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黄昏の追憶  作者: 小屋隅 南斎


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第21話

「わたしのこと?」

 林檎は呆けたように桜を見上げていた。年相応の視線に、桜は頷いてみせた。

「はい。朱宮さまは……本はお好きですか? 甘いものは?」

「……そんなことを聞いて、何になるのかしら……」

「何にもなりません。わたくしが単に、知りたいのです」

 呆れと戸惑いの入り乱れた視線を、桜は笑みで受け止めた。

「今の貴女は長ではありません。……もしよろしければ、一から……新しい関係を始めませんか」

 きっと『友達』という名の、新しい関係。常に隣で守り守られてきて、今更過ぎるけれど。幻なら、夢に見たような関係になることを申し出てみてもいいような気がした。世界一遅くて世界一幸せな『友達』の関係があったって、きっといい。林檎は戸惑いの感情を飲み込むように、小さく口を開いた。

「……そうね……。今のわたしは、もう長ではないのだから……」

 桜の言葉を繰り返した後、林檎は小さく微笑んだ。なんだか肩の荷が下りたような、安堵の滲んだ表情だった。

「本を読むことは、好きよ。甘い物も好きだわ。……桜のくれた梅のチョコレート、美味しかったわね」

 威厳に溢れ淡々と答える彼女はもういなかった。林檎はたどたどしく答え、桜に向かってぎこちなくはにかんでみせた。桜はなんだか愛おしさが込み上げ、一緒になって笑みを浮かべた。

「桜も本を読むことが好きよね。中でも歴史や時代物をよく読んでいるわ。甘い物も好きだけれど、大福やどら焼きなど控えめの方が好みでしょう」

「流石、よくご存じですね」

「『レッド』の方々の情報は、逐一収集しておりましたから。些細なことも、何もかも。全ては、抗争で役立てるためだったのだけれど……」

 林檎は視線を桜から部屋の奥へと向けた。桜も釣られて視線の先を振り返る。窓から眩い光が差し込んで、床を照らしていた。温かい陽だまりのような色は朝日にも見えたが、正確な時間は判別できなかった。

「……きっとこれからは、お互いを単に仲間として知る日が来るわ。たまかさんが……きっとそんな世界に作り替える」

 遠い目をして、林檎は凛とした声でそう言った。確信を持っているような声色だった。桜は差し込む陽射しを共に眺めながら、僅かに目を伏せた。こっそりと、林檎へと視線を戻す。あどけなさを少し残した、人形のような顔が視界に現れる。

(その世界を……わたくしは、貴女と迎えたかった)

 唇をきゅっと結び、しかし言葉にはしなかった。せっかくこうして彼女と会話が出来る夢のような一時なのだから、水を差すようなことを言って時間を無駄にするわけにはいかない。

「わ……わたくしも、朱宮さまの好きなものをもっと知りたいです。朱宮さまは、他に何がお好きなのですか」

「そう言われても、あまり思い浮かばないわ。時間があれば、戦局の事ばかり考えていたから……」

 林檎は顎へと上品に手を当て、悩む素振りを見せた。見慣れた姿は、彼女が策を企てるのを傍で見ていた日々に戻ったようだった。しかし今の彼女の表情に冷酷さは微塵もなく、年相応のあどけなさが滲んでいる。

「紅茶は好きよ。あとは……そうね、猫も好きだわ」

「猫、ですか?」

「意外でしょう?」

 自嘲するような小さな笑みに、桜は首を横へと振った。

「いえ、とてもよくお似合いだと思います」

 桜は頬を緩めた。林檎は桜の表情を見て、不思議そうな顔をした。

「そう? 真逆のイメージだと思っていたわ。冷徹で血の通っていないような人間に、あのふわふわとした生き物は似合わないでしょう」

「そんなことはありません」

「そう……?」

 桜は林檎のことを、『冷徹で血の通っていない人間』だとは思っていない。はっきりとした否定の言葉に、林檎は不意を突かれたような呟きを零した。

「たまかさんと一緒に、猫を見たの。ひげがピンと伸びて、大きな耳がピクピクと動いて、つぶらな瞳をしていて、柔らかそうな毛に包まれていたわ。図鑑や写真で見るより、実物の方が何倍も可愛いわね。あなたにも見せたかったわ」

 その光景を思い出しているのか、少し声を弾ませて林檎は言った。僅かに頬を紅潮させてはにかむ顔、舌足らずなソプラノの高い声。初めて見る、素の彼女の姿。

「と言ってもあの時は、可愛いなんて思う余裕もなかったのだけれど。たまかさんを絶対に死なせたりしないと、決めていたから。どこから撃たれてもいいように、いつ襲われてもいいように、一瞬たりとも油断せず警戒する必要があった。わたし、死なせないと決めた人は、手段を選ばずに守り通すと決めているの」

 林檎は平然とした顔で言いながら、髪先を指で掬って耳へと掛けた。長の枷を解いた小さな少女は、素の姿でも気が強く芯のあるところはそのままだった。この性格は長としてのものではなく、彼女のもともとのものだったらしい。桜は林檎のそういうところが大好きだった。そして憧れている部分でもあった。林檎が林檎のままだと感じて、桜はなんだか嬉しくなった。

「……」

 林檎は不意に口を閉じ、じっと桜を見つめた。動かないでいると、本当に人形だと錯覚してしまいそうになるなと桜は思った。その長い睫毛が揺れたのを見て、桜はやっと彼女が人間であることを思い出した。

「……どうされましたか?」

 大きな瞳に真っ直ぐ見つめられ、桜は恥じらいを抑えて首を傾げた。黒い艶やかなおかっぱが肩の上で揺れる。林檎は表情を変えないまま、桜を映す目を細めた。

「わたしが傍にいる以上、死なせないつもりだったけれど。……これからは、わたしは誰のことも守れない。勿論、あなたのことも。……桜の能力を信頼していないわけじゃないのだけれど、少し心配だと思って」

 もう長ではないはずなのに、その眼差しは長の時のものへと戻っていた。……そう、こちらが守っているつもりで、気付いたらいつも彼女に守られているのだ。華奢で小さな身体に反して、彼女の心は全くか弱くない。いつも守ろうと躍起になっている桜より、実はずっと強いのだ。

「あなたは真面目すぎて、固定観念に囚われやすい傾向があるわ。臨機応変に、柔らかく物事を考えるよう意識してみて。あなたは『レッド』における重要な駒なのだから、その価値をきちんと見積もった上での行動を心掛けること。それからあなたは長に忠誠を誓わなければいけないという思考に固執しているようだけれど、必要ならば長の命に背くことも選択肢の一つよ」

 真面目に桜の未来を案じる様子に、桜は口元を緩ませ、力強く頷いて見せた。彼女の心配に感謝し、安心させるように胸を張る。

「承知いたしました。大丈夫です、これからは……自分の身は自分で守ってみせます。それにたまかさんについても、全力を尽くして支えてまいります。ですから……」

 憧れで、理想で、大好きな姿を瞳に映す。彼女の瞳に映る自分の姿が、一人前に見えているように祈りながら。

「貴女の『レッド』は……わたくしに、お任せを」

 ずっと長の役割に囚われ、それを完璧に果たしてきた林檎。後は自分に託して、最後くらい、憂うことなく安らかに眠って欲しいと桜は思った。本当は、未熟な自分では心許ないけれど。林檎が隣にいなければ、駄目駄目なのだけれど。それを出さないように、気丈に目の前の少女を見つめた。

 彼女に言った自分の言葉の重みを、桜は誰よりも理解している。『レッド』を背負う人を、一番傍で見てきたのだから。……でも、大丈夫だ。林檎が次期リーダーを任せてくれた自分ならば、きっと『レッド』を明るい未来へ導くことが出来る。だって、林檎は常に正しいのだ。彼女が信じた自分を信じて、最後まで諦めることなく頭を駆使し続けよう。桜は不安を飲み込み、その瞳に決意を宿した。

「……大丈夫そうね」

 林檎は桜を見上げて、柔らかく目を細めた。桜の心中の不安や葛藤や覚悟も、全て見透かしているようだった。

「ええ、あなたに託すわ」

 鈴のような可憐な声が、はっきりと部屋に響く。それは桜がずっと恋焦がれてきた言葉だった。彼女が心の底から桜に委ね、その顔に安堵の笑みを浮かべる瞬間のために、桜は『レッド』で努力を重ねてきた。目の前には、ずっと切望していた光景が広がっていた。桜はなんだか張り詰めていた糸が緩むのを感じた。こうして林檎の口から聞くと、彼女に次期リーダーを任されたと漸く実感出来た気がした。憧れの長に、自分は認められたのだ。胸に満ちたその喜びと温かさは、不安と恐怖を押し流していった。しかし同時に切なさも込み上げてきて、さざ波が立つように広がっていく。

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