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黄昏の追憶  作者: 小屋隅 南斎


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第22話

(……でも、本当は)

 彼女が頼れるような、次期リーダーとしての凛とした姿を見せるべきだとわかっていた。自分の発言に相応しい姿で、最後まで彼女の前に気丈に立っていようと思っていた。……それなのに。桜は胸を支配する切なさに、瞳を揺らした。映る愛らしい微笑みが歪む。

(別れたくない)

 ずっと『レッド』の長でいて欲しかった。全て思い通りに動かす彼女の手腕を見ていたかった。いつも想像を超える彼女に驚かされ続けたかった。彼女の隠された慈しみに触れていたかった。威厳を放つ厳かな表情も、冷淡な声も、愛らしい表情も、舌足らずな声も。ずっと傍で、見ていたかったのに。

(ずっと隣にいたい)

 立派な次期リーダーだと証明したいのに。今しがた、任せて欲しいと言ったばかりなのに。託すと、そう言って貰えたのに。しっかりした姿を見せなければと思う程、意思に反して桜の瞳には涙が溜まっていった。林檎の姿がぼやけて、段々と霞んでいく。

 桜は堪え切れず、想いに突き動かされるがまま足を踏み出した。紅色の薄いスカートが膨らみ、ふわりと舞う。目の前の少女へと両手を伸ばし、勢い良く抱き着いた。鼻に舞い込む花の香りが、強くなる。決して離れ離れにならないよう、力の限りぎゅっと抱き締めた。華奢で細く、薄い身体。折れそうで、少し怖かった。

(貴女の傍に、ずっといたいのに)

 震える身体で、小さな体躯を大切に包み込む。伝わるぬくもりが心地よくて、それが消えるのが怖くて、桜はさらに力を込めた。大粒の涙が林檎の白いうなじへと落ちて、制服の中へと流れていった。

(ずっと、一緒にいたいのに……)

 ぽろぽろと涙が零れていく。耳にそっと届く、後ろの小さな息遣い。彼女が生きているその証を、いつまでも聞いていたかった。その想いは、嗚咽に変わって口から漏れていく。桜は堪えようとして、唇を震わせながら必死に結んだ。その横を次々と零れ落ちる涙が、林檎の絹のような肌を濡らしていく。

「……あなたが涙もろいことも、知っているわ」

 囁くような小さな声。慈しみ、全てを赦すような声色だった。

「あなたらしく生きてね、桜」

 隣に立つ人がいなくなっても。忠誠を誓った相手が遠くに行ってしまっても。桜は一人で生きて、『レッド』を率いて行かねばならない。自身の憧れた人のように、全てを背負って。……この心地よい温もりにも、別れを告げなければならない。

 心の中では理解していても、震える身体は林檎を抱き締めたままだった。桜は返事の代わりに嗚咽を漏らし、林檎を抱く手にさらに力を込めた。絶対に離したくないと思った。ずっと傍にいたいと思った。叶わない願いだとしても、せめてもう少しだけこのままでいたかった。林檎は桜の腕の中で、静かにされるがままとなっていた。背中の向こうで彼女がどのような表情をしているのか、桜には知る事は出来ない。未熟者だと思ったかもしれない、情けないと思ったかもしれない。しかし林檎は、最後まで桜のことを叱らなかった。

 桜は縋り付くように小さな身体を抱きしめながら、彼女の存在を噛みしめた。花の香りと心地よい温かさに包まれ、いつまでも泣き続ける。時が止まればいいのにと、桜は心の底から渇望した。




***




「ん……」

 睫毛が震えて、重い瞼が薄く開いた。切り揃えられた前髪から覗く瞳が、段々と大きくなっていく。視界に広がる、ダイニングテーブルの木目。その上に伸びた、自身の腕と手。

「……!」

 ぼんやりとしていた頭は一気に覚醒し、桜は素早く上体を起こした。同時に、肩に掛けられていた物が床へと落ちていった。慌ててフローリングを見下ろせば、椅子の横に厚手の毛布が落ちていた。可愛らしい模様から、恐らく灯のものだろうと推測出来た。桜は毛布を持ちあげて立ち上がると、人影を探すように辺りを見渡した。静かなダイニングルームには、桜の姿しか見当たらなかった。窓から朝日が差し込んで、部屋の中を明るく照らしている。

「梅……朱宮さま……」

 桜は呆けたように呟き、諦め切れないように再度部屋へと視線を這わせた。……誰もいない。

「夢…………」

 窓の外から小鳥の囀る声が聞こえてきていた。見回り後、ダイニングルームで寝てしまい、そのまま朝を迎えたらしい。桜は無意識に肩を落とした。

(当たり前……か。二人は死んでしまったのだから……)

 会えるはずがないのだ。桜は毛布から右手を離すと、おぼろげに掌を見下ろした。

(でも……夢にしてはなんだか……)

 梅と食べたチョコレートの繊細な甘さも、林檎に抱き着いた時の温もりも、鮮明に覚えている。まるで二人が目の前にいたかのように、五感で感じた感覚はどれも現実的だった。桜は掌をそっと閉じた。そこにはチョコレートも、華奢な身体も存在しない。……だけど。

 桜は手をおろすと、顔をあげた。その瞳は朝日に煌めき、前を向いている。

(二人に『レッド』を任せてもらったのだから、前を見なければ)

 夢の中で二人に会ったこと、そして『レッド』を任せて欲しいと宣言したこと。例え幻だったとしても、桜の心の中にはきちんとその光景が残っている。二人に別れを伝えられた奇跡のような時間を、一生忘れたりはしない。引き摺っていた行き場のない思いを、まるで二人が会いに来て断ち切ってくれたような気がした。

 二人を恋しく思ってしまう気持ちは、いけないことなのだろうと思う。しかし夢で逢った今なら、その気持ちと折り合いがつけられる気がした。二人に会いたいと願う桜を、きっと二人は否定したりしないと気が付いたからなのかもしれない。二人を求めてしまう気持ちを、無理に排除しようとする必要はない。どうしても耐えられなくなった時は、きっと甘いものでも食べればいいのだ。灯や茜を誘って、皆で一緒に。桜は一度柔らかく目を細めたあと、瞳を伏せた。

「たまかさんが来るまでに、書類仕事を終わらせないと」

 桜はそう呟くと、椅子をテーブルの下へと仕舞った。その顔は、指揮官のものに戻っていた。やるべきことを頭に思い描きながら、桜は誰もいないダイニングルームを後にした。その足取りは、心を反映したように軽やかだった。

 朝日の差し込む廊下を、桜は小さな身体を揺らして歩いて行った。いつもの真面目な顔で、背筋を伸ばして。




***




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