第9話
「何かありましたか」
林檎は空を見上げたまま、白を増やした。
「いえ……朱宮さまのお姿が見えなかったため、探しておりました」
今日は夕方頃からずっと林檎の姿を見ていなかった。地下牢で捕虜の拷問と解体の予定があることは把握していたが、それ以後彼女は姿を消していた。彼女の身に何かあった可能性もあり、桜は居てもたってもいられずに林檎を探し始めた。地下牢、執務室、書斎、作業スペース、個人寮、休憩スペース、カフェテリア……探し尽くした後、最後に思い当たったのが屋上だった。
「ここは冷えます。お体に障るかと」
桜は真面目な声に憂いを乗せて、眉尻を下げた。視線の先の横顔は、空を見上げたままだった。艶やかな唇が、小さく開く。
「月を……見ておりました」
「月、ですか?」
桜も釣られて空を見上げた。漆黒の中に、まん丸の月が浮かんでいた。
(……意外だ。朱宮さまは、組織のこと以外に時間を割かない人だと思っていた)
見上げていた銀色の光から、視線を下げる。そっと横を窺えば、林檎は月に視線を奪われたままだった。月明かりに照らされた、小さな顔。大きな瞳、絹のような肌、柔らかな頬、艶やかな唇。この距離だと、長く弧を描く睫毛すらよく見えた。愛らしい、まるで人形のような横顔。その可愛さと美しさを、月光が淡く引き立てている。
「はい。とても、綺麗でしたので」
「……」
(……月よりも……)
朱宮さまの方が——。
桜は内心を口にする代わりに、目を細めた。まるで目の前の光景を焼き付けるかのように、じっと隣の長の顔を見つめる。尊敬して止まない、憧れの、我が組織のリーダー。こうしてみると彼女の顔には幼さも残っており、彼女が自身よりも年下であるという事実を思い出させた。
「雲を出でて われに伴う 冬の月……」
林檎は鈴のような声で、闇夜に呟きを落とした。その先を、桜が続ける。
「風や身にしむ 雪やつめたき……。……『玉葉和歌集』ですね」
「ええ」
林檎は月を見上げていた瞳を一度伏せると、桜へと視線を向けた。その顔には、柔らかな微笑みが浮かんでいた。彼女は自身が羽織っていた厚手のマントに手をかけると、優雅な所作で外し出した。そしてそれを、桜の身体へと掛けた。いつも林檎が付けている花の香りが、ふわりと桜の鼻を擽った。マントについた首回りを囲うファーの毛先が、桜の頬を優しく撫でていく。同時に、桜の身体はじんわりとした温かさに包まれた。
「……朱宮さま」
薄着となった林檎を見て、桜は慌てたように名を呼んだ。
「あなたはまだ月を見ていたいかと思って。わたしはもう、戻りますから」
外套からそっと小さな手が離れていった。桜に微笑んだあと、林檎は背を向けた。一人、建物の中へと帰っていく。桜は白い息を吐き出しながら、小さな背中が遠くなるのを見送った。塔屋の扉が閉まり、夜空の広がる屋上には桜だけが残された。桜は再び柵の方へと振り返り、空を見上げた。澄み切った夜空に浮かぶ、冴え渡る銀の丸。林檎と見た時の方が美しく思えて、桜はすぐに興味を失って視線を下げた。身体を包むマントの襟を、両手で手繰り寄せる。花の香りと、心地よい温もりが広がった。
(朱宮さま……和歌がお好きなのだろうか)
桜は林檎のことをあまりよく知らない。彼女は自分のことを話そうとしないし、意図的に自身の情報を落とさないようにしている節がある。きっと彼女は、誰の事も信用していないのだろうと思う。裏切られた時のリスクを考えて、些細な情報すら他人に悟られないようにしているのだ。
しかし、先程向けられた優し気な微笑みは、なんだか嬉しさが滲んでいるように感じられた。林檎は常にその表情を完璧にコントロールしているが、毎日傍で見ていればわかることもある。自分の好きな書物の話に相手もついてきてくれたことが、きっと嬉しかったのではないだろうか。ならば今後は戦術指南の本に加えて和歌集も読むようにしようと、桜は密かに決意して意気込んだ。
(随分古い歌だったな。……朱宮さまは博識でいらっしゃるけど、やはりその知識は本から得たものなのだろうか。読書がお好きだったりするのかな……)
彼女は常に〈『レッド』の長〉として振舞っている。組織を導き、威厳を放ち、策を張り巡らせ、全く隙を見せない。もしその肩書きがなかったとしたら、彼女は一体どのような少女なのだろう。本当は、読書が大好きな、物静かな女の子だったりするのだろうか。
「……」
桜も、もともとはただの読書好きだった。読んだだけ知識が身につく行為は非常に合理的だと思ったし、知識によって見える世界が違ってくる感覚も好きだった。桜は本を読むにつれて、暴力が全てを決める今の世界に疑問を抱くようになっていった。抗争現場に遭遇する度、殺す人間も殺される人間も愚かだと思うようになった。この世界の在り方はおかしい。様々な本に出会う度、その思いは強くなった。しかしただの学生の桜にそれを変える力はなく、また変えようとも思わなかった。非生産的な殺戮を横目で見ながら、自分は適当に賢く生きていこうと思った。本から得た知識で暴力を凌ぎつつ、こそこそと長生きをして本を読めればそれで良い。それぐらいが身の丈に合った生き方だろうと考えていた。そんな折、たまたま林檎に出会った。運命の出会いとは、まさにこのことを言うのだと思う。
その日、桜は古びた店へ本を探しに来ていた。しかし運悪く、店の入っているテナントビルにとある組織が立て籠もり始めてしまった。すぐに敵対していると思われる組織が建物を囲み始め、ライフルや爆弾を準備しているのが窓越しに見えた。桜は店に身を隠しながら、外から聞こえて来る発砲音と怒声、そして階段から聞こえてくる慌ただしい会話を途切れ途切れにきいていた。立て籠もった組織の者達は後がないようで、外に爆弾を撒くとか、無差別に発砲するとか、いっそ抗争相手を巻き込んで自爆するとか、半分破れかぶれになっている様子だった。家族を皆殺しにしたのがいけなかったとか、向こうの幹部を縛り付けて道路に転がしておいたのがいけなかったとか、この状況に追い込まれた素行の悪さがよくわかる言い合いも聞こえて来ていた。桜はレジカウンターの奥に隠れ、息を殺して潜んでいた。しかしこのままというわけにもいかなかった。見つかれば確実に殺される、外に出れば囲んでいる組織に殺される、このまま動かないでいれば建物ごと爆破される危険性がある。どう転んでも生き残るのが難しい状況だった。




