第24話
「あ、そうだ」
たまかはふと思い出したように顔をあげると、デスクの奥から何かを持ち上げた。たまかの手中にあるのは、見慣れた薄い四角い箱だった。
「アカリさんにチョコレートを頂いたんでした。サクラさんもいかがでしょうか」
無垢な笑みを桜に向け、たまかは箱をデスクへ置くと蓋を外した。中に一粒だけ残っているチョコレートを見下ろし、彼女はきょとんとした顔をした。
「あ……一粒だけとは伺っていましたが、こうも半分にするのが難しそうなタイプとは……」
むむ、と眉間に皺を寄せるたまかを、桜は箱を見下ろしていた顔をあげてこっそり覗き見た。そして、首を横へと振ってみせる。
「……わたくしは既に頂いておりますし、それはたまかさんの分ですから。遠慮なさらず、どうぞ」
「あ、そうだったのですか? では、お言葉に甘えまして……」
たまかは桜へ笑みを向けたあと、最後の一粒を摘まみ上げた。切り揃えられた爪の先から、艶やかな塊が躊躇いなくたまかの口の中へと落とされる。それを、桜は呆けたように目で追った。
「わあ、とても美味しいですね。今まで食べたチョコレートの中で、一番美味です……!」
たまかは目を輝かせ、感激したように声を弾ませた。落ちる頬を嬉しそうに抑える様は、まるでリスのようだった。幸せを体現したかのような表情。これだけ喜んでもらえたら、チョコレートの贈り主も本望だろう。
「……」
桜はそれを、ただただ固まって見つめることしか出来なかった。
「……、あの」
「? はい」
上擦った声に、チョコレートの余韻に浸っていたたまかは桜へと顔を向けた。桜は何かを止めるように宙へと手を伸ばし、しかしもう何も残っていないことに気が付いて、すぐに力無く腕を下ろした。
「……貴女は長なのですから……もう少し、口にする物は警戒した方がよろしいかと。暗殺を企む輩も多いでしょうし、謀反の可能性だってあります……」
動揺の見える、たどたどしい声。自分でもなぜこれ程取り乱しているのかわからなかったが、桜にとってその光景は酷く衝撃的だった。狼狽える桜に、たまかはパチパチと目を瞬かせた。
「……ですが、これを下さったのはアカリさんですよ? 私に差し入れることを提案したのはアカネさんらしいですし。お二人に私を殺すメリットはありません」
「で……ですが、油断させるためにそういうフリをしているだけの可能性もあります。それに二人の見ていない間に、他の誰かが中身をすり替えた可能性だって……」
口を衝いて出る言葉は、どれも桜の言葉ではないはずだった。妙に焦っている桜に、たまかは不思議そうな顔をした。それから、当たり前だというような声色で告げる。
「……でもその可能性が高い時はきっと、口にする前にサクラさんが気付いて止めていますよね?」
「……」
「だから、大丈夫です」
桜は口を半開きにしたまま、目の前の笑みを見つめていた。
——『レッド』は、変わったのだ。
桜は今更ながらに、それを身に染みて理解した気がした。この書斎の主が変わって、漂う香りが可憐な花のものから清涼な消毒剤のものに変化したように。口にするものを常に警戒し、組織員を誰一人信用していなかった長から、人の好意を素直に受け取り、組織員を駒ではなく仲間として見る、目の前の長へ。
「……サクラさん?」
呆けたままの桜へ、たまかは訝しむように声を掛けた。名前を呼ばれ、桜ははっとして現実へ意識を引き戻す。
「いえ……」
ぎこちなく首を振ったあと、桜は視界に入った空の箱へと誤魔化すように視線を落とした。並んでいた艶やかな塊の姿は、跡形もなく消えている。その光景はなんだか哀愁を感じさせたが、同時に沢山の人に味わえて貰えたことを喜んでいるようにも見えた。諸行無常、いつまでも箱に収まっているチョコレートなんてない。だからなくなってしまったチョコレートに涙するより、美味しかった思い出を喜び、笑顔で新たな味を追い求めるべきだ。味わったその美味しさは、永遠に心に残っているのだから。桜は、ぐっと拳を握った。
「……たまかさん。よろしいですか」
語気を強めた声に、たまかは小さく首を傾げた。顔をあげた桜は、その表情を引き締めていた。口を開き、大きく息を吸う。
「長なのですから、常に誰かに命を狙われている自覚をしっかりともってください。口にするものには細心の注意を払い、普段は毒見の人間を用意するべきです。また、組織の転換期なのですから心変わりする者も多く出ることを必ず念頭に置いておいてください。例え気心の知れた組織の者だとしても、まずは疑うところから入ってください」
矢継ぎ早に繰り出される説教に、たまかは気圧されたように一歩下がった。
「基本的に出されたものを口にはいれないこと。また、人前での食事は極力避けてください。毒の混入の機会を減らし、習慣的に口にするものについての情報を周りに落とさないためです。よろしいですね?」
たまかが下がった分桜が一歩身を乗り出し、「基本中の基本です!」とその顔に指を突き付けた。柔らかそうな人差し指の先端へ視線を奪われながら、たまかは乾いた笑みを浮かべた。
「わ……わかりました。そんな大袈裟にしなくてもいいと思いますけど……」
「……」
「も、もう少し注意するようにしますね。気を付けます、気を付けます」
桜に無言で睨まれ、たまかは慌てたように言葉を付け足した。観念したように掲げられた両手が、桜とたまかの間で壁を作る。桜は重い瞼の奥からたまかを見定めるようにじっとりと見つめた後、漸く乗り出していた身体を戻した。
「本日からたまかさんの口にするものは、必ずわたくしが確認をすることにいたします。贈り物や差し入れの類も逐一調べますので、提出してくださいね」
桜はスカートの皺をさっと整え、両手をお淑やかに前で重ねた。澄ました顔で続ける。
「貴女は、わたくし達の長なのですから。頂点に立っている自覚を、きちんとお持ちくださいませ」
桜は伏せていた瞼を開き、力強い瞳をたまかへと向けた。その真面目な表情を見て、たまかはたじろいでいた身体から力を抜いた。
「……いつものサクラさんですね」
苦笑と共に放たれた言葉に、桜は小さく鼻を鳴らした。
「どういう意味でしょうか」
「……頼りになる右腕、って意味です」
ふふ、と穏やかに笑うたまかに、桜は虚を衝かれたように目を丸くした。てっきり揶揄されたのかと思ったが、その顔を見るにそうではないらしい。たまかが警戒心が薄いのは、案外、自分を頼りにしているからなのかもしれないと、桜は今更ながらに思い至った。毒気を抜かれ、桜は小さく咳払いをした。
「……では、そろそろ会談の準備を始めましょう」
「はい。絶対成功させましょう」
たまかは意気込んで胸の前で両手を握った。桜も表情を僅かに緩め、黒髪を揺らして頷いた。
二人は会談の準備をするため、消毒剤の香りが残る部屋を後にした。廊下を歩くたまかの斜め後ろを、桜は背筋を伸ばしてついていく。艶やかな黒髪のおかっぱの先を揺らし、重い瞼の奥からじっと長の背中を見守り、真面目な表情を貼り付けて。桜は今日も、『レッド』の一員として任務を遂行する。長の右腕としてリーダーを補佐し、指揮官として策を練って戦場を指揮し、目指すべき未来へ向けて『レッド』を動かしていく。情報を重んじ、知性を駆使し、合理性と効率のみに則り、情を捨てた論理的判断で結論を下し。血も涙もない『レッド』に相応しい、冷酷で非情な人間として……そう、きっと。
〈了〉




