、もうその記録さえも書き換えられてしまったのでしょうね」
カイルは頭を押さえ、苦悶の表情を浮かべた。
「黙れ……黙れ! 私の記憶に間違いはない。リリアこそが私の運命だ。お前のような悪女の言葉など、耳を貸す価値もない!」
彼は逃げるように部屋を飛び出していった。 私はその背中を見つめながら、確信した。
世界はまだ、完全には屈していない。 私の記憶、私が抱き続けている「真実」こそが、この狂ったシステムに対する最大の毒となるのだ。
カイルが去った後、私は彼が落としていったもう一つのものに気づいた。 それは、彼がリリアから預かってきたという、小さな水晶の小瓶だった。
中には、怪しく発光する紫色の液体が入っている。 小瓶に触れると、頭の中にリリアの声が直接響いてきた。
『ねえ、お姉様。まだ頑張るの? もういいじゃない。この薬を飲めば、お姉様も「幸せな脇役」になれるわよ。嫌な思い出も、憎しみも全部忘れて、私の結婚を心からお祝いできる、素敵なモブになれるの。これ以上、世界をバグらせないで。お姉様が抗うたびに、インクが足りなくなっちゃうんだから』
リリア――いいえ、彼女を依代にしている「何か」は、私を消し去るのではなく、自分にとって都合の良い「素材」に作り替えようとしている。
彼女はこの世界を、自分の欲望を叶えるための使い捨てのキャンバスだとしか思っていない。 インクが枯渇すれば、この世界は消えるだろう。 人々は心を失い、最後には色彩のない、動かない彫像となって終わる。
私は小瓶を床に叩きつけた。 パリン、という硬質な音とともに、紫色の液体が石床に広がる。
液体はまるで意志を持っているかのように蠢き、床を侵食していったが、私の足元に触れた瞬間に蒸発して消えた。
私は知っている。 この世界の地下深く、かつて禁忌とされて封印された「原初の魔力」の存在を。
それは、書き換えられる前の、この世界の本当の鼓動。 生命力を削り、自らの存在を対価として捧げることで発動する、泥臭くも強靭な魔法。
カイルが言った婚約の儀式。 それこそが、この世界の「結末」を確定させるための最終プロセスなのだろう。
リリアが完璧なハッピーエンドを手に入れた瞬間、世界は彼女のものとして固定され、同時に寿命を使い果たす。
ならば、私は。 彼女が望む「悪役」として、その舞台のど真ん中に立ってやろう。
聖女の仮面を剥ぎ取り、美しい物語を完膚なきまでに破壊する。 それが、この世界を愛し、この世界で生きてきた私にできる、唯一の報復だ。
私は離宮の地下へと続く、今は誰も使っていない隠し階段の扉へと手をかけた。 埃にまみれたその場所には、かつてのグラナート家が守護してきた、魔導の深淵が眠っている。
待っていて、リリア。 あなたの「幸せ」のために、どれだけのものが踏みにじられてきたか。 その重さを、すべてあなたに返してあげる。
私は、私を忘れたカイルの前に、最も醜悪で、最も気高い「悪役」として再び現れることを誓った。
暗い地下室に、私の足音が響く。 それは、世界を救う英雄の足音ではない。 物語を終わらせるための、復讐者の足音だった。
◇
地下への階段は、光を拒絶するように深く、そして長く続いていた。 壁に埋め込まれた魔導灯は、主の訪れを数十年ぶりに感知して、弱々しく、頼りなげな燐光を放ち始める。
埃の匂いと、微かな焦げ茶色の沈黙。 一段降りるごとに、上階の喧騒が遠のき、代わりに重苦しい「世界の重圧」が私の肩にのしかかってきた。
たどり着いた最下層の広間には、かつてのグラナート家が代々守秘してきた「真理の書庫」があった。 そこは書庫とは名ばかりの、巨大な「揺り籠」のような空間だった。
中央には、水晶で編まれた巨大な織機のような装置が鎮座し、そこから無数の銀色の糸が天井を突き抜けて地上へと伸びている。 その糸の一本一本に、この世界に生きる人々の記憶、感情、そして運命が刻まれているのだ。
私は震える手で、その装置の基部に刻まれた古い銘文に触れた。 その瞬間、私の意識は肉体を離れ、濁流のような「情報の奔流」の中に投げ出された。
視えたのは、この世界の「裏側」だった。 美しい庭園も、豪華な王城も、そこではただの数字と文字の羅列に過ぎなかった。
そして、その情報の海を、巨大な怪物が食い荒らしている。 怪物の形は、定まっていない。 ある時はリリアの姿を借り、ある時は光り輝く羽ペンの姿をしていた。
怪物は、人々の糸を無理やり引き抜き、都合の良い形に編み直していく。 カイルの糸は、私という存在に繋がっていた部分を無慈悲に切り落とされ、リリアという名の漆黒の糸に強引に結び付けられていた。 切り落とされた断片は、虚無へと捨てられ、消えていく。
(……これが、リリアの正体?)
いいえ、違う。 リリアという少女もまた、この怪物に捕らわれた犠牲者の一つに過ぎなかった。
彼女は、異界から招かれた魂。 彼女はこの世界を「乙女ゲーム」という娯楽として認識している。 彼女にとって、カイルは攻略対象であり、私は倒すべき悪役、周囲の人々は自分を際立たせるための装置に過ぎない。
彼女が「ハッピーエンド」を望むたび、怪物はその望みを叶えるためのエネルギーとして、世界の過去を、歴史を、そして人々の魂の輝きを消費しているのだ。
怪物の正体は、世界の記憶を糧に肥大化する「物語の寄生体」。 完璧な物語を完結させ、その絶頂の瞬間に世界ごとすべてを飲み干そうとしている。
婚約の儀式が「エンディング」になれば、この世界に生きるすべての人間は、物語の役目を終えたゴミとして、一滴の感情も残さず消し去られるだろう。
「そんなことは、させない……」
私は情報の海から必死に這い出し、現実に引き戻された。 激しい吐き気が私を襲い、私は石床に膝をつく。
視界が明滅し、指先が砂のように崩れていく感覚があった。 世界が私を「不要なバグ」として消去しようとする圧力が、日に日に強まっている。
ふと、装置の影に、一冊の古びた手帳が落ちているのが見えた。 それは、私の父――先代公爵が残したものだった。
父は、リリアが「転生者」として覚醒した直後に、原因不明の病で亡くなった。 今ならわかる。父はこの異変に気づき、抗おうとして、システムに排除されたのだ。
手帳には、掠れた文字でこう記されていた。
『物語を壊すには、物語を完結させてはならない。 予定された調和を乱し、書き換え不可能な「矛盾」を突きつけるのだ。 システムは整合性を保とうとして、すべてのリソースを計算に費やす。 その瞬間、物語はオーバーヒートを起こし、強制終了へと向かう。 それこそが、この世界を救う唯一の禁忌、魔法「終焉の刻印」である』
私はその記述を読み進め、戦慄した。 その魔法を発動させるには、術者の「すべて」を代償にしなければならない。
単なる命ではない。 自分が愛したもの、自分を形作ってきた記憶、そして「自分が誰であったか」という存在の証明そのものを。
私は目を閉じ、カイルの顔を思い浮かべた。 私を蔑み、拒絶する、今の彼の顔ではない。
共に馬を駆り、夕日を眺めながら、「いつかこの国を、誰もが笑って暮らせる場所にしよう」と語り合った、あの真っ直ぐな瞳。 私の名前を、世界で一番愛おしいもののように呼んでくれた、あの声。
もし私が魔法を発動すれば、彼は私を思い出すだろう。 けれど、その瞬間に私は消える。
彼が取り戻した愛は、取り戻した瞬間に、永遠の喪失へと変わる。 それは、彼にとってどれほどの残酷な救済だろうか。
「……それでも。偽物の人形として生きるよりは、マシなはずよ」
私は手帳を抱きしめ、立ち上がった。 もはや迷いはなかった。 私は装置の最深部にある、どろりとした黒い液体――「原初のインク」に手を浸した。
それは、世界の理から外れた、混沌の魔力。 灼熱のような痛みが腕を駆け抜け、私の髪が、瞳が、禍々しい紫色の光を帯びていく。
その時、頭上の天井が大きく揺れた。 地上の広間で、リリアとカイルの婚約の儀式が始まったのだ。 喜びの鐘の音が、地下にまで響いてくる。
それと同時に、装置から伸びる銀色の糸が、急速に細く、脆くなっていくのが見えた。 インクが、足りない。 システムは最後の仕上げのために、世界中の人間から「心」を強奪し始めたのだ。
離宮の侍女マリアも、城下町でパンを焼くおじさんも、小さな子供たちも。 今、彼らの内側から、人間としての尊厳が吸い出されている。 彼らがただの背景、ただのモブとして塗りつぶされていく。
「やめなさい……リリア!」
私は地下室を飛び出し、階段を駆け上がった。 体中が悲鳴を上げ、視界は血の色に染まっていく。
けれど、私の足は止まらなかった。 もはや私は、公爵令嬢エルゼではない。 この歪な物語を終わらせるために現れた、破滅の魔女だ。
離宮の扉を蹴破り、私は外へと飛び出した。 外の世界は、もはや悪夢のような光景に変わっていた。
空には巨大な「文字」が浮かび、人々の頭上には不気味な好感度の数字が浮かんでいる。 カイルと共に馬車に乗り、民衆の歓声に応えるリリア。
リリアが手を振るたび、民衆は意思を失った機械のように、一斉に同じ動きで拍手を送る。 その拍手の音は、もはや人間の出す音ではなく、乾いた木片がぶつかり合うような不気味な響きだった。
馬車が私の前を通りかかろうとした時、カイルが私に気づいた。 彼の瞳に、再び青いノイズが走る。
「エルゼ……? なぜここに。貴様は幽閉されていたはずだ」
リリアもまた、私を振り返った。 彼女の表情から、余裕の笑みが消える。 彼女には見えているのだ。私の全身から溢れ出す、システムを拒絶する黒い魔力が。
『お姉様……? どうして。どうして大人しく消えてくれないの!? 私のハッピーエンドまで、あと少しなのに! これじゃ、シナリオがめちゃくちゃになっちゃうじゃない!』
彼女の叫びは、周囲の人間には聞こえていない。 けれど、彼女の声に呼応するように、空の色が赤黒く変色し、地面に亀裂が走り始めた。
整合性が、崩れ始めている。 物語の主役である彼女が取り乱すことで、システムの基盤が揺らいでいるのだ。
「リリア。あなたの遊びは、ここで終わりよ」
私は自らの心臓に手を当て、原初の魔力を一気に解放した。 私の体から放たれた黒い衝撃波が、色鮮やかだった周囲の景色を「元の色」に削り取っていく。 カイルの瞳から、青い光が剥がれ落ちる。
「……エル……ゼ?」
カイルの声に、一瞬だけ、かつての温かみが宿った。 彼は馬車から身を乗り出し、私に手を伸ばそうとする。 だが、その手をリリアが掴んだ。
『ダメよ、カイル! それはバグよ! 怪物よ! 見ちゃダメ!』
リリアの背後から、無数の黒い触手のようなものが伸び、彼女を包み込んでいく。 システムが、崩壊を食い止めるために、依代であるリリアを完全に取り込もうとしていた。 彼女の顔が歪み、人間ではない何かの貌へと変わっていく。
世界が、悲鳴を上げている。 偽りの平和が崩れ、剥き出しの絶望が溢れ出す。
私はその混沌の中心へと、一歩、踏み出した。 これが私の選んだ「悪」だ。 救いなどなくてもいい。
たとえこの先に待つのが、ただの泥臭く、残酷な現実だったとしても。 私は、私たちが確かに生きていた、この世界を守る。
「さあ、エンディングを書き換えましょう」
私は、自分自身の存在が消えていく確かな予感を感じながら、最高に醜く、最高に気高い微笑を浮かべた。 物語は、ここから最悪の、そして最高の結末へと向けて加速していく。
世界が裂ける音がした。 それは雷鳴よりも高く、悲鳴よりも鋭い、現実という布地が断ち切られる音だった。
私の指先から溢れ出す黒いインク――原初の魔力が、リリアを包み込む「完璧な物語」の残滓を次々と侵食していく。
「やめて! 来ないで、このバグ! 化け物!」
リリアが叫ぶ。 その背後で、天を突くほどの巨躯を見せる「システム」の影が、無数の触手を蠢かせて私を叩き潰そうと振り下ろされた。
だが、その一撃が私に届くことはない。 今の私は、この世界そのものが排出しようとする「猛毒」だ。 システムが私に触れれば、その整合性はさらに崩れ、計算エラーが加速する。
ドサリ、と音がして、馬車からカイルが転がり落ちた。 彼は頭を押さえ、のたうち回っている。 彼の脳内で、リリアが植え付けた「偽りの記憶」と、私が呼び覚ました「真実の記憶」が激しく衝突しているのだ。
「カイル様!」
私が叫ぶと、カイルは血走った瞳で私を見上げた。 その瞳には、先ほどまでの虚ろな人形の輝きはない。
苦痛に歪み、けれどもしっかりと「人間」としての光を宿した、私の知るカイルの瞳だった。
「エル……ゼ……。私は、何を……。君を、あんな場所に……」
「思い出さないで、今はまだ! 私を見ていて、それだけでいい!」
私は彼を制し、リリアへと向き直った。 彼女はもはや、聖女の面影など微塵もなかった。
彼女の体からは、無数の青い文字が零れ落ち、足元の地面をデジタルな空洞へと変えていく。 彼女は現代という異界から来た、ただの寂しい魂だった。
自分の思い通りにならない現実を捨て、この世界を「ゲーム」という名の玩具にして、自分だけの幸福を貪ろうとした哀れな侵略者。
『どうして……私は、ただ、幸せになりたかっただけなのに! ヒロインになって、王子様に愛されて、みんなに祝福される……そんなの、誰だって願うことじゃない!』
システムの中枢から、リリアの――いいえ、彼女を依代にした怪物の声が響く。
「その『幸せ』のために、どれだけの命を書き換えた? どれだけの涙を、インクに変えて飲み干したの?」
私は一歩、また一歩と、崩落していく世界の中を進む。 私の体もまた、限界を迎えていた。
原初の魔力を引き出す対価として、私の記憶が、私という存在の輪郭が、少しずつ虚無へと溶け出していく。 初めてカイルに会った日のこと。 父と母に抱きしめられた温もり。 公爵令嬢として学んだ誇り。
それらが、バラバラに砕けて霧散していく。
「リリア。あなたも一緒に連れて行くわ。この偽りの楽園ごと、すべてを終わらせましょう」
私はリリアの胸元に手を伸ばした。 そこには、世界のすべての情報を制御する、青く輝く「核」があった。 私はそれを、黒く染まった自分の手で、力任せに掴み取る。
『ギャアアアアアア!』
耳を劈くような不協和音が世界を満たした。 視界が真っ白に染まる。
重力も、上下も、昨日も明日も、すべてが消失した純白の空間。 そこには私と、本来の姿に戻った小さな少女――リリアだけが浮遊していた。
「……ねえ、お姉様」
リリアが、掠れた声で私を呼んだ。 その瞳に宿っていた狂気は消え、ただの怯えた子供の目になっていた。
「この先には、何があるの? 物語が終わったら、私たちはどこへ行くの?」
「どこにも行かないわ。私たちは、ただの『現実』に戻るだけ。魔法も、奇跡も、運命の赤い糸もない……自分たちの足で歩かなければならない、不自由で残酷な場所に」
「……そんなの、怖いわ」
「ええ。私も怖い。けれど、それが私たちが生きるべき場所なのよ」
私はリリアの手を握った。 彼女の体もまた、光の粒子となって消えかけている。 システムの一部として組み込まれすぎた彼女は、もはや元の世界へ戻ることも、この世界に留まることもできないのだろう。
「ごめんなさい、お姉様……。私、本当にこの世界が、大好きだったのよ……」
そう言い残して、リリアは完全に消滅した。 後を追うように、私の意識も深い闇へと沈んでいく。
最後に聞こえたのは、あの不快なBGMではなく、しとしとと降り始めた、本物の雨の音だった。
◇
目が覚めると、私は冷たい石畳の上に倒れていた。 頬を打つ雨がひどく冷たい。 体中が鉛のように重く、指一本動かすのにも激痛が走る。
ゆっくりと上体を起こし、周囲を見渡した。 そこは王城の前にある広場だった。
先ほどまでの豪華な装飾や、奇妙に鮮やかだった色彩はどこにもない。 建物の壁は古びて汚れ、地面には水溜りができ、人々の服は泥にまみれている。
人々は、まるで長い夢から覚めたかのように、呆然と立ち尽くしていた。 空に浮かんでいた文字も、頭上の数字も、すべてが消え去っている。
「……終わったのね」
私の声は、ひどく掠れていた。 ふと、自分の髪に触れる。
鉄色をしていたはずの髪は、今は混じり気のない真っ黒な色に変わっていた。 魔力を使い果たし、公爵令嬢としての「血の証」さえも失ってしまったのかもしれない。
今の私を、エルゼ・フォン・グラナートだと認識できる者は、この世界のどこにもいないだろう。 戸籍も、身分も、家柄も、すべてはシステムの崩壊とともに灰に帰した。
「おい、大丈夫か?」
低い、聞き覚えのある声がした。 振り返ると、そこにはカイルがいた。
王太子としての豪華な衣装はボロボロに裂け、額からは血を流している。 彼は私を見て、怪訝そうな顔をした。
その瞳に、私を愛していた記憶が残っているかどうかはわからない。 システムの強制終了は、彼から「書き換えられた記憶」だけでなく、「書き換えられる前の記憶」さえも一部奪ってしまった可能性がある。
「……お怪我をされているようです。殿下」
私は他人行儀に、そう告げた。 カイルは私の顔をじっと見つめ、何かを思い出そうとするように眉をひそめた。
「君は……誰だ? どこかで、会ったことがあるような気がするんだが……」
胸の奥が、ちくりと痛んだ。 けれど、私は微笑んだ。 それは偽りではない、今の私が持てる最高の微笑み。
「いいえ。私はただの、名もなきバグ……いえ、ただの通りすがりの者です」
私は立ち上がり、ふらつく足取りで彼から離れようとした。 だが、私の手が何かに掴まれる。 カイルが、私の手首を掴んでいた。
「待ってくれ。名前を……名前を教えてくれないか。理由はわからないが、君を行かせてはいけないと、心が叫んでいるんだ。私は、大切な何かを、君の面影とともに失ってしまったような気がしてならないんだ」
カイルの瞳に、涙が溜まっていく。 それはシステムが設定した脚本ではない。 彼自身の魂が、失われた愛の欠片を必死に手繰り寄せようとしている証。
雨は次第に激しさを増していく。 世界は元の姿に戻った。 それは魔法も、ご都合主義な救済もない、ただの泥臭い現実だ。
けれど、ここには本当の時間が流れている。 自分たちの意志で選び、傷つき、それでも誰かを想うことができる、愛おしい世界。
私はカイルの手を、優しく握り返した。 今の私は、かつてのエルゼではない。 けれど、ここから新しく、彼と出会い直すことはできる。
何度書き換えられても、何度消去されても、私たちが刻んできた魂の震えまでは、誰にも消せはしない。
「……いつか、お話しします。雨が上がって、この空が本当の輝きを取り戻した時に」
私は初めて出会った少女のように、彼に向けて微笑みかけた。 世界を書き換えるインクはもうないけれど。 私たちの未来を書き込むための余白は、無限に広がっているのだから。
こうして、一人の悪役が望んだ「最悪のハッピーエンド」は、静かな雨音の中で幕を閉じた。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。 完璧な物語よりも、泥臭い現実の中にある一瞬の輝きこそが美しいと信じて執筆いたしました。 エルゼとカイルのその後は、きっと読者の皆様の想像の中に、新しく書き込まれていくことでしょう。 また別の物語でお会いできることを願っております。




